「丹後間人に積んじゃる米は どこの百姓の涙米」
江戸時代、宮津藩の積出し港だった間人で歌われていた民謡だとい
「だんご粉つきゃうれしゅてならぬ 食わぬ米つきゃ腹が立つ」
こんな歌があったほど、百姓は食うに食えずの生活だったという。
それでも、積雪期は仕事が出来ないので、百姓は出稼ぎにでるしか
「行けば百日戻れば百姓 どうせ百の字逃げりゃせぬ」
そんな苦しい生活を頑張っても、年貢が払えないと最後は村全体で
百姓の“涙米”が絹屋佐平治の「土地繁栄の業(わざ)を始めん」
丹後ちりめんの成功は、百姓の副業としてその生活を大きく改善す
「久見(久美浜)大野(大宮)の間に、佐野、二箇、五箇、鱒留の
稚挟考(わかさこう)より引用
百姓にとって、兼業は丹後ちりめん創業期から今にいたっても変わ
また、古くからの百姓の兼業が、特産品、食品加工品などが、他の
百姓の兼業は休みなしの大変な重労働です。これは、お年寄りの姿
丹後の百姓にとって、“涙米”の状況は今も変わってないのかもし
ただ、百姓が“百”の字を逃れないのであれば、百歳までお元気で
注)「江戸時代人づくり風土記 26ふるさとの人と知恵 京都」(農山漁村文化協会)を元に記述いたしました。
「~涙米~」
(絹屋佐平治 丹後ちりめん始祖)
~名言地産地消(8)~
丹後は多くの名士を輩出した。その名言を今丹後に暮らす我々が地産地消していこう。
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