「~地蔵菩薩になりたい そして次の世に咲く人々を助けたい~」
(石工 松助 ~その2~ 平智地蔵と吉田新兵衛)
(石工 松助 ~その2~ 平智地蔵と吉田新兵衛)
~名言地産地消(14)~
丹後は多くの名士を輩出した。その名言を今丹後に暮らす我々が地産地消していこう。
文政一揆義民、吉田新兵衛 辞世の句
「櫻咲 さくらの山の櫻花 ちる櫻あれば咲く櫻あり
(遺書に自画像地蔵を描く、その心は)
散る桜の私は死して仏縁をいただき地蔵菩薩になりたい
そして次の世に咲く人々をたすけたい」
※「石工 松助を語る」田中尚之著 清水印刷 より引用しています。

大宮町常吉にある平智地蔵、初冬には大きな地蔵尊に蓑を着せる様子がニュースになります。
この地蔵尊、文政五年十二月(1823年)宮津藩で起こった文政一揆に由来があります。
宮津藩主の本荘宗発は幕府の要職についたため、江戸での出費がかさみ、宮津領で過酷な税の取り立てとなった。
そのため、石川村の庄屋、吉田新兵衛が中心となり、宮津藩への強訴となった。
当時の宮津藩は宮津のみならず、与謝、網野、弥栄、大宮南部、由良西部など、丹後を広範囲に治めていたため、
一揆の参加者は、三万人とも五万人とも伝えられ、前代未聞の大騒動となりました。
吉田新兵衛は庄屋であるだけなく、寺子屋で先生もしていた地域のリーダでした。
一揆の参加者は、単なる暴動でなく統制が取れていて、宮津藩は抑えこむことはできず、一揆の要求は通ることとなりました。
ただ、当時のルールでは強訴の首謀者は打ち首となっていため、上記の辞世の句となりました。
吉田新兵衛の死後、縁のある常吉の常林寺勝音和尚が新兵衛の意志をついでやりたいと、地蔵尊建立を動きました。
7万5千人ほどの人から、銀4貫以上(現在価値で5千万円以上)の浄財が集まり、
松助を石工の棟梁として、石工数人がかりで、高さ3.5mの大地蔵尊が納められました。
「天保元庚寅年より壱丈六尺の石地蔵尊を彫刻せんと欲し石工本郡鱒留村松助を以てす。」※上常吉村誌より
この平智地蔵尊、単に大きなお地蔵さまということでなく、また仏法の教えを広めるための仏像のようでもなく、
人間味があって、地蔵尊というより吉田新兵衛の銅像ではないかと思えてしまいます。
右斜めから見ると、子供ではなく、知性があって落ち着いた顔が見受けられます。
寺子屋の先生であった吉田新兵衛を想像することができます。

横からみると、背中に少し丸みがあり、背骨のS字カーブを想像することができます、
あの世の人ではなく、現世を生きる人をモデルにした彫刻芸術のようでもあります。

平智地蔵尊は合掌するポーズをとっています。
現在では合掌地蔵は定番なのですが、昔は左手を立て右手を受けるようにするポーズが定番でした。
吉田新兵衛の遺書でもそのような絵が描かれていたのですが、地蔵尊を企画した定林寺勝音和尚が合掌に変えたようです。
なぜ合掌になったのかは謎なのですが、著名な禅僧、松原泰道氏が次の解説がヒントになるかもしれません。
「仏像を拝む意味は鏡を見るのと自分を見るのとが同意味になるように、仏像を拝むのとわがこころを拝むのと同じレベルにあるのです。
(略)観音さまのお像を拝むのも、またこの道理によるものです。観音像を合掌して拝む営みは、私たちの身中に埋もれている純粋な人間性の存在を信じ、その人間性(人間の本性・仏心)を開発するのが、仏教語の「信心」です。」
※「観音経のこころ」松原泰道著 祥伝社 より引用しています。
つまり、
”吉田新兵衛は人のため動いて、死んでからも人を助けると言っていた。
でもまずは自分を見つめること、そしてまず自分が動くことが大切”
と思い、定林寺勝音和尚は合掌ポーズに変えたのかもしれません。
「自助 共助 公助」という言葉が有名になりました。まずは自助だということでしょうか。
確たる証拠はありませんが。「平智地蔵の謎」といったところです。

拝むということが鏡を見ることと同じであるなら、3.5mの大きな平智地蔵尊は拡大鏡だと思います。
文政一揆義民、吉田新兵衛 辞世の句
「櫻咲 さくらの山の櫻花 ちる櫻あれば咲く櫻あり
(遺書に自画像地蔵を描く、その心は)
散る桜の私は死して仏縁をいただき地蔵菩薩になりたい
そして次の世に咲く人々をたすけたい」
※「石工 松助を語る」田中尚之著 清水印刷 より引用しています。

大宮町常吉にある平智地蔵、初冬には大きな地蔵尊に蓑を着せる様
この地蔵尊、文政五年十二月(1823年)宮津藩で起こった文政
宮津藩主の本荘宗発は幕府の要職についたため、江戸での出費がか
そのため、石川村の庄屋、吉田新兵衛が中心となり、宮津藩への強
当時の宮津藩は宮津のみならず、与謝、網野、弥栄、大宮南部、由
一揆の参加者は、三万人とも五万人とも伝えられ、前代未聞の大騒
吉田新兵衛は庄屋であるだけなく、寺子屋で先生もしていた地域の
一揆の参加者は、単なる暴動でなく統制が取れていて、宮津藩は抑
ただ、当時のルールでは強訴の首謀者は打ち首となっていため、上
吉田新兵衛の死後、縁のある常吉の常林寺勝音和尚が新兵衛の意志
7万5千人ほどの人から、銀4貫以上(現在価値で5千万円以上)
松助を石工の棟梁として、石工数人がかりで、高さ3.5mの大地
「天保元庚寅年より壱丈六尺の石地蔵尊を彫刻せんと欲し石工本郡
この平智地蔵尊、単に大きなお地蔵さまということでなく、また仏
人間味があって、地蔵尊というより吉田新兵衛の銅像ではないかと
右斜めから見ると、子供ではなく、知性があって落ち着いた顔が見
寺子屋の先生であった吉田新兵衛を想像することができます。

横からみると、背中に少し丸みがあり、背骨のS字カーブを想像す
あの世の人ではなく、現世を生きる人をモデルにした彫刻芸術のよ

平智地蔵尊は合掌するポーズをとっています。
現在では合掌地蔵は定番なのですが、昔は左手を立て右手を受ける
吉田新兵衛の遺書でもそのような絵が描かれていたのですが、地蔵
なぜ合掌になったのかは謎なのですが、著名な禅僧、松原泰道氏が
「仏像を拝む意味は鏡を見るのと自分を見るのとが同意味になるよ
(略)観音さまのお像を拝むのも、またこの道理によるものです。
※「観音経のこころ」松原泰道著 祥伝社 より引用しています。
つまり、
”吉田新兵衛は人のため動いて、死んでからも人を助けると言って
でもまずは自分を見つめること、そしてまず自分が動くことが大切
と思い、定林寺勝音和尚は合掌ポーズに変えたのかもしれません。
「自助 共助 公助」という言葉が有名になりました。まずは自助だということで
確たる証拠はありませんが。「平智地蔵の謎」といったところです

拝むということが鏡を見ることと同じであるなら、3.5mの大き
(台を含めた地上高が5.3mで、像自体の高さ3.5m)
心が折れて、自分が見えない時でも、この地蔵尊の前で手を合わせれば見えてくるものもあるかもしれません。
写真は、正午過ぎに撮りに行きました。正面からだと逆光なってしまいました。
でも、まさに後光がさして、神秘的な空間にいる感じがしました。
パワースポットとして第一級ところです。是非訪れてください。
地蔵尊を見るだけでなく、自分の心の中も覗いて下さいね。(友木)
心が折れて、自分が見えない時でも、この地蔵尊の前で手を合わせ
写真は、正午過ぎに撮りに行きました。正面からだと逆光なってし
でも、まさに後光がさして、神秘的な空間にいる感じがしました。
パワースポットとして第一級ところです。是非訪れてください。
地蔵尊を見るだけでなく、自分の心の中も覗いて下さいね。(友木
京丹後市 平地地蔵
https://www.kyoto-kankou.or.jp/info_search/?id=639&r=1602498784.0633
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