基準は必要だろうか?という根本的疑問
この「好きな映画の“基準”」という言葉に、わずかばかりの抵抗感を覚えてしまった。“基準”という枠組は、「指針や方向性」という意味では必要である反面、「自由な思考を奪う枠」なのではないだろうか?ということが浮かんでしまったのだ。ただ、自分の個性や特徴を明確に意識して、他者に伝えるためには、なんらかの基準は必要であるのかもしれず。おそらく「ジョハリの窓」を解放する作業なのだろう。
ここで「ジョハリの窓」という“枠”を持ち出したのは、backnumberの歌詞のように、枠を二度使うことで、その枠の外にある映画の世界の拡がりを強調したかったんだけれど、どうでもいいか。
映画好きなら、映画から引用するべきなのだろうから、ここで「映画の世界の広さ」を、表現するこのセリフを明記しておきます。
「ネットは広大だわ」
ー「GHOST IN THE SHELL攻殻機動隊」(1995)
反面教師を明確にしてみる
「映画好き」な自分に寄せられる質問として、「オススメ映画」が一番多いわけだけれど、結局「美味いラーメン」や「美味い料理」と変わらず、人それぞれに『苦手な素材』というものはある。ピーマンやニンジンのように、“苦さ”ばかりか“甘いのもダメ”はよくあること。
映画も同じで、過去の体験が影響して思わぬシーンが刺さってくる。セカンドレイプや蕎麦アレルギーと同じレベルで、瀕死のダメージを負うことにもなる。
だから「好きな映画」の対岸には、必ず「嫌な映画」や「嫌いな映画」が、鏡写しに存在するのだ。
私が苦手なのは「虐待描写」で、それも子供や猫といった小動物が、大人の暴力によって与えられる虐待描写は「ダメ!絶対!」なところがある。その反面、子供が起こす暴力には抵抗がないのでハマる。「サイコ・ゴアマン」あたりはその典型だと思う。
「サイコ・ゴアマン」残虐宇宙人が、性格悪い子供に使われて、正義の宇宙人と闘う映画
独断と偏見に満ちた例えをすると、
「marvel嫌いのDC好き スターウォーズ嫌いのスタートレック好き」ということだ。
好きの基準を明確にするためにも、苦手や嫌いを明確にしておくことは必要だ。
リアルかフィクションか
もちろん「ドキュメンタリー映画」以外(※1 は、フィクションなのだが。映画の世界観と現実世界の「距離感」も重要だったりする。
これは、誰かを理解するときの、その人の世界観と自分の世界観のギャップで理解できないことと同じであって、文化の違うところなので、そこを無理に埋めることは難しい。
例えるなら「ミュージカルがダメ」とか「アニメは観ない」とか「アイドルはダメ」といった“苦手まではいかないまでも、あえて観ないモノ”の消去法だ。
その根本が、「リアル系かフィクション系か?」だと思う。ただし、深掘りすると「エクソシスト」はリアルか?フィクションか?という大学の講義にもできそうなテーマとなる。
間違いなく「エクソシスト」の映画内で撮影されていることは“フィクション”なのだが、その題材は現実にあったことであり、登場人物も実在している。ある意味でドキュメンタリーなのだ。
「エクソシスト」(1973)
また、「グレイテスト・ショーマン」も、サーカスを最初に興行した人の伝記であり、実在の人物の物語である。
「グレイテスト・ショーマン」(2017)
事実は小説より不思議だったりするが、この作品を比較するなら、ホラーという「通常はフィクション」であるジャンルと、ミュージカルという「日常に歌劇(フィクション)」を入れるジャンルであるということ。
現実主義的偏見が強いと、それが“基準枠”となってミュージカルやホラーの世界観に浸ることができないのだ。
ミュージカルのヒット作「ラ・ラ・ランド」(2016)は、現実と虚構のバランスが上手く歌劇パートが、観客や登場人物の妄想や幻想ではないか?と感じるように、現実パートでの会話劇はリアルだし、結末もリアルなものだ。スイート&ビターのバランスが絶妙な作品で、数多くの賞を獲った。※2
「ラ・ラ・ランド」(2016)
同じミュージカルパートで、ライアン・ゴズリングの歌声が聴ける「Barbie」(2023)は、評価が割れた。これはガチでフィクションであり、ファンタジーだからだ。「完璧よりも大切なもの」というコピーにもあるテーマは単なるフェミニズムではなかったのだが、一部の理解しない人のフェミニズム運動が過激過ぎて正当な評価を受けられなかった残念な作品だと考えている。
「Barbie」(2023)
「自分がリアル指向なのか、フィクション指向なのか」の基準は、作品を観る大前提で共感度が変わってくるので、その度数を探るのは良いかもしれない。ただ「駄作なのではなく、今の自分に合わない作品なのだ」という評価は、映画を愛する者にとって必要であると考える。
とんでもドキュメンタリー
フィクションのような「ドキュメンタリー」も存在する。現実(リアル)でも、バカなことはあるのだ。この価値観がダメな人は、真面目な人なので、映画というより「記録」を観て学ぶ人なので、好きとか嫌いという基準からハズレると思う。
「スーパーサイズ・ミー」(2004)
大手ハンバーガーショップのメニューを1日3食食べたらどうなるか?しかも、店員が勧めるままに「…はどうですか?」と(ビック◯ックの上のサイズである)スーパーサイズを勧められたら食べるという、バラエティの罰ゲームのようなドキュメンタリー。もちろん医者の診断つき。
「SNS 少女達の10日間」(2020)
10代に観える女優を起用して、SNSでロリコンオヤジを摘発するまでに、オヤジ達のキモ性癖が露呈して、最終的には“10日間で”摘発逮捕に至るというキモ発言内容が過激なためにR15+になってる作品。
日常に近いドキュメンタリーは、ホラーよりも怖いので苦手な人は多いのではないか。
『閑話休題〜映画好きに観てほしいドキュメンタリー』
本では読めない映画音響の世界!!
「ようこそ映画音響の世界へ」(2019)
ゴジラの鳴き声、ガンダムのビームライフルの発射音、現実に存在しない音を創り出す人達の物語。映画ファンとして“舞台裏見学”のような作品
抵抗を感じたら誤魔化さない
好き嫌いの話に戻って「経験と抵抗」というテーマについて考えたい。
人にはそれぞれ「経験」があって、それにもとづいた「抵抗」が存在する。“ピーマンの苦さ”や“トマトの青臭さ”のようなもので、無意識に抵抗はあって、それは父親や母親という関係性に起因すると、父親に似た人や母親に似た人が苦手になる。
映画には、ともすれば極端に描かれたキャラクターが登場するので、そこに嫌いな要素が存在すると、一見していい人でも「嫌なヤツ」という色眼鏡でみてしまう。これは、日常の人間関係も同じ事だ。
現実では元消防士として9.11でも活躍した俳優スティーブ・ブシェミ。とにかくクズ男役が板につく俳優。
「ゲーム・オブ・スローンズ」「ピクセル」などで捻くれた嫌なヤツを演じる名優ピーター・ディンクレイジ。気難しい捻くれ者が上手い。
かわいいのにキツイ女性キャラが度々あるため、個人的にハズレ確定が多い女優 杉咲花さん。スンッ!てなる温度差がきつくて怖い苦手女子キャラ代表。
長い間、個人的に杉咲花さんの演じるキャラに抵抗を感じていたわけなんですが、魅力の反面抵抗感が強くて「このタイプの女子の根源はなんだ?」と誤魔化さずに深掘りしてみたんだけど、コレ書いてて気づいたわ!姉ちゃんだ。まんま、姉ちゃんの温度差や。
そりゃ、リアル感あるわな!
役者より監督にハマる
俳優や女優のファンになって、その出演作品を観ることは映画ファンには多いと思うし、映画の入り口としては、それが一般的なのだろうと思う。
ただ、近年のアニメ作品や特撮映画のように、監督が映画の親である以上、監督を基準とするのは、一番ハマりやすい。
その場合、同じ役者の違う監督作品で、どちらが好きか?という“基準”で残ったカードということになる。
私がすきな監督はデイビッド・クローネンバーグとジョン・カーペンター。ウェス・アンダーソン監督も好き。わりと、リアル感のない映画が好きなのだと思う。
上「遊星からの物体X」(1982)ジョン・カーペンター監督/下「ヴィデオ・ドローム」(1982)デイビッド・クローネンバーグ監督おなじ時代に腹から出したり入れたり。この時代のSFX技術で、腹部表現のリアル感が確立したためだろうか。
結論 好きな基準を考える
『自分が好きな映画はどんな基準があるか?』というテーマを考えてきたわけですが、実はその結論は映画の中にすでに存在しているのです。
その基準を知るために、一番大切な事も映画の中から探し出すこともできるのですから、映画という体験は本当に素晴らしいのです。
自分が好きな映画は、どんな基準があるか?
「燃えよドラゴン」(1973)より
“Don't think,Feel!”
映画を“考える”と、映画分析という学問になります。例えば、上の構図はブルースリーが中心にあり、背景はボケていて聞き役も枠ギリギリであり、このセリフが「観客にダイレクトに伝えるメッセージ」である!という分析になるとか、「ブルースリーの衣装が、冷静な青である」って「後半戦には、白や青の道着という冷静さや礼節を脱ぎ去って戦う」とか。感動から脱線してしまうのです。作り手になるならもちろん必要な知識であり思考なのですが、映画好きには“邪魔な観念”でしかありません。
どうか、基準など考えすぎずに“広大な映画の世界”を楽しんではいかがでしょうか?
※1 ドキュメンタリーも監督の視点・論点が介在するため、編集によってストーリーが“作られる”ため、ある種のフィクションであるともいえる。
※2 『セッション』デイミアン・チャゼル監督作品。日本の映画宣伝は、役者メインで監督に注目しないことが多い。












