マングローブの森

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大叔父は大東亜戦争で、何をして何故戦死してしまったのか。遺族は誰も何も分からないままでした。ひとつの新聞記事の写し。これが遺族にとってすべてでした。この新聞記事は真実なのかな。もっと詳しいことは分からないのかな。そんな思いから、調べています。

大叔父は大東亜戦争で、何をして何故戦死してしまったのか。遺族は誰も何も分からないままでした。ひとつの新聞記事の写し。これが遺族にとってすべてでした。この新聞記事は真実なのかな。もっと詳しいことは分からないのかな。そんな思いから、調べています。

『読売新聞 十七年五月十八日本紙一面中段所載
 池野島村両機自爆
【ビルマ〇〇基地 鈴木、佐藤両特派員十六日発】
 四月廿六日マンダレー東南方ノ銃爆撃ニ出動シタママ消息ヲ断ッテヰタ陸鷲池野島村両機ハ十六日ニ至リ自爆ヲ遂ゲタルコト判明、愛機ト運命ヲ共ニシテ壮烈ナ最期ヲ遂ゲタ
 池野二郎中尉(●●市)、戸塚尚曹長(静岡縣磐田郡●●村)、および島村眞一曹長(群馬縣多野郡●●村)、伊藤吉光伍長(静岡縣)ノ四勇士ノ遺骸ハ僚友ノ手ニヨリ無事〇〇基地ニ収容サレタ。
 廿六日マンダレーカラ敗走スル重慶軍ノ攻撃命令ヲ受ケテ勇躍〇〇基地をヲ離陸シタ池野島村両機ハ、マンダレー東方サジ、ロイレム間ノ公路ニ出動、海抜一千米ノ山ト山ノ間ヲ縫ッテ〇〇米ノ低空飛行ヲ續ケ谷間ノ公路ヲ敗走スル敵ヲ求メテ之ニ猛烈ナ銃爆撃ヲ敢行中地上左右ノ山腹カラ射チ出シタ敵高射機関銃ノ猛射ヲウケテ遂ニ壮烈ナ自爆ヲ遂ゲタノデアッタ。
 池野戸塚島村三勇士ハ昨年十二月ペナン島爆撃に出動して五千噸級ノ敵輸送船を撃沈、敵戦闘機ノ挑戦ヲ物トモセズ悠々任務ヲ果シテ帰還、池野〇隊ノ名で遠藤部隊長カラ輝ク賞詞ヲ興ヘラレ歴戦ノ勇士デ伊藤兵長ハ自爆前日ノ廿五日初陣シタバカリノ若鷲デアッタ。』

今日は大叔父の107回目の誕生日です。

なので、今日は少しブログを更新しようと思いました。

 

防人の譜 

陸軍士官学校・陸軍航空士官学校第五十二期生

 

池野二郎君

 

高島亮一

 

池野二郎君とは航空士官学校卒業後、共に浜松飛行学校軽爆班に学び、昭和14年12月同行卒業。15年1月、満州国延吉、27F(7FB摩下)に着任、彼は第2中隊付、私は第1中隊付となった。第1中隊長は航空区隊長だった乃美魁大尉、又7FBの偵察隊、15F には同じく区隊長だった、西郷従龍大尉がおられた。

一ヶ年全満州を飛んで訓練を重ねた後7FBは16年1月出動命令を受け、南支広東に出陣99襲撃機に機種改変し、訓練と南支派遣軍後宮兵団の作戦に協力した。(FB長河辺虎四郎 F長櫻井肇中佐)

16年5月、方面軍の東江包囲作戦に密接に協力、常に彼我の状況、特に敵の動静を明らかにして方面軍の作戦指導に貢献し、又険峻な山地を縫い、敵の対空射撃により敵弾を受けつつ危険を冒して低空銃爆撃を敢行、特に5月13日、包囲圏内より脱出を企図する敵大部隊を発見、機を失せず全力を以て之を捕捉急襲して徹底的な打撃を与える等の武功に対し、後宮方面軍司令より、飛行団に感状を授与され、畏くも上聞に達っせられた。この時機、戦隊の中心戦力は池野君はじめ52期、53期であってチームワーク以てした、直協作戦の模範的活躍が目に見えるように思い出される。

12月11日、秦領ナコンスリタムラートに進出。

12月13日、戦隊は、75Fと共にペナン島の敵艦船を攻撃した。この攻撃において、池野編隊群は、一万屯級仮装巡洋艦船に直撃弾二発を与えて炎上せしめ、更に二千屯級水上機母艦らしきものに命中弾を与え、FB長の賞詞を附与されたが、待機中の敵戦闘機の邀撃にあい、青木中尉(53期)機を失い、又、銃手1名機上戦死の犠牲を出した。

戦隊は、スンゲーパタニー、イポー、クァンタン、クアラルンプールと躍進して25軍のマレー作戦に協力し、ペラク河橋梁確保、スリム堅陣突破戦闘協力等、襲撃隊の面目を遺憾なく発揮し、昭和17年2月21日第3飛行集団長から感状を授与された。

2月15日、戦隊はパレンバンに躍進、ジャワ攻略作戦の準備を開始した。

3月2日、東海林支隊が、ジャワ、カリジャチ飛行場を占領するや、戦隊は直にここに進出、3月3日、出動した襲撃隊は装甲車を先頭に、カリジャチに突進する敵機甲部隊を発見、直に飛行場に通信筒を投じて報告。ピスト傍の歩兵部隊連射砲は、第一発を先頭の装甲車に命中擱座せしめ、戦隊は爆装して数次に亘り出動し、之に攻撃を加えた。敵は水田中の一本道で前後を遮断され、約180輌を炎上爆破、完全に全滅し、機甲部隊と飛行隊との直接衝突において戦史に例を見ぬ完璧な戦果を挙げた。戦隊は引き続きバンドン攻略に協力、3月9日、全蘭印軍は白旗を掲げ、降伏を申し出で(時に16軍司令官は未着)、この方面の作戦は終わる。3月31日、第3回目の感状を飛行集団長より授与された。その感状には「3FBが蘭印の全面降伏を誘致した。」と記されている。

戦隊は、4月ビルマ転進を命ぜられ、トング―飛行場に前進、10FBの指揮下に入り15軍の作戦に協力を開始、連日出動した。この作戦中、昭和17年4月26日、連戦の勇士、池野二郎大尉はビルマ、マンダレー方面の地上作戦に協力中、重慶軍部隊の弾を受け、遂にサシ東方57kmチエサム付近において壮烈な戦死を遂げた。時に享年24才であった。

彼は、模範的操縦指揮官として闘い、勇名をとどろかした一面、やさしさと静かな落ち着きを持ち、淡々たる態度で任務を遂行し、戦隊長以下の信頼を勝ち得ていた。卒業以来、行を共にし、共に戦ってきた私は、今も、若き戦士たる彼の面影を思い出す。(注、FBは飛行団を示す)

 

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今日はあまり注釈する時間がないのですが・・・

(お誕生日の日を超えちゃうのであせる

 

高島さんは、士官学校からずっと職場も一緒だったわけですが、中隊が違うので、出撃先も役割も違うみたいです。

遠藤飛行団長の日記によれば、高島さんは開戦~しばらく偵察機?だったようなので・・・

偵察機だったら、全く役割も飛ぶ場所も時間も違うと思われるので。

 

追悼文の前半はずっと、27戦隊の戦果をまとめてくださっていて、もちろん二郎大叔父も27戦隊の一員ですから、作戦には参加していたと思いますが、多分中隊が違うと細かい行動までご存じなかったんだろうなと思いました汗

 

新聞では、高射機関銃に撃たれたになってますが、追悼文では「重慶軍の弾を受け」となっていて相手が地上軍なのか戦闘機なのかは分かりません。でも故障で墜落などではなさそうです。味方に撃たれたなどの可能性はなきにしもあらずですが・・・

 

でも最後の一文。「彼は模範的操縦指揮官として闘い・・・」以下は近くにいた方にしか分からない部分だと思いますし、この文章に感動感銘を受けました。

 

「操縦指揮官」とは、ある程度の隊を指揮されていたと読み取れますが、小隊なのか中隊なのかは分かりません。「編隊」という文は見かけますが、その編隊は4機を指揮していたことは分かっています。なので小隊長なのかな?

 

最後の大叔父の飛行機の墜落地は「チエサム」になってますが、戸籍や服部八郎さんの文章では「チエムサ」になっています。

地図でいろいろ調べていますが、それらしき地名はまだ見つけられていません。

あと、大叔父は今日2月2日がお誕生日で23歳になられて2か月と少したった4月26日に戦死しているので23才で戦死です。24才というのは数え・・・なのかなと思われます。

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読売新聞 十七年五月十八日本紙一面中段所載
 池野島村両機自爆
【ビルマ〇〇基地 鈴木、佐藤両特派員十六日発】
 四月廿六日マンダレー東南方ノ銃爆撃ニ出動シタママ消息ヲ断ッテヰタ陸鷲池野島村両機ハ十六日ニ至リ自爆ヲ遂ゲタルコト判明、愛機ト運命ヲ共ニシテ壮烈ナ最期ヲ遂ゲタ
 池野二郎中尉(●●市)、戸塚尚曹長(静岡縣磐田郡●●村)、および島村眞一曹長(群馬縣多野郡●●村)、伊藤吉光伍長(静岡縣)ノ四勇士ノ遺骸ハ僚友ノ手ニヨリ無事〇〇基地ニ収容サレタ。
 廿六日マンダレーカラ敗走スル重慶軍ノ攻撃命令ヲ受ケテ勇躍〇〇基地をヲ離陸シタ池野島村両機ハ、マンダレー東方サジ、ロイレム間ノ公路ニ出動、海抜一千米ノ山ト山ノ間ヲ縫ッテ〇〇米ノ低空飛行ヲ續ケ谷間ノ公路ヲ敗走スル敵ヲ求メテ之ニ猛烈ナ銃爆撃ヲ敢行中地上左右ノ山腹カラ射チ出シタ敵高射機関銃ノ猛射ヲウケテ遂ニ壮烈ナ自爆ヲ遂ゲタノデアッタ。
 池野戸塚島村三勇士ハ昨年十二月ペナン島爆撃に出動して五千噸級ノ敵輸送船を撃沈、敵戦闘機ノ挑戦ヲ物トモセズ悠々任務ヲ果シテ帰還、池野〇隊ノ名で遠藤部隊長カラ輝ク賞詞ヲ興ヘラレ歴戦ノ勇士デ伊藤兵長ハ自爆前日ノ廿五日初陣シタバカリノ若鷲デアッタ。』

さて、いろいろ書きたいことがあるのですが・・・

頭がまとまっていない!!

 

★書きたいこと

その1:フライングタイガース:4月25日の記事を何度か書きましたが、キー51を撃墜したというキャットフィッシュ・レインのこと。レインが撃墜したという場所と撃墜記録の場所であるコンハイピンの場所について

その2:大叔父・二郎さんの追悼文を深堀り

その3:ビルマ航空戦1(梅本弘著)の4月26日の記述と押川静雄さんの手記を重ねてみる。

その4:「空征かば」ビルマ航空戦記の感想

その5:「陸軍航空戦記~ビルマ編~」のDVDを見た感想

 

今週末は、子供たちの運動会。そのあとも次男の病院(エビリファイ飲み始めました。自閉症のお薬です)や次男の親子フォーラム、11月も長男の修学旅行、次男の校外学習、長男の親子フォーラム、中学校体験入学、支援級の親子フォーラム、参観日などなど、目が回りそうです。

 

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いろいろありますが、まずはじめに、S16年12月13日の開戦直後にマレーシアのペナン島を攻めて、二郎さんの池野編隊軍は賞詞を賜ったという記録がありますが、この日に戦死された二郎さんと同じ飛行第27戦隊第二中隊の青木中尉の追悼文について、書いてみたいと思います。

 

書かれたのは、大坂さん(*同じ27戦隊第二中隊の方)です。

*( )内は私の考えです

 

「鎮魂 陸軍士官学校五十三期制・陸軍航空学校五十三期生 陸軍経理学校第二期生」

青木利恒君 

 

青木君は浜飛校(*浜松飛行学校)を修了し15年11月延吉の27戦隊に着任。第二中隊附、早朝の銃剣術稽古など溌剌(*はつらつ)生新の活躍を始めた。

16年1月戦隊の広東移駐に際し、君は風邪を冒して日直勤務や陸軍始の飛行訓練等に頑張り、黄疸を発症して不運にも入院したが、3月4日には広東に追及した。

5月中旬恵州作戦に初陣を飾り、同下旬福州作戦、6月中旬同掃蕩作戦に協力、金門島から悪天候を衝いて出動し、戦果をあげた。

9月下旬「カ」号作戦に呼応する韶関爆撃(*ここの意味が詳しく分からないのですが・・・下記A)に参加の後、11月まで飛行訓練と共に「南方飛行場に関する情報の収集・研究および中隊内への教育(下記B)」を担当して努力し南方作戦に備えた。

12月6日戦隊は悪天候を冒して仏印(現在のラオスのあたり?)進出の途次、東海岸で豪雨に遭い、戦隊長戦死等の損害を出したが、君はこれを克服してコンポンクーナンに進出。9日まで各飛行場の調査や連絡に活躍、10日コタバル(マレーシアの北部コタバル - Wikipedia)に前進し、中隊長代理(*これが誰だか分からない・・・二郎さんとしか考えられない!というのは身内のひいき目?)を補佐して上陸友軍の前進に密接に協力する爆撃行を開始した。

12月13日ペナン島付近敵艦船攻撃に出動、池野編隊軍2番機を操縦、対空砲火を冒して急降下爆撃し、一万屯(トン)級仮装巡洋艦(下記C)を炎上、水上機母艦を航行不能に陥らしめたが、反復爆撃中に現れたバッファロー数機と交戦し、愛機の燃料タンクに被弾出火し、タンジュントツマン岬北東約800米海上に壮烈な自爆戦死を遂げた。

自晳の眼に気迫が籠り、元気一杯の快男児。深い思慮とやさしさを秘めた人柄が上下の信頼、敬愛を集めた好漢であった。君よ安らかに眠り給え。合掌。(大坂利雄記)

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A「カ」号作戦に呼応する韶関爆撃・・・「カ号作戦」といえばこの先に起こる太平洋戦争の「ミッドウェー海戦」で敗北後に【ソロモン群諸島要地奪回作戦 ←Wikipediaより】のことを言うのですが・・・。もしかして、カ号観測機(かごうかんそくき)(第二次世界大戦時に日本陸軍が開発した観測機である。後に改称されオ号観測機となった。←Wikipediaより)のこと?観測機はプロペラのついたヘリコプターみたいなもので、敵地を偵察するものみたいです。「カ号」とは回転した翼、という意です。「韶関」は中国広東州の地名なので、「カ号観測機で偵察した韶関を爆撃する作戦」、という意味?

 

↑この部分、ご教授いただき、当時は「カ号作戦」「タ号作戦」などなど存在していたと知りました。

観測機とは関係なく、作戦に参加して爆撃した、ということですね。

 

B「南方飛行場に関する情報の収集・研究および中隊内への教育」・・・まだこのころは太平洋戦争が始まっていません。なのですが、もう日本軍は着々と開戦の準備をされていたと考えられます。

12月には、開戦のため、南のコンポンクーナン(コンポンクーナンは、カンボジアの中心部)に集合するように命令されて、青木中尉も愛機で広東からコンポンクーナンに移動しています。

集合するには、飛行場の整備、どこの飛行場にどのくらいの飛行機が集まれるか、などの情報を収集されていたと思われます。南方には複数の飛行場があったので・・・

 

*コンポンクーナンは湖のところ。現在コンポンチュナン。

 

C「仮装巡洋艦」・・・仮装巡洋艦(かそうじゅんようかん)は[1]貨客船に火器を備え付けた武装商船の一種で[2]通商破壊作戦や補助的任務に投入された特設艦船のこと[3][注釈 1]補助巡洋艦[注釈 2]特設巡洋艦[注釈 3]とも呼称された。巡洋艦の名称がつけられているが、民間船を改造した艦艇であるため、軍艦とは船体構造が異なる[(ウィキペディアより)

 

【遠藤三郎日誌より】

12月11日(木)

集団命令により秦領マレイ半島ナコン飛行場に躍進す。12時15分到着。加藤戦隊は既に到着戦闘中なるも隷下第59戦隊は18時、第27戦隊は18時30分ようやく到着せるに過ぎず。鈍重なり。

 

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青木中尉の追悼文を読んで感じたことは、やはり大坂さん(27戦隊第二中隊)が書かれた文章は、青木中隊のこと、第二中隊のことがとても詳しく書いてある、ということです。

 

同じ27戦隊の方の手記を読んでいても、第一中隊や第三中隊のことはよく分かっても第二中隊はどうだったんだ?ということが全く分かりませんでした。

 

太平洋戦争開戦前、広東で飛行第27戦隊の第二中隊はいつ何をしていたのかも、ここで初めて分かりました。

なぜ、遠藤さんに「鈍重」と呼ばれるくらいナコンに来るのが遅かったのか、何をしていたのかも書かれています。

 

青木中尉が戦死されたときのペナンの様子も、大坂さんが一緒に戦っていたからここまで詳しく分かるわけで・・・

 

飛行機に乗っていない遠藤部隊長や飛行機技術士の服部八郎さんの手記からは分からなかった、現場の過酷な様子が伝わりました。

 

写真の青木中尉、とてもハンサムです。そして若いです。20代前半だと思われるので当たり前ですが・・・

手記を読んだ感想として、やはり私の大叔父たちを含め、青木中尉もこんなに若くて優秀な若者が亡くなる理由が戦争だなんて、やりきれません。現在の今、この瞬間においても戦争が行われているなんて本当にあってはならないことだと思います。犠牲になるのは、何も悪くない一般人ばかり。中枢にいる人は自分が死の淵に立たないからわからないのでしょうか。

さて、この新聞記事をもとに、大叔父の二郎さんを追い求めて1年以上経ちました。

前回の記事を書いてから2か月以上経っています・・・

 

前回書いていた、ドン・フォード著の「フライングタイガース」に出てきた

昭和17年4月25日のページ。

 

 

 

ここで、詳しく書きましたが、この戦いで一番戦果を挙げたのが「Catfish Raine」という人です。

 

when Catfish Raine came on the scene,he saw six Kittyhawks makeing runs on one of the scouts,so he went after the other.

"The Jap burst into flames," he reported. "As I pulled over him about 30ft. the Jap looked as though he was trying to jump. The plane crashed just about 500ft. from where he caught fire."Mysteriously,the two scouts become three in the AVG record.Raine credited with one and all seven pilots dividing the credit for two more.

 

↑上の部分です。

ソニア2機(襲撃機と思われます。偵察機は爆弾をぶら下げていませんので)を見つけて、キティホーク(戦闘機)で攻撃して撃墜した、とLinkLaughlinは報告した。 

 

そしてその次の個所が上の英文です。

「キャットフィッシュレインがその現場に来た時、6機のキティホーク(戦闘機)が偵察機(と書いてますが襲撃機と思われます)のうちの1機を攻撃しているところだったので自分も他の機を追った。『ジャップ(日本人の差別的な呼び方)は爆発して炎に包まれた』と彼は報告した。『私は敵機の30フィート(9m)ほど上空へ行った。ジャップ何とか飛び降りようとしているように見えた。敵機は火を噴いた辺りから500フィート(152.4m)くらいのところに墜落した。不思議なことに2機の偵察機(襲撃機)は連合軍の記録では3機になってしまっている。レインは1機撃墜の功績、そしてレインを含めた7人のパイロットで2機~分の撃墜を分け合っている。

 

となっています。

まず、scoutですが、「偵察」という意味ですが、偵察機は2機で飛びません。隠密行動で1機で飛びます。キ-51は確かに偵察機でもありますが、九九襲撃機でもあります。そして、偵察機は爆弾をぶら下げていません。この時攻撃された二機のキー51は爆弾をぶら下げていたので、九九襲撃機で間違いないと思います。

 

キャットフィッシュレインは、ほかの戦闘機と一緒に、残った1機を追いかけて墜落させたと報告しています。

不思議なことに連合軍(多分アメリカと中国?AVG)の記録では3機撃墜になっている。

レインが1機、レインを含めた全員の7人で2機~の撃墜を報告して、お給料とは別に1機撃墜につき、プラスの報奨金をもらっています。

 

この文章の続きに、この時自爆したのは、飛行第27戦隊の丸山少佐他3名だと書かれています。日本の新聞記事にもそう書いていますが、私は何度か書いているように、この2機は大叔父の二郎さんたちではないか、と疑っています。

 

理由1:2機が近いところに墜落している。二郎さんたちも「池野機と島村機」がわりと近くに墜落していると考えられるから。

 

↑ドンフォードの「フライングタイガース」の中の文章からは、二機が近くに落ちていると思われる内容は見つからないとの指摘をいただきました。

なので、近いうちに、服部八郎さんの二郎さんの墜落機捜索の文章を詳しく検証してみたいと思います。(2/2追記)

 

理由2:AVGの記録では「3機撃墜」になっている。4月26日、二郎さんたちも3機で出撃している。

 

以上のことが、↓の記事で分かるように書いています。

 

 

 

 

さて、「FlyngTigers」の中で「ローウィンを15時に出発し、コンハイピン近くで2機のキー51を見つけた」となっています。

「コンハイピン」とはKonghai-pingという綴りで、「モンクン」のすぐ北にあります。
ラシオはもっともっと北ですが私の書いた覚書の位置図ではモンクンとラシオが近く見えますが違います~。
 
つまり、コンハイピンで近くで墜落しているのは、丸山少佐他3名で間違いなさそうなんです。
二郎さんたちの墜落場所はサジ東57kmの「チエムサ」なので、だいぶ遠いです。
 
だがしかし、「Catfish Raine」という人物で調べると・・・
「1942年4月25日土曜日、彼はロイレム上空で日本の三菱Ki-15「ソニア」を2機撃墜しました。」
となっています。
「ロイレム上空」ですって??
 
だとすると、サジから東へ行ったところです。
二郎さんの墜落現場である「チエムサ」の東です。
丸山少佐の墜落現場である「ナムク」の南です。
ちょうどこの墜落現場の間にあるのが「ロイレム」なんです。
 
アメリカ側のフライングタイガースのホームページなので、信頼できる情報だと思えるのですが、「ロイレム」上空となると、どちらの飛行機の描写なのか、本当に分からなくなってきました。
 
なぞは深まるばかり。
 
 
大叔父は大東亜戦争で、何をして何故戦死してしまったのか。遺族は誰も何も分からないままでした。ひとつの新聞記事の写し。これが遺族にとってすべてでした。この新聞記事は真実なのかな。もっと詳しいことは分からないのかな。そんな思いから、調べています。

『読売新聞 十七年五月十八日本紙一面中段所載
 池野島村両機自爆
【ビルマ〇〇基地 鈴木、佐藤両特派員十六日発】
 四月廿六日マンダレー東南方ノ銃爆撃ニ出動シタママ消息ヲ断ッテヰタ陸鷲池野島村両機ハ十六日ニ至リ自爆ヲ遂ゲタルコト判明、愛機ト運命ヲ共ニシテ壮烈ナ最期ヲ遂ゲタ
 池野二郎中尉(●●市)、戸塚尚曹長(静岡縣磐田郡●●村)、および島村眞一曹長(群馬縣多野郡●●村)、伊藤吉光伍長(静岡縣)ノ四勇士ノ遺骸ハ僚友ノ手ニヨリ無事〇〇基地ニ収容サレタ。
 廿六日マンダレーカラ敗走スル重慶軍ノ攻撃命令ヲ受ケテ勇躍〇〇基地をヲ離陸シタ池野島村両機ハ、マンダレー東方サジ、ロイレム間ノ公路ニ出動、海抜一千米ノ山ト山ノ間ヲ縫ッテ〇〇米ノ低空飛行ヲ續ケ谷間ノ公路ヲ敗走スル敵ヲ求メテ之ニ猛烈ナ銃爆撃ヲ敢行中地上左右ノ山腹カラ射チ出シタ敵高射機関銃ノ猛射ヲウケテ遂ニ壮烈ナ自爆ヲ遂ゲタノデアッタ。
 池野戸塚島村三勇士ハ昨年十二月ペナン島爆撃に出動して五千噸級ノ敵輸送船を撃沈、敵戦闘機ノ挑戦ヲ物トモセズ悠々任務ヲ果シテ帰還、池野〇隊ノ名で遠藤部隊長カラ輝ク賞詞ヲ興ヘラレ歴戦ノ勇士デ伊藤兵長ハ自爆前日ノ廿五日初陣シタバカリノ若鷲デアッタ。』

 

 

昨日、この記事を書き上げたところで、消えてしまいました・・・
ショックすぎる。詳しく書いたのに~悲しい
 
さて、気を取り直して、最近買ったもので、雑誌です。
MIRITARY CLASSICS Vol91
 
 
九九襲撃機が詳しく載せられています。
この機がこんなに詳しく載ってるのって初めてかもしれません。
 
表紙に書かれている
「軽快な運動性、頑丈な構造、高い信頼性を備え地上部隊を支援した隠れた殊勲機」
そうそう、そうなんですよ!!
 
ざっと読んだところ、
●塗装とマーキング→二十七戦隊載ってません。8機くらい載ってましたが。
●メカニズム→詳しいです。すごい構造です。計器盤もありましたが、こんなの見て操縦してたなんてすごすぎると思ってしまいました。33番まで何かしらあるんですよ。
1.機密高度計 2.速度計 3.昇降計・・・って。
こんなの読めば読むほど、二郎大叔父ってすごいなあって思ってしまいます。
 
操縦もして、射撃もして、敵に気を配り、編隊を崩さず・・・って。
これを連日されてたと思うと、その精神力も体力も、超人級なのでは。
 
●開発経緯→あまり興味もなく難しいので読んでませんあせる
●部隊編成と運用方法
これ見てると。。。ひとつの中隊につき16機ずつ所有ということでしょうか。
 
この第二中隊に二郎さんは所属していたのは分かっているのですが、小隊が4つあるということですよね。
二郎さんは、中隊長(代理)だと思っていたのですが、どうやら↑を見ると、小隊長だったのかなという気がしました。
 
もしかしたら、中隊長代理だったかもしれませんが。
中隊長って、開戦当初は士官学校48期とか4〇の期の方がされてたと思うんです。
以前にも書きましたが、第二中隊の中隊長(開戦前)は、48期の佐藤大尉。↓戦史にも書かれています。

 

 

戦史叢書を読んでいると、やはり開戦にあたって、南方に集合しているとき、中隊長は4●期の方ばかりです。

二郎大叔父は52期なので、中隊長をやるには若すぎるんです・・・

中隊長は20代後半の方ってところでしょうか。この時、二郎大叔父は22歳。

(昭和17年2月に23歳になられ、4月に戦死)

 

そして、戦争が激化し、中隊長をされてる方も次々戦死され、52期~の若い方も中隊長になっておられます。

マレーやシンガポール、ビルマを攻めている昭和16年~17年はまだ開戦当初で日本も勝っていたころなので、二郎さんの年代の方が中隊長になっている例がないのです。

 

●襲撃機の戦歴

◎S15-16年―中国大陸方面航空作戦・・・二十七戦隊のことが多く書かれています。

◎南方進行作戦 マレー・蘭印方面の航空作戦・・・ほぼほぼ二十七戦隊のことが書かれています。

戦史にも、そう書かれていますし、二十七戦隊の高島さんや押川さんも詳しく手記を残されていますしね。

 

 

大叔父は前半の昭和17年4月に亡くなってるので、これ以降の戦歴とやらは読んでいませんネガティブ

とりあえず、やはり襲撃機といえば飛行第27戦隊なのだろうな、という感じがしました。

この辺り(二郎さんが亡くなるまで)を読んでいると。

でも、写真とかマーキングの絵とかは27戦隊全然ないんですショボーン

記録が残っていないということですよね・・・

 

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この特集の1ページ目に書かれている

九九襲撃機の大戦果「ジャワ」。

 

「昭和7年3月2日、西部ジャワ上陸軍がジャワ島に上陸し、カリジャティ飛行場を確保すると飛行第二十七戦隊の九九式襲撃機は同日に進出した。翌3日夕刻にはバンドン飛行場へ向かう百数十輌の蘭印軍車列を発見、九九式襲撃機はまず先頭、次いで最後尾の車輌を撃破した後、水田の中の一本道で動けなくなった敵車両を数次に渡り攻撃した。ヴィッカーズ6トン戦車やユニバーサルキャリアなど車輛179輌を撃破(地上での戦果調査に基づく)九九式襲撃機は戦史上類を見ない大戦果を挙げたのである。」

 

とあります。これは戦史叢書などに残されていることだと思います。

高島亮一さんも、この戦いに参加されたようで、とても詳しく手記を残されています。

 

実際のところ、どうだったのか。

「防人の譜」という、二郎さんの追悼文も載せられている士官学校52期の方たちの本です。その中で書かれているジャワ島の部分。

陸軍の地上軍の偉い人たちの手柄になっているようですね。

実際は第三飛行団の活躍が大きかったようですが・・・

 

こうやって、戦史って、誰か(軍の偉い人たち)の都合のいいように書かれているんだなと感じます。

 

戦死してしまった大叔父は何も発することができません。

何も記録も残ってません。

 

そのことが歯がゆいです。事実を知りたいです。

 

大叔父は大東亜戦争で、何をして何故戦死してしまったのか。遺族は誰も何も分からないままでした。ひとつの新聞記事の写し。これが遺族にとってすべてでした。この新聞記事は真実なのかな。もっと詳しいことは分からないのかな。そんな思いから、調べています。

『読売新聞 十七年五月十八日本紙一面中段所載
 池野島村両機自爆
【ビルマ〇〇基地 鈴木、佐藤両特派員十六日発】
 四月廿六日マンダレー東南方ノ銃爆撃ニ出動シタママ消息ヲ断ッテヰタ陸鷲池野島村両機ハ十六日ニ至リ自爆ヲ遂ゲタルコト判明、愛機ト運命ヲ共ニシテ壮烈ナ最期ヲ遂ゲタ
 池野二郎中尉(●●市)、戸塚尚曹長(静岡縣磐田郡●●村)、および島村眞一曹長(群馬縣多野郡●●村)、伊藤吉光伍長(静岡縣)ノ四勇士ノ遺骸ハ僚友ノ手ニヨリ無事〇〇基地ニ収容サレタ。
 廿六日マンダレーカラ敗走スル重慶軍ノ攻撃命令ヲ受ケテ勇躍〇〇基地をヲ離陸シタ池野島村両機ハ、マンダレー東方サジ、ロイレム間ノ公路ニ出動、海抜一千米ノ山ト山ノ間ヲ縫ッテ〇〇米ノ低空飛行ヲ續ケ谷間ノ公路ヲ敗走スル敵ヲ求メテ之ニ猛烈ナ銃爆撃ヲ敢行中地上左右ノ山腹カラ射チ出シタ敵高射機関銃ノ猛射ヲウケテ遂ニ壮烈ナ自爆ヲ遂ゲタノデアッタ。
 池野戸塚島村三勇士ハ昨年十二月ペナン島爆撃に出動して五千噸級ノ敵輸送船を撃沈、敵戦闘機ノ挑戦ヲ物トモセズ悠々任務ヲ果シテ帰還、池野〇隊ノ名で遠藤部隊長カラ輝ク賞詞ヲ興ヘラレ歴戦ノ勇士デ伊藤兵長ハ自爆前日ノ廿五日初陣シタバカリノ若鷲デアッタ。』

 

 

 

↓この新聞記事を読んで大叔父の二郎さんの戦跡を辿って1年半が経ちました。
最近は全然進んでなくて、書かないうちに、何を書いてどこまで調べていたのかも忘れがち・・・
 
同じこと何度も書いたり、調べたり・・・
我ながら、悲しくなります悲しい
もっと短いのを日を開けずに書けばいいものを・・・
 
ここ最近でパソコンが壊れたり、スマホが壊れて機種変更したりしてるうちに、記録までどこに行ったか分からなくなったり、スマホの操作が分からなくて写真データの上げ方が分からなかったりで、ブログを頓挫してしまってた次第です。
 
大叔父は大東亜戦争で、何をして何故戦死してしまったのか。遺族は誰も何も分からないままでした。ひとつの新聞記事の写し。これが遺族にとってすべてでした。この新聞記事は真実なのかな。もっと詳しいことは分からないのかな。そんな思いから、調べています。

『読売新聞 十七年五月十八日本紙一面中段所載
 池野島村両機自爆
【ビルマ〇〇基地 鈴木、佐藤両特派員十六日発】
 四月廿六日マンダレー東南方ノ銃爆撃ニ出動シタママ消息ヲ断ッテヰタ陸鷲池野島村両機ハ十六日ニ至リ自爆ヲ遂ゲタルコト判明、愛機ト運命ヲ共ニシテ壮烈ナ最期ヲ遂ゲタ
 池野二郎中尉(●●市)、戸塚尚曹長(静岡縣磐田郡●●村)、および島村眞一曹長(群馬縣多野郡●●村)、伊藤吉光伍長(静岡縣)ノ四勇士ノ遺骸ハ僚友ノ手ニヨリ無事〇〇基地ニ収容サレタ。
 廿六日マンダレーカラ敗走スル重慶軍ノ攻撃命令ヲ受ケテ勇躍〇〇基地をヲ離陸シタ池野島村両機ハ、マンダレー東方サジ、ロイレム間ノ公路ニ出動、海抜一千米ノ山ト山ノ間ヲ縫ッテ〇〇米ノ低空飛行ヲ續ケ谷間ノ公路ヲ敗走スル敵ヲ求メテ之ニ猛烈ナ銃爆撃ヲ敢行中地上左右ノ山腹カラ射チ出シタ敵高射機関銃ノ猛射ヲウケテ遂ニ壮烈ナ自爆ヲ遂ゲタノデアッタ。
 池野戸塚島村三勇士ハ昨年十二月ペナン島爆撃に出動して五千噸級ノ敵輸送船を撃沈、敵戦闘機ノ挑戦ヲ物トモセズ悠々任務ヲ果シテ帰還、池野〇隊ノ名で遠藤部隊長カラ輝ク賞詞ヲ興ヘラレ歴戦ノ勇士デ伊藤兵長ハ自爆前日ノ廿五日初陣シタバカリノ若鷲デアッタ。』

 

二郎さんの士官学校の追悼文を書いていこうかと思って、もう一度読んでみたのですが。

注釈がいると思うんですよ、この部分はこうだ、とか、ほかの本にこう書いてあるからこう思うとか、その考えの裏付けとか。

 

それが、膨大すぎて、たぶん3時間くらい書くのにかかりそうなので、やめました(笑)

もう少し時間があるときに、二郎さんの追悼文は載せたいと思います。

 

最近買ったものその1。

ディアゴスティーニ「第二次世界大戦 日本の傑作機コレクション:中島一式戦闘機 隼(キ-43)」です。

 

なぜこれ買ったかというと、二郎さんの乗ってた九九襲撃機(キ-51)と同時期に同じ第三飛行団に所属していたチーム飛行第64戦隊の飛行機であり、このメンバーと飛行第27戦隊の二郎さんは、一緒に闘っていたと考えられるからです。

 

組み立てるとこんな感じ。(右端)

ちなみに、左下は九九襲撃機のプラモデルです。

値段の差もあって、すごい見た目も違いますが。。。

ディアゴスティーニで九九襲撃機も出てほしいですが、どうかなあ・・・

 

この隼についていた冊子には、(冊子というかパンフレット的な)

隼の歴史や構造が書かれてます。

 

最後のページは、隼に乗っていた人たちのことが書かれてます。

有名な6人は写真付き。

●加藤建夫中佐

ずっとタケオさんだと思ってたらタテオさんだった。

言わずと知れた軍神。追悼歌謡や映画も公開されてます。

●穴吹智曹長

この方もずっと知ってました。私もブログで書いた覚えがあります。










↑この本に服部八郎さんが、二郎さんのことを詳しく書いてくださってるのですが

 

 

 

 

この少年飛行兵史の中に、穴吹さんも詳しく手記を載せられています。

「ビルマの桃太郎」と呼ばれた撃墜王だそうです。

 

●黒江保彦少佐

この方も、私、ブログ内で手記を載せました。

 

黒江さん、襲撃機のことを、とてもよく書いてくださってたので感動して照れ

S17年4月に64戦隊の副長として配属され、加藤建夫さんの戦死後は戦隊長となられます。

たぶん、黒江さんも開戦後からビルマまで、二郎さん達と共に戦われていたと思われます。

このパンフレットによると終戦後、釣りの最中に事故死されたとあり、驚きました。

 

●檜與平少佐

この方も、ビルマ航空戦(梅本弘著)の中で、多くお名前をお見かけした64戦隊の所属の方だったので知ってました。

加藤建夫さんの僚機をされた真の撃墜王だそうです。

 

●宮部英夫少佐

64戦隊の最後の指揮官だそうです。二郎さん亡き後のことなので、全く知らずにいました。すみません。

 

●南郷茂男中佐

昭和18年からニューギニアに赴かれて指揮官をされたそうです。(昭和19年戦死)

この方も、二郎さんと関りがないようなので、全く知りませんでした。

 

そのほか、日本陸軍の撃墜王たち、ということで黒江さんや穴吹さん含め42名のお名前が載ってますが、全員隼に乗られてたのでしょうか??

戦闘機じゃないと撃墜王とか呼ばれないでしょうし、そうなのかなあ・・・

 

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ほかにも、最近買ったものは何個かあるので、こまめにブログあげれるよう頑張りますあせる

さて、いろいろ書きたいことがあるのですが・・・

頭がまとまっていない!!

 

★書きたいこと

その1:フライングタイガース:4月25日の記事を何度か書きましたが、キー51を撃墜したというキャットフィッシュ・レインのこと。レインが撃墜したという場所と撃墜記録の場所であるコンハイピンの場所について

その2:大叔父・二郎さんの追悼文を深堀り

その3:ビルマ航空戦1(梅本弘著)の4月26日の記述と押川静雄さんの手記を重ねてみる。

その4:「空征かば」ビルマ航空戦記の感想

その5:「陸軍航空戦記~ビルマ編~」のDVDを見た感想

 

今週末は、子供たちの運動会。そのあとも次男の病院(エビリファイ飲み始めました。自閉症のお薬です)や次男の親子フォーラム、11月も長男の修学旅行、次男の校外学習、長男の親子フォーラム、中学校体験入学、支援級の親子フォーラム、参観日などなど、目が回りそうです。

 

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いろいろありますが、まずはじめに、S16年12月13日の開戦直後にマレーシアのペナン島を攻めて、二郎さんの池野編隊軍は賞詞を賜ったという記録がありますが、この日に戦死された二郎さんと同じ飛行第27戦隊第二中隊の青木中尉の追悼文について、書いてみたいと思います。

 

書かれたのは、大坂さん(*同じ27戦隊第二中隊の方)です。

*( )内は私の考えです

 

「鎮魂 陸軍士官学校五十三期制・陸軍航空学校五十三期生 陸軍経理学校第二期生」

青木利恒君 

 

青木君は浜飛校(*浜松飛行学校)を修了し15年11月延吉の27戦隊に着任。第二中隊附、早朝の銃剣術稽古など溌剌(*はつらつ)生新の活躍を始めた。

16年1月戦隊の広東移駐に際し、君は風邪を冒して日直勤務や陸軍始の飛行訓練等に頑張り、黄疸を発症して不運にも入院したが、3月4日には広東に追及した。

5月中旬恵州作戦に初陣を飾り、同下旬福州作戦、6月中旬同掃蕩作戦に協力、金門島から悪天候を衝いて出動し、戦果をあげた。

9月下旬「カ」号作戦に呼応する韶関爆撃(*ここの意味が詳しく分からないのですが・・・下記A)に参加の後、11月まで飛行訓練と共に「南方飛行場に関する情報の収集・研究および中隊内への教育(下記B)」を担当して努力し南方作戦に備えた。

12月6日戦隊は悪天候を冒して仏印(現在のラオスのあたり?)進出の途次、東海岸で豪雨に遭い、戦隊長戦死等の損害を出したが、君はこれを克服してコンポンクーナンに進出。9日まで各飛行場の調査や連絡に活躍、10日コタバル(マレーシアの北部コタバル - Wikipedia)に前進し、中隊長代理(*これが誰だか分からない・・・二郎さんとしか考えられない!というのは身内のひいき目?)を補佐して上陸友軍の前進に密接に協力する爆撃行を開始した。

12月13日ペナン島付近敵艦船攻撃に出動、池野編隊軍2番機を操縦、対空砲火を冒して急降下爆撃し、一万屯(トン)級仮装巡洋艦(下記C)を炎上、水上機母艦を航行不能に陥らしめたが、反復爆撃中に現れたバッファロー数機と交戦し、愛機の燃料タンクに被弾出火し、タンジュントツマン岬北東約800米海上に壮烈な自爆戦死を遂げた。

自晳の眼に気迫が籠り、元気一杯の快男児。深い思慮とやさしさを秘めた人柄が上下の信頼、敬愛を集めた好漢であった。君よ安らかに眠り給え。合掌。(大坂利雄記)

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A「カ」号作戦に呼応する韶関爆撃・・・「カ号作戦」といえばこの先に起こる太平洋戦争の「ミッドウェー海戦」で敗北後に【ソロモン群諸島要地奪回作戦 ←Wikipediaより】のことを言うのですが・・・。もしかして、カ号観測機(かごうかんそくき)(第二次世界大戦時に日本陸軍が開発した観測機である。後に改称されオ号観測機となった。←Wikipediaより)のこと?観測機はプロペラのついたヘリコプターみたいなもので、敵地を偵察するものみたいです。「カ号」とは回転した翼、という意です。「韶関」は中国広東州の地名なので、「カ号観測機で偵察した韶関を爆撃する作戦」、という意味?

 

B「南方飛行場に関する情報の収集・研究および中隊内への教育」・・・まだこのころは太平洋戦争が始まっていません。なのですが、もう日本軍は着々と開戦の準備をされていたと考えられます。

12月には、開戦のため、南のコンポンクーナン(コンポンクーナンは、カンボジアの中心部)に集合するように命令されて、青木中尉も愛機で広東からコンポンクーナンに移動しています。

集合するには、飛行場の整備、どこの飛行場にどのくらいの飛行機が集まれるか、などの情報を収集されていたと思われます。南方には複数の飛行場があったので・・・

 

*コンポンクーナンは湖のところ。現在コンポンチュナン。

 

C「仮装巡洋艦」・・・仮装巡洋艦(かそうじゅんようかん)は[1]貨客船に火器を備え付けた武装商船の一種で[2]通商破壊作戦や補助的任務に投入された特設艦船のこと[3][注釈 1]補助巡洋艦[注釈 2]特設巡洋艦[注釈 3]とも呼称された。巡洋艦の名称がつけられているが、民間船を改造した艦艇であるため、軍艦とは船体構造が異なる[(ウィキペディアより)

 

【遠藤三郎日誌より】

12月11日(木)

集団命令により秦領マレイ半島ナコン飛行場に躍進す。12時15分到着。加藤戦隊は既に到着戦闘中なるも隷下第59戦隊は18時、第27戦隊は18時30分ようやく到着せるに過ぎず。鈍重なり。

 

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青木中尉の追悼文を読んで感じたことは、やはり大坂さん(27戦隊第二中隊)が書かれた文章は、青木中隊のこと、第二中隊のことがとても詳しく書いてある、ということです。

 

同じ27戦隊の方の手記を読んでいても、第一中隊や第三中隊のことはよく分かっても第二中隊はどうだったんだ?ということが全く分かりませんでした。

 

太平洋戦争開戦前、広東で飛行第27戦隊の第二中隊はいつ何をしていたのかも、ここで初めて分かりました。

なぜ、遠藤さんに「鈍重」と呼ばれるくらいナコンに来るのが遅かったのか、何をしていたのかも書かれています。

 

青木中尉が戦死されたときのペナンの様子も、大坂さんが一緒に戦っていたからここまで詳しく分かるわけで・・・

 

飛行機に乗っていない遠藤部隊長や飛行機技術士の服部八郎さんの手記からは分からなかった、現場の過酷な様子が伝わりました。

 

写真の青木中尉、とてもハンサムです。そして若いです。20代前半だと思われるので当たり前ですが・・・

手記を読んだ感想として、やはり私の大叔父たちを含め、青木中尉もこんなに若くて優秀な若者が亡くなる理由が戦争だなんて、やりきれません。現在の今、この瞬間においても戦争が行われているなんて本当にあってはならないことだと思います。犠牲になるのは、何も悪くない一般人ばかり。中枢にいる人は自分が死の淵に立たないからわからないのでしょうか。

前回、大叔父の発言(?)

シンガポールを占領した日本軍が、その先、「ビンタン島」を攻めた時に

そこには、敵はいなかった、という記事。

 

「ビンタン島占領」

 

これが字がつぶれてて読めないぜ!というところで終わっていましたが、

mt198503様から力強い手助けをいただき、また私自身もこの昭和17年2月22日の読売新聞をオークションでゲットしウシシ解読を進めました!!!

 

 

 

ビンタン島占領 昭南島東南 皇軍戦果拡大

○○前線基地本社特電】(廿一日發)

昭南島周邊の掃を進めつつあるマレー作戦軍部隊は廿日午後五時十分昭南島東南四十五キロの蘭領ビンタン島に三ヶ所から上陸し、これを占領したが全く敵影を認めず、同島はボーキサイトおよびの産地として世界的に有名である。

【マレー○○基地にて齋藤特派員廿一日發】

シ島制覇の我マレー猛進部隊は廿日午後勢をかつてシンガポール海四十五キロの波濤を踏みこえて蘭領ビンタン島無血上陸に成功、ゴム工場、アルミニューム等の重要資源を確保したが上陸作戦に空から参加した黒田部隊の池野二郎中尉(京都府〇〇出身)は語る。

 「昭南島の基地を飛出すと直ぐ黒煙が南の海上低く垂れこめて難航をつづけた、ビンタン島もスコール、霧の柱が遮って餘り視野がきかなかつた、午後一時分海迄はみ出た緑のジャングルの中に灰色のンジュンナンがぽつかり浮んで見えて來た、ふと海上を見ると黒胡のような舟艇が白線をひいて(まっしぐ)らに進んで來る、その上空高く友軍の編隊が大きく旋回してゐる、ぐつと超低空で海岸線をなめるやうに機は進むが弾丸一發射つて來ない、然と倉庫の並ぶゴム精製工場にも全く人影はない、大きな(✕重機が一つわびしげに立ってゐた、埠頭近く日章旗を振る住民の群を前にしてカーキ色の先遣隊が盛んに手を振つてゐた、シ島陥落前盛んに黒煙をあげてゐた北部油タンクはいまは僅かに數條の白煙をあげサルキンの近く何か見えてゐるほか今はとても静で東側に廻ればボーキサイト山の空中ケーブルもその儘宙にとまつてゐた、その沖〇キロの三ツの島にもボーキサイト採掘のあとが大きく口を開いてゐる、昭南島の三倍もあるこの南海の島々のどこにも破壊の跡はない、力とたのむシ島の降伏に咽喉を失つた敵は一目散に逃げてしまつたのだらう。」

 

という記事でした。

(赤い字は今回解読したものです)

 

大まかな意味としては

「シンガポールの基地から離陸するとすぐに黒い雲が南の海上低く垂れこめて、難航を続けた。ビンタン島もスコールが降り霧に遮られて視野が利かない。13時30分、海まではみ出た深緑のジャングルの中に灰色のダンジュンピナンがぽっかり浮かんで見えてきた。ふと海を見ると黒ゴマのような船が白い線をひいてまっしぐらに進んでくる。上空には日本軍の飛行機隊が大きく旋回している。飛行機は超低空で海上を進むが弾丸1つ撃ってこない。整然と倉庫が並んでいるゴム精製工場にも全く人影がなく、大きな重機がひとつ、わびしくあるだけだ。ふ頭の近くで日章旗を振る住民の前に、カーキ色の服を着た先にいた日本軍が盛んに手を振っていた。シンガポール陥落前、盛んに黒煙をあげていた北の油槽タンクは今はわずかに数本の白煙をあげているだけだ。サルキンのふもと近くに何か見えているほかは、今はとても静かで、東側に回ってみると、ボーキサイト鉱山の空中ケーブルも、そのまま空中にとまったまま。その先の沖〇〇キロの3つある島にも、ボーキサイト採掘のあとがあり、大きな穴があいている。シンガポール島の3倍もある、この南海の島々のどこにも破壊(闘った)跡はない。ビンタン島が頼りにしていたシンガポールが日本軍に降伏してしまったので、ビンタン島の人たちは、一目散に逃げてしまったのだろう」

 

ということだと思います。

シンガポール島には、大叔父たち、飛行第27戦隊の第二中隊が行っていたのかどうか、微妙に分からなかったのですが

(第一中隊は行ってたみたいですが)

大叔父たちも、シンガポール島には行っていたのかもしれませんね。この記事を読むと・・・。

シンガポールから離陸してビンタン島へ行ったみたいなので。

夏休み。

全然調べが進んでいないまま、80回目の終戦記念日が来てしまった!

子どもの相手で一日が終わってしまう・・・。

 

今年のお盆は、私の伯母と大叔母二人の初盆です。

いつも書いている二郎さんから見れば、姪と実妹二人です。

実妹さんがご存命のうちに、色々聞きたかったのですが、時すでに遅く、何も聞けずに鬼籍に入られました。

色々ご先祖のことを知った後で話を聞きたかったのに、それが叶わず、それもあって、自分の調査が遅々として進むのが遅くなった理由でもあります。

もう、遅くなっても、一番このこと(大叔父の二郎さん)についてお話したかった相手がいなくなったので、自分のペースでやっても一緒かなと。

 

でも、久しぶりに、少し進んだのでブログを書こうと思います!

終戦記念日に、図書館に行ってきました。

近所の図書館でなくて、大叔父の本籍地の図書館です。府立図書館。

ここにずーっと来たかった!!

 

何故なら、いつも載せている新聞記事、読売新聞の原紙が見られるからです。

自分の地元ではどうしても朝日新聞しか見られなかった・・・

ネットで有料でも戦時中の新聞は見られなかったんです。

でも、府立図書館には戦時中の読売新聞が見られると知っていたので、ずっと行きたかったんです。

ついに↓この記事を見ることができました。やったぜ!

 

 
大叔父は大東亜戦争で、何をして何故戦死してしまったのか。遺族は誰も何も分からないままでした。ひとつの新聞記事の写し。これが遺族にとってすべてでした。この新聞記事は真実なのかな。もっと詳しいことは分からないのかな。そんな思いから、調べています。

『読売新聞 十七年五月十八日本紙一面中段所載
 池野島村両機自爆
【ビルマ〇〇基地 鈴木、佐藤両特派員十六日発】
 四月廿六日マンダレー東南方ノ銃爆撃ニ出動シタママ消息ヲ断ッテヰタ陸鷲池野島村両機ハ十六日ニ至リ自爆ヲ遂ゲタルコト判明、愛機ト運命ヲ共ニシテ壮烈ナ最期ヲ遂ゲタ
 池野二郎中尉(●●市)、戸塚尚曹長(静岡縣磐田郡●●村)、および島村眞一曹長(群馬縣多野郡●●村)、伊藤吉光伍長(静岡縣)ノ四勇士ノ遺骸ハ僚友ノ手ニヨリ無事〇〇基地ニ収容サレタ。
 廿六日マンダレーカラ敗走スル重慶軍ノ攻撃命令ヲ受ケテ勇躍〇〇基地をヲ離陸シタ池野島村両機ハ、マンダレー東方サジ、ロイレム間ノ公路ニ出動、海抜一千米ノ山ト山ノ間ヲ縫ッテ〇〇米ノ低空飛行ヲ續ケ谷間ノ公路ヲ敗走スル敵ヲ求メテ之ニ猛烈ナ銃爆撃ヲ敢行中地上左右ノ山腹カラ射チ出シタ敵高射機関銃ノ猛射ヲウケテ遂ニ壮烈ナ自爆ヲ遂ゲタノデアッタ。
 池野戸塚島村三勇士ハ昨年十二月ペナン島爆撃に出動して五千噸級ノ敵輸送船を撃沈、敵戦闘機ノ挑戦ヲ物トモセズ悠々任務ヲ果シテ帰還、池野〇隊ノ名で遠藤部隊長カラ輝ク賞詞ヲ興ヘラレ歴戦ノ勇士デ伊藤兵長ハ自爆前日ノ廿五日初陣シタバカリノ若鷲デアッタ。』

 

しかし、字がつぶれてて読みにくい!書いていただいた記事がどんだけありがたかったか、痛感しました。

ところどころ、(わざと?)飛ばして書いてありました。

特にびっくりしたのは、「黒田部隊」という部分が抜かされていたこと。

(黒田さんは飛行第27戦隊の戦隊長です)

この部分があれば、すぐに「陸軍飛行第二十七戦隊」だということが分かったのに・・・

まずどの戦隊かが分からずにどれだけ時間を費やしたか!

 

あと、「重慶軍の攻撃命令を受けて・・・」のところ、新聞では「重慶軍一千の攻撃命令を受けて」になってました。

重慶軍一千ということは、ただ、この公路に行けと言われたわけではなく、具体的な重慶軍の隊を追っていたということになります。

中国側の記録を探したら、どの軍か分かるかもしれませんね・・・

なんとなくこれまでも、200師団かなあと、思ってはいたのですが、もうちょっと突っ込んで調べてみたいです。

 

そして、何と、もうひとつ読売新聞に二郎さんの記事がありました。

昭和17年2月22日の新聞です。

 

このことも、もう少し調べて、ブログにアップしたいです。

今の状態では、何と書いてあるのかすら、字がつぶれてて分からない部分が多くあるので・・・ゲッソリ

夏休み、真っ只中。

もうすぐ戦後80年ですね。

ひとつの節目かと思ってましたが、思うように進まず。

(色々メディアでも注目されて情報が出てくるかなーって思ってたので)


山籠りしています…




夏休みは、いつもより大叔父の軌跡を追えると思ってましたが、なかなか、そうもいかないですね笑い泣き


ゆっくり、やります。

と言っても、もう私の能力では打ち止めに近いですが…笑い泣き



8太平洋戦争、開戦間もない12月13日

日本陸軍の第三飛行団は、ペナン島を攻撃します。

詳しくは、前回書いてます!

 

 

 

そこで、前回のブログで大叔父が所属していた

「飛行第二十七戦隊 第二中隊」のメンバーを考えてみました。

 

飛行第二十七戦隊(襲撃隊)第二中隊

一番機:大叔父(池野二郎)と機上射手は誰かは分かりません。島村さんかな・・・

二番機(自爆):青木利恒(戦死)・機上射手:樋口公信(戦死)

三番機:大坂さん?

四番機:植野さん・機上射手:佐藤貞(戦傷死)

 

↑ペナンを攻撃したときのメンバーと考えられる第二中隊の面々です。

私、前回、大叔父の二郎さんの機上射手、島村さん?って書いたけど、島村さんは操縦士だと考えられるので

(下の新聞記事から)

戸塚さんだったと考えられます。

まだ、島村さんや戸塚さんのことは全然調べられてないのですが、多分少年飛行兵ですよね・・・

 

大叔父は大東亜戦争で、何をして何故戦死してしまったのか。遺族は誰も何も分からないままでした。ひとつの新聞記事の写し。これが遺族にとってすべてでした。この新聞記事は真実なのかな。もっと詳しいことは分からないのかな。そんな思いから、調べています。

『読売新聞 十七年五月十八日本紙一面中段所載
 池野島村両機自爆
【ビルマ〇〇基地 鈴木、佐藤両特派員十六日発】
 四月廿六日マンダレー東南方ノ銃爆撃ニ出動シタママ消息ヲ断ッテヰタ陸鷲池野島村両機ハ十六日ニ至リ自爆ヲ遂ゲタルコト判明、愛機ト運命ヲ共ニシテ壮烈ナ最期ヲ遂ゲタ
 池野二郎中尉(●●市)、戸塚尚曹長(静岡縣磐田郡●●村)、および島村眞一曹長(群馬縣多野郡●●村)、伊藤吉光伍長(静岡縣)ノ四勇士ノ遺骸ハ僚友ノ手ニヨリ無事〇〇基地ニ収容サレタ。
 廿六日マンダレーカラ敗走スル重慶軍ノ攻撃命令ヲ受ケテ勇躍〇〇基地をヲ離陸シタ池野島村両機ハ、マンダレー東方サジ、ロイレム間ノ公路ニ出動、海抜一千米ノ山ト山ノ間ヲ縫ッテ〇〇米ノ低空飛行ヲ續ケ谷間ノ公路ヲ敗走スル敵ヲ求メテ之ニ猛烈ナ銃爆撃ヲ敢行中地上左右ノ山腹カラ射チ出シタ敵高射機関銃ノ猛射ヲウケテ遂ニ壮烈ナ自爆ヲ遂ゲタノデアッタ。
 池野戸塚島村三勇士ハ昨年十二月ペナン島爆撃に出動して五千噸級ノ敵輸送船を撃沈、敵戦闘機ノ挑戦ヲ物トモセズ悠々任務ヲ果シテ帰還、池野〇隊ノ名で遠藤部隊長カラ輝ク賞詞ヲ興ヘラレ歴戦ノ勇士デ伊藤兵長ハ自爆前日ノ廿五日初陣シタバカリノ若鷲デアッタ。』

 

で、青木中尉のことを少し調べてみました。

私、前回のブログで、青木中尉は確か士官学校53期か54期か・・・と書きましたが、調べた結果、53期でした。

そして、その士官学校の「鎮魂 陸軍士官学校53期生」という本を調べてみました。

そしたらびっくりしたことに、大坂さんも同じ士官学校の同期で、お二人は親友だったことが分かりました。

 

みなさん、将校だったんですね。。。大叔父も青木中尉も大坂さんも。大坂中尉ってことになるのでしょうか。

 

大坂さんは大坂利雄というお名前みたいで、戦後も活躍されておられました。

ここ最近は、大坂さんが残された飛行第27戦隊の記録はないかな、と探していました。

 

大坂さんは、多分大叔父の二郎さんと、ずっと一緒に闘っておられたと思います。

満州、マレー、ペナン、蘭印、そしてビルマ。

同じ第二中隊だったので、共に出撃されたことも多かったでしょう。

 

ですが、今のところ、大叔父の生き様につながるような記述は見つけられていません。

ただ、「悲風緬甸の天地 : 航跡飛行第五十戦隊 上」という50戦隊の戦隊史の中に大坂さんの文章があり、ビルマにいたころの記述がありました。

「第十五軍による大包囲殲滅作戦は既に進行中で戦隊は早速マンダレー方面の地上部隊に協力した。同時にシャン高原山岳地帯をラシオに向けて急進中の先遣部隊にも直接協力した。私は先遣部隊の前進を阻む山腹の砲兵陣地を攻撃中に被弾、不時着して基地に帰る途中無人のモチの錫鉱山(トングーの東)に仮泊して天長の佳節の朝を迎えて遙拝した。尖兵が四月二十九日、ラシオに突入したのを知ったのは五月に入ってからのことであった。」

とあります。

 

「陸軍少年飛行兵史」の服部八郎さんの手記の中で、四月二十二日に、「大坂中尉が不時着し安否不明」と記述があるので、この日の出来事だと思われます。

 

 

トングーからラシオに向かってる友軍の地上部隊の援護ということなので、多分五六師団かなあ。

 

この部隊だと思うのですが、(モチも下部にあります)

多分、大坂さんは佳節(祝日・めでたい日)をモチで迎えたと書いてあるので、四月二十九日の昭和天皇の誕生日(現在はみどりの日)のことをおっしゃってるのかなあと思うのですが、大叔父が亡くなられた日(四月二十六日)は、不時着中だったのだと思います。

よって、大叔父の戦死された状態は、ご存知ないのでしょう。。。

 

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あと、やみくもに色々調べていたら、今しがた「大空に生きる」吉田穆 [著]を国立国会図書館で見つけて見ていました。

飛行第二十八戦隊の方です。(大坂さんのことを調べていたらヒットしました。)

 

そしたら、この吉田さんて方が、大叔父と同じ士官学校五十二期生であることが分かりました。

そして著書内に乗せられている写真のひとつに、大叔父と一緒に写っている写真がありました。

「航空士官学校での戦技教育」と題された写真です。

 

びっくりです~。また何か新しい発見できたらいいなー。