あの日       2011.3.11
あの時       私はオペ中でした。
あの場所で     実家のある東京から離れて
君に会えなかったら 沿岸の病院にいました。

揺れが来たときに
これは尋常ではないと思い
電気が通ってるうちにと
オペ室の自動ドアの
フットスイッチを蹴って開けました。

オペ自体は続行していたのだけれど
津波が来てる、避難するべき
という情報が入り
麻酔科の先生から
「ご決断を!」

きっと後にも先にも
「ご決断」を迫られるのは
あの時だけなんでしょう。

オペを中断すると決断しました。
途中で閉創し
麻酔から覚めた患者さんには
オペ中に地震が起きて
術中だが退避する旨を説明しました。
(この方は後日オペをやり直しました。)

電気は既に予備電源に切り替わっていたため
エレベーターが動かず
人力でストレッチャーを持ち上げて
階段を登って病棟へ帰りました。
と言っても、元いた病棟(1階の旧病棟)ではなく
新棟の高層階にある病棟へ。

オペ室から退避する時に
オペ着から白衣に着替えたのですが
その際にとりあえずポケットの携帯を操作して
家族と当時婚約中だった旦那に
無事であることだけメールできました。

父からは「家のガラスが割れたらしい」
母からは「家のグラスが割れちゃった」

…どちらもglassでしょう。
なんて大喜利が頭によぎりながら

旦那からは返事がなく
でもまあ都内ならなんとかなるんだろうと。

救急外来は電話が不通なため
ノーコールで救急車を受け入れていました。
津波に巻き込まれて運ばれて来る方もいました。

私たちの科が直接関わる患者さんはおらず
病棟を見回って、一旦敷地内の寮に帰りました。

寮は電気は通っていました。
そして、私が部屋に帰ってまずしたこと。

風呂に水を張ること。

私の叔父は阪神大震災で被災した時に
風呂の残り湯があったから助かった
と言っていたのを覚えていたのです。

実は既に水道は止まっていたのですが
寮の貯水槽にはまだ水が残っていたために
風呂に水を張れたのです。

これはかなり助かりました。

水道が止まってまず困るのはトイレです。
初めの1回はタンクに水が溜まっているので
気づかないのです。
次に流そうとした時に気づくのです。
その時に風呂に溜めた水で流せました。

部屋の無事を確認して
病院に戻り
ある程度院内が落ち着きを取り戻すまで
待機してから、夕食を調達して帰りました。

翌日からもしばらく断水が続いて
飲料水がなくなってしまいました。

でも当時から牛乳かビールでしか水分を
取っていなかったので
コンビニなどにはビールは沢山あって
安心?したのを思い出します。

お水がなければ
ビールを飲めばいいじゃない。

どこのマリーアントワネットかと。

でも牛乳はストップしてしまい
難渋しました。

更に、その週末に自分の結婚式の
打ち合わせの予定でしたが
交通網が寸断されて、帰京できず
実母と旦那に打ち合わせに行ってもらいました。

結局東京に帰れるようになったのは
4月になってからでした。

あれから9年。
当時は独り身だったけど
結婚して
子どもが2人できて。

今、震災が起きたらどうするか。
私1人の身だけ守ればよかった時と
事情が全く違う。
守るべきものがある。

そう思うと
色々(マスクとか消毒薬とか)備蓄って
必要なのね。

少なくとも我が家は
風呂の残り湯は
栓を抜かずに
必ずとっておくことにしています。

特に今のマンションは
貯水槽が地下で汲み上げ式なので
電気止まったら水も止まる。

洗濯や、花木への水やりに使いながら
翌日風呂を長男が掃除するまでは
そのままです。

湿度とか
安全度とか
色々問題はあれど

私にとっては皆が無事に生き残ることだけが
大切なことですから。

備あれば憂いなし

至言ですね。