じめじめとした暑さが目立った日のことだった。
王女の召使いである少女はその日、一部の人間だけが立ち入りを許される植物園で奇妙な人影を見た。
影は植物園の中の、さらに厳重に取り締まられているガラス張りの部屋を見つめていていた。

「......どなたですか」

気づけば、相手が誰であるか分からないのに声をかけていた。
後悔しても時すでに遅く、その人影は少女に気づいて目を細めた。
月の光が邪魔をして表情はよく見えない。しかし、その身長と身体つきから、男であろうことはうかがえる。フードからのぞく青い瞳だけが異様に明るくて奇妙だった。
警戒していると、男が少女を見据えて問うた。

「ここに『桔梗』はあるか」

少し低めの、抑揚のない声だった。見られたこと対する焦りはみじんも感じられず、余裕の態度である。宮殿へ潜り込むぐらいであるから、それなりに肝は据わっているらしい。

「......『キキョウ』とは何でしょうか?あなたは、盗人ですか?」

男は答えない。少女が口を開くのを待っている様だった。

「『キキョウ』などという花は聞いたことがありませんが。......王家のものを盗むなどと言おうものなら即刻捕らえますよ」

「......その前にお前は殺されているだろうがな」

男はさらに目を細め、口元に不気味な笑みを浮かべた。が、すぐに無表情に戻り、辺りを見回した。

「どうやらここにはないようだな。......無駄なことをした」

男はコートを翻すと窓の桟に飛び移った。

「ま、待ちなさい!」

「最後に忠告しておく。王女に伝えてくれ。『桔梗はあんたの手に負える代物じゃあない。被害が出る前に手放すことだ』ってな」

そう言い残し、少女が再び口を開く前に、男は桟から飛び降りて見えなくなった。
窓から見下ろした先には何も残っていなかった。
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「ーーという事件があってだな。その男は」

「結局、その男は行方しれずのままなんでしょ」

「......まあ、その通りなんだが、俺が言いたいのはそのことじゃなくてだな」

「まだ何かあるの?」

急いでいた少女は店主に呼び止められ少々機嫌が悪かった。そんな少女の様子に店主は言いづらそうに頭をかいた。

「お前さん、城に上がるんだろう?今回はその男が何もしなかったから大事にはいたらなかったが、次もそうなるとは限らん。王宮なんてそんなもん日常茶飯事だからな。もしかしたら、口封じに殺される可能性もあるし、あらぬ罪をなすりつけられるかもしれん。うちに泊まった客が死体になって城から出て来たなんて聞いた日にゃ目覚めが悪い。せいぜい気ぃつけてくれや」

「......おじさん、私はあなたに心配されるほど落ちぶれてないわ」

「ええい、可愛げのない娘だな、あんた。人の好意は素直に受け取っとけ!」

「そういうものなの?」

「そういうものなんだよ。大人は子供を思いやるもんだ」

「......おじさんは私の知り合いでも何でもないわよ」

「ああ、もう黙って聞いとけって。お前さん、親からひねくれてるとか絶対言われたことあるだろ」

少女は不思議そうに首をかしげた。

「両親ならいないわ。乳母やがそばに居てくれたけど、そんなこと言われなかったわ」

店主は頭をかいていた手を止めて少女を見た。

「あんた孤児だったのか?そりゃ悪いこと言ったかなあ」

「気にしないで。物心がついたときにはすでに居なかったから記憶もないし、何の感情もわかない。でも、親はいなかったけど、兄弟ならいるの。......とても良い人よ。行く当てのなかった私を引き取って今も面倒を見てくれているの」

やわらかい笑みを浮かべる少女は、この上なく幸せそうだった。

「......無条件の愛情ってやつかね。お前さんの場合はそれが親ではなくて兄弟から捧げられてるんだな。あんたもちゃんと愛されて育てられてるよ」

店主は柔らかい笑みを浮かべた。

「あ、でもおじさんのことも感謝してるの。私みたいな見知らぬ子供の心配をしてくれて。でも、それではおじさんが無駄な気苦労をすることになるから......あんまり肩入れしすぎないでね」

少女の言葉に、店主は眉を寄せた。

「......お前さん、今いくつだ?」

「12だけど、それがどうかしたの?」

店主は真面目な顔をして少女をじっと見つめた。

「お前さんはまだ12歳で立派な子供だ。子供は大人の心配なんかしなくていい。......だから、相手の顔なんてうかがわずに心置きなく自分の好きなようにするといい。あ、だが心配だけはかけるなよ!それ意外ならよし」

そう言って店主は少女の頭をなでた。
少女は恥ずかしそうに目を伏せたあと、小さくわかった、と呟いた。店主はもう一度少女の頭をポンポンとたたくと笑みを浮かべた。

「王都まで歩いていける距離だが注意しろよ。ここは城下町だから悪いやからもいっぱいいるぞ」

「もう、何度も言わなくたって分かってるよ。ーーもう行くね」

「......ああ、元気でな」

気がつけば辺りには店主だけでなく、その奥さんや子供たち、向かいのおばさんや同じ宿泊客なんかまで集まっていた。

「元気でなーーっ!病気に気をつけるんだぞーーっ!」

「わかってるーーっ!」

店主は少女の姿が見えなくなるまで手をふり続けた。
消えてゆく背中を見つめ、店主は嘆息をもらした。

「あの子はまだ王宮の怖さを知らん......。せめて15になるまでは手元に置いとくべきだったな。......王宮使えならなおさらだ。いまさら言っても無駄だがな。あの子の育て親は何を考えているのやら」

店主は少女の境遇を嘆いたが、まさか少女が自ら望んで王宮という名の戦地へ赴いたことは知らなかった。
そして少女は、街で暮らすような『一般人』に心配されるほど非力な少女でもなかった。