プロローグ

 2032年、春。

 初夏を思わせるほどの日差しがビルの谷間に差し込み、街並みを柔らかな金色に染めている。路上を行き交うのは、次世代電動スクーターや自律走行型の配達ドローン。AIによる交通制御が徹底されて久しいこの都会では、もはや人の手による運転を見かけることはめったにない。

 南野(みなみの)カナは、街の景色に半ば慣れきった表情で電車を降りると、改札へ急いだ。ホームには「スティック・ガイド」と呼ばれる案内ロボットが数体待機しており、乗り換えに迷う乗客に自動で声をかけている。カナはそれを横目に、そのままAI搭載の顔認証改札に近づいた。ガードのような柵すらない改札口を、カナは何の意識も払わずにすいすいと通り抜ける。もちろん切符やICカードは持ち合わせていない。「シグナル・テック」で開発した統合本人認証システムが、一瞬で個人データをスキャンし引き落としを済ませてくれるのだ。

 改札を抜けたところで、カナはスマートグラスに軽く触れた。指先で操作するというよりは、視線の動きやまばたきのリズムによる無意識レベルのコマンドだ。デジタル浮遊表示された“本日の個人最適化ニュース”が視界の端に一覧化される。AIアシスタントが嗅ぎつけた最新情報の数々――会社の業務連絡、友人からのメッセージ、政府の経済指標アップデート、そして流行中のエンタメニュースなどが、優先度順に整理されていた。

 「今日も会議ぎっしりだな……」

 思わずつぶやくと、AIアシスタントが耳元のイヤーピースで応じる。

 「会議は社内が二件、クライアント先とのオンライン商談が一件。昼過ぎには先輩の天海アキラさんとのプロジェクト打ち合わせも予定されています」

 まるで当然のように、AIはカナの一日をサポートしてくれる。ちょっと前までは自分でスケジュール管理をしていたはずなのに、いつの間にかこのAIなしでは仕事が回らない。

 ビルの谷間に出ると、車窓から見えていた巨大ディスプレイが真正面にそびえ立った。ガラス張りの外壁に映し出されているのは、「完全自動運転タクシー」や「ホームロボット」の宣伝映像。カラフルなグラフィックと軽快なBGMが、未来都市そのものを体現しているようだ。乗客が車内でくつろいでいるシーン、家事をこなすロボットが笑顔で挨拶しているシーン――どちらも“理想の暮らし”を視聴者に刷り込むかのように流れている。カナも以前は、こんな広告を見るたびにワクワクしていた。最先端技術が生活を豊かにしてくれると信じて疑わなかったのだ。

 しかし、最近はなぜか心のどこかに引っかかるものを感じる。まるで喉の奥に小さな棘が刺さっているような――そんな感覚。「便利で快適」という言葉が全面に押し出された世界で、カナは漠然とした不安を抱いていた。まるで、すべてがうまく行きすぎている気がするのだ。自動走行中のクルマは渋滞を起こすことなく流れていき、統合AIが交通信号を制御しているから事故もほとんどない。人々は皆、自動化された生活の恩恵を当たり前のように受け取っている。

 (でも、本当にこのままでいいのかな……?)

 思考の片隅にそんな疑問が浮かんだ瞬間、イヤーピースから会社のアシスタントAIの声が響いた。

 「カナさん、心拍数と呼吸の乱れを検知しました。なにかトラブルでしょうか?」

 「……いや、何でもないわ」

 カナは自分でも驚くほど自然に返事してしまう。次第にわかってきたのは、すっかりこのAIを“味方”として受け入れている自分がいるということ。わずかな不安を覚えても、頼れる相手は結局AIしかいないと思い込みかけている。それこそが、自分の不安の根底にあるのかもしれない――そんな考えが脳裏をかすめた。

 「シグナル・テック」のビルはすぐ目の前。きらめく外装は最新の太陽光パネルを兼ね備えており、オフィス内部の電力の多くを自家発電でまかなっているという。急ぎ足でエントランスに向かいながら、カナは広告映像の鮮やかな色彩とは対照的な、言いようのないモノクロ感を意識の中で膨らませていた。

 

逆光のシンギュラリティ:―デジタルが静まる夜に見つけた、本当の光―

2024年から急速に普及が始まった生成AI 
2020年代後半にはシンギュラリティに到達
2030年には人間の多くの活動がAIとロボットに代替、依存
2032年、太陽フレアの活性化による巨大電磁パルスによって世界のAIが停止
人類の底力が試される試練のとき・・・

 ――そんなはずはない。自分が思い描いてきた未来は、もっと前向きで、もっと希望に満ちたものだったのに。

 春先とはいえ、街を照らす日差しはすでに夏を思わせるほど。空調システムが管理するオフィスロビーへ入る直前、一瞬だけ振り返ると、ビルの谷間を行き交う人々と、自動配達ドローンの群れが見えた。みんな当たり前のようにテクノロジーを享受している。その光景のどこに問題があるのか、普通なら疑問すら持たないだろう。

 けれどもカナの胸には、少しずつ大きくなっていく影があった。言葉ではうまく説明できないが、何かが決定的に“脆い”気がする。

 そしてこのとき、彼女はまだ知らない。自分が感じ取った小さな不安が、近い将来に訪れる想定外の大きな波乱の予兆であるということを。

 カナは小さく息を吐いて、会社の自動ドアをくぐった