後遺症で倒れて約2年。


「倦怠感といっても、歯ブラシを持つのも辛いほどの、鉛のような倦怠感」とテレビで聞いて、これは私のことだと思い、受診につながりました。


そこからは激しい筋肉痛と、文字通り鉛で押しつぶされたような身体の状況で、起き上がることもままならず、しばらくは訪問看護の方をお願いして、ベッドの上で洗髪、清拭してもらわなければならないほどでした。本当に死にたいと思いました。


「埃で人は死なないから」と医師に言われて、掃除など絶対できないような状況。


1年経って、少し改善してきても、どうしてもできないのが掃除機がけ、でした。重いんだもん。


歯磨きができたり、割り箸でなら箸から自分で食事を口に運ぶことができたり(配膳はまだ無理)、3日に1度ならシャワーを浴びることができるようになったり、一つ一つのことに喜んでいましたが、今日、ついに自分で掃除機をかけることができました。


この後、疲労で倒れてしまうかもしれませんが、自分の床に自分で掃除機をかけられるってほんとに素晴らしいことです。


「埃で人は死なない」と内科の先生がおっしゃっていて、それは確かにそうなんですけれども、生命生の維持に関係がない日常の動作でも、人としての尊厳が保たれているということに、改めて気が付きました。


生活している床の上が埃や塵、髪の毛で汚れていて、気になって気になって仕方がなくても、夫にお願いして、謝り倒して、感謝しまくって、掃除機をかけてもらわなければならない状況は、私から尊厳を剥ぎ取られるような状況でした。


自分が気にならない、掃除したくない時はいいんですけど、自分がどうしてもきれいにしたいその瞬間にできないというのは、本当に辛いことでした。


その状態が約2年続きました。


自分が掃除したいときに、自分のゴミを、自分で掃除して片付けられるというのは、人間としてすごく必要な動作だと思いました。大げさでなく。


自分できれいにした床で生活できるのは最高です。


「ちょっと待って」


などと、一言で私の願いを片付けられれば、私はゴミでいっぱいのところに転がっていなくてはなりません。


確かに、死にはしないけど、精神的には苦痛でしかたありません。


その汚れた部屋から出られないわけですから。


また手が空いてそうな時、疲れていなさそうな時、機嫌が良さそうな時を見計らって、「掃除機をかけてください」とお願いして、感謝しなければならないのは本当に辛かった。

その上、四角い部屋を丸く掃かれても、文句はいえません。自分でやったわけじゃないんだから。


いつも気になる場所に髪の毛や埃が残った状態で本当に不快でした。


自分でさっと立ち上がって、掃除機持って、ゴミをとれる。

これだけのことが本当に素晴らしいことだと思いました。


この後痛みと倦怠感で倒れないといいなと思いますが、仮に多少症状がきつく出たとしても、掃除機がけってほんとに素晴らしいと思います。


医師に言いたい。


埃で人は死ねます。


「人が生きる」というのは、生命の維持をしているだけのことではありません。

医師にとっては、生命が維持できればそれで良い(定義として)のかもしれませんが、それではクオリティーオブライフもないし、人としての尊厳がはぎ取られて生命活動を維持していても、私にはあまり意味が感じられません。というか生命活動の維持が苦痛なだけでした。


本当に、筆舌に尽くしがたい辛さでした。


まだまだ歩くこともできないし調理も配膳もできない。あきらめなければならなかったことを変わってしまったことも山ほどあります。


それでも友人が励ましてくれたように「サーズ、マーズの時に、サバイバーの人が2年から3年で回復した」と言う説が正しいのではないかとぼんやり思っています。


後遺症の研究も治療薬も出て来ませんね。


寝たきりにまで進行しなくても、下痢、咳、帯状疱疹等で困っている方は、周りにたくさん出てきました。


はやく良くなりたい。