今日は大叔父の107回目の誕生日です。
なので、今日は少しブログを更新しようと思いました。
防人の譜
陸軍士官学校・陸軍航空士官学校第五十二期生
池野二郎君
高島亮一
池野二郎君とは航空士官学校卒業後、共に浜松飛行学校軽爆班に学び、昭和14年12月同行卒業。15年1月、満州国延吉、27F(7FB摩下)に着任、彼は第2中隊付、私は第1中隊付となった。第1中隊長は航空区隊長だった乃美魁大尉、又7FBの偵察隊、15F には同じく区隊長だった、西郷従龍大尉がおられた。
一ヶ年全満州を飛んで訓練を重ねた後7FBは16年1月出動命令を受け、南支広東に出陣99襲撃機に機種改変し、訓練と南支派遣軍後宮兵団の作戦に協力した。(FB長河辺虎四郎 F長櫻井肇中佐)
16年5月、方面軍の東江包囲作戦に密接に協力、常に彼我の状況、特に敵の動静を明らかにして方面軍の作戦指導に貢献し、又険峻な山地を縫い、敵の対空射撃により敵弾を受けつつ危険を冒して低空銃爆撃を敢行、特に5月13日、包囲圏内より脱出を企図する敵大部隊を発見、機を失せず全力を以て之を捕捉急襲して徹底的な打撃を与える等の武功に対し、後宮方面軍司令より、飛行団に感状を授与され、畏くも上聞に達っせられた。この時機、戦隊の中心戦力は池野君はじめ52期、53期であってチームワーク以てした、直協作戦の模範的活躍が目に見えるように思い出される。
12月11日、秦領ナコンスリタムラートに進出。
12月13日、戦隊は、75Fと共にペナン島の敵艦船を攻撃した。この攻撃において、池野編隊群は、一万屯級仮装巡洋艦船に直撃弾二発を与えて炎上せしめ、更に二千屯級水上機母艦らしきものに命中弾を与え、FB長の賞詞を附与されたが、待機中の敵戦闘機の邀撃にあい、青木中尉(53期)機を失い、又、銃手1名機上戦死の犠牲を出した。
戦隊は、スンゲーパタニー、イポー、クァンタン、クアラルンプールと躍進して25軍のマレー作戦に協力し、ペラク河橋梁確保、スリム堅陣突破戦闘協力等、襲撃隊の面目を遺憾なく発揮し、昭和17年2月21日第3飛行集団長から感状を授与された。
2月15日、戦隊はパレンバンに躍進、ジャワ攻略作戦の準備を開始した。
3月2日、東海林支隊が、ジャワ、カリジャチ飛行場を占領するや、戦隊は直にここに進出、3月3日、出動した襲撃隊は装甲車を先頭に、カリジャチに突進する敵機甲部隊を発見、直に飛行場に通信筒を投じて報告。ピスト傍の歩兵部隊連射砲は、第一発を先頭の装甲車に命中擱座せしめ、戦隊は爆装して数次に亘り出動し、之に攻撃を加えた。敵は水田中の一本道で前後を遮断され、約180輌を炎上爆破、完全に全滅し、機甲部隊と飛行隊との直接衝突において戦史に例を見ぬ完璧な戦果を挙げた。戦隊は引き続きバンドン攻略に協力、3月9日、全蘭印軍は白旗を掲げ、降伏を申し出で(時に16軍司令官は未着)、この方面の作戦は終わる。3月31日、第3回目の感状を飛行集団長より授与された。その感状には「3FBが蘭印の全面降伏を誘致した。」と記されている。
戦隊は、4月ビルマ転進を命ぜられ、トング―飛行場に前進、10FBの指揮下に入り15軍の作戦に協力を開始、連日出動した。この作戦中、昭和17年4月26日、連戦の勇士、池野二郎大尉はビルマ、マンダレー方面の地上作戦に協力中、重慶軍部隊の弾を受け、遂にサシ東方57kmチエサム付近において壮烈な戦死を遂げた。時に享年24才であった。
彼は、模範的操縦指揮官として闘い、勇名をとどろかした一面、やさしさと静かな落ち着きを持ち、淡々たる態度で任務を遂行し、戦隊長以下の信頼を勝ち得ていた。卒業以来、行を共にし、共に戦ってきた私は、今も、若き戦士たる彼の面影を思い出す。(注、FBは飛行団を示す)
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今日はあまり注釈する時間がないのですが・・・
(お誕生日の日を超えちゃうので
)
高島さんは、士官学校からずっと職場も一緒だったわけですが、中隊が違うので、出撃先も役割も違うみたいです。
遠藤飛行団長の日記によれば、高島さんは開戦~しばらく偵察機?だったようなので・・・
偵察機だったら、全く役割も飛ぶ場所も時間も違うと思われるので。
追悼文の前半はずっと、27戦隊の戦果をまとめてくださっていて、もちろん二郎大叔父も27戦隊の一員ですから、作戦には参加していたと思いますが、多分中隊が違うと細かい行動までご存じなかったんだろうなと思いました![]()
新聞では、高射機関銃に撃たれたになってますが、追悼文では「重慶軍の弾を受け」となっていて相手が地上軍なのか戦闘機なのかは分かりません。でも故障で墜落などではなさそうです。味方に撃たれたなどの可能性はなきにしもあらずですが・・・
でも最後の一文。「彼は模範的操縦指揮官として闘い・・・」以下は近くにいた方にしか分からない部分だと思いますし、この文章に感動感銘を受けました。
「操縦指揮官」とは、ある程度の隊を指揮されていたと読み取れますが、小隊なのか中隊なのかは分かりません。「編隊」という文は見かけますが、その編隊は4機を指揮していたことは分かっています。なので小隊長なのかな?
最後の大叔父の飛行機の墜落地は「チエサム」になってますが、戸籍や服部八郎さんの文章では「チエムサ」になっています。
地図でいろいろ調べていますが、それらしき地名はまだ見つけられていません。
あと、大叔父は今日2月2日がお誕生日で23歳になられて2か月と少したった4月26日に戦死しているので23才で戦死です。24才というのは数え・・・なのかなと思われます。
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読売新聞 十七年五月十八日本紙一面中段所載
池野島村両機自爆
【ビルマ〇〇基地 鈴木、佐藤両特派員十六日発】
四月廿六日マンダレー東南方ノ銃爆撃ニ出動シタママ消息ヲ断ッテヰタ陸鷲池野島村両機ハ十六日ニ至リ自爆ヲ遂ゲタルコト判明、愛機ト運命ヲ共ニシテ壮烈ナ最期ヲ遂ゲタ
池野二郎中尉(●●市)、戸塚尚曹長(静岡縣磐田郡●●村)、および島村眞一曹長(群馬縣多野郡●●村)、伊藤吉光伍長(静岡縣)ノ四勇士ノ遺骸ハ僚友ノ手ニヨリ無事〇〇基地ニ収容サレタ。
廿六日マンダレーカラ敗走スル重慶軍ノ攻撃命令ヲ受ケテ勇躍〇〇基地をヲ離陸シタ池野島村両機ハ、マンダレー東方サジ、ロイレム間ノ公路ニ出動、海抜一千米ノ山ト山ノ間ヲ縫ッテ〇〇米ノ低空飛行ヲ續ケ谷間ノ公路ヲ敗走スル敵ヲ求メテ之ニ猛烈ナ銃爆撃ヲ敢行中地上左右ノ山腹カラ射チ出シタ敵高射機関銃ノ猛射ヲウケテ遂ニ壮烈ナ自爆ヲ遂ゲタノデアッタ。
池野戸塚島村三勇士ハ昨年十二月ペナン島爆撃に出動して五千噸級ノ敵輸送船を撃沈、敵戦闘機ノ挑戦ヲ物トモセズ悠々任務ヲ果シテ帰還、池野〇隊ノ名で遠藤部隊長カラ輝ク賞詞ヲ興ヘラレ歴戦ノ勇士デ伊藤兵長ハ自爆前日ノ廿五日初陣シタバカリノ若鷲デアッタ。』





















