唐突ではあるが結論から言って、

おいらは討論というものが好きだ。

言いくるめられてぐぅの音も出ないくらいやり込められるのもいいし、完全に論破して清々しくなるのも好きだ。
何より、討論して互いに素をぶつけ合う瞬間が好きなのだ。

本当に、何をいきなり突然にとは思うだろうが、ここ最近この嗜好を異性と共有したいと、ことあるごとに吹っ掛けては悉く根底から関係が崩壊しているので、ここで一つ宣言しておかなければずっと同じ轍を踏むような気がするから書き綴っている。

ちょっと昔、「偽物語」というアニメをやっていた。
あの作品は元々ラノベの映像化で、基本的に文書体の進行であったため、台詞がいちいち回りくどく必要以上に台詞に時間を割いていた作品だったのだが、あれを見ていて自覚した。"おいらは討論が好きなのだ"と。
台詞を頭で構成しながら追って、同音異義語句を拾ったり聞き間違えを聞き分けたりしてあのアニメを楽しんでいたのだが。
ふと気付いたのは、"話す"というのはそれ自体が一番誰にとっても分かりやすいコミュニケーションだということで、言葉が通じる相手に対しては一番有効な気持ちの伝達方法なのだが、
女性はあえて言葉よりももっと他の、空気感でコミュニケーションを図るのが好きな人が多いことにいささか不満を持っている。

確かに、空気感で伝えられる方がより心に響くし心に残るのだろうが、やはり言葉もなければ完全には理解できないのではないかと思ってしまうのだ。
なんでもない気が抜けた状態でいきなり告られたってなにも響かないし逆に軽々しくさえ感じてしまうだろうが、別の場合として、ひたすら気持ちだけが暴走して「こんなに好きでいるのに告白を避けられて中途半端な状態で居させられる」よりは気持ちを言葉で伝えて玉砕(または成就)された方が、心的ストレスは軽微で済む。

話がズレたが、女性の討論嫌いをどうにかしたいと思うと同時に、なぜ気持ちを伝え合うことを拒否したがるのか理解に苦しむ。
討論を喧嘩と混同している人もいるが、討論は喧嘩ではない。相互理解への手段の一つだ。
好きな気持ちで討論し合えれば一層相手のことがわかるし、もし嫌いな気持ちがあっても分かり合える部分が出てくるかもしれないのに、勿体無いと思うのは自分だけだろうか。

"じゃあこのブログがコメなしなのはなんで?"と思うだろう。
それは、書いたとき思ったことがずっと残ることに否定的だからなのだ。
人は変わり続けながら積み上げて成長するから、一時の感情で縛られては困るのだ。
"ああ、あのときはそんな風に思ってたな"と後になってサラッと思うくらいならばいいが、まずそうはならない。たいていは"ああそうだった、この人はこういう人なのだから自分の認識を変えることは負けることで勝つためには相手が認識を変えてもらわなければ成立しないのだ"と思うのが筋になるだろう。
自分は自分と思っていて何も変わらないと信じているが、実は無意識なところが色々変わっていることにも気付いてないことが多いのだ。
だから一度喧嘩をすると互いに相手が謝らなければ解決しないと思っている人が多数派だし、いつまでたっても幸せは来ないと感じているのだから。

かなり長々と書いてしまったが、要するに


おいらは異性と討論がしたい


のだ。
互いの気持ちをぶつけ合って、その気持ちを自分の中で反芻することで今以上に相手のことを好きになりたいのだ。
しかし、ここ2・3年、この願いは悉く叶わないでいる。仕掛けた直後に喧嘩に発展して相手はヒステリーに陥った挙げ句おいらを心底嫌いになってしまっている。今じゃ連絡もとれないくらいに。
その度に辛い気持ちになるが、必ず意図を汲んでくれる相手と出会えると信じて、おいらは出会いを続けている。

もし、この文章をここまでしっかりと読んでくれた女性がいるなら、多分おいらの気持ちに応えてくれるかもしれないと思う。
もし出会えるなら、これを読んでくれた女性と出会い、話し合えると願う。


トラウマと向き合ってるせいか、震えが止まらない。誤字脱字がないことを祈る。




Android携帯からの投稿