当時学生だった私はネット上で見かけた一つの絵に惹かれ,ちょうど六本木のギャラリーで個展が開催される事を知った。
当時の様子はかつての日記に記してある。
学生だった私は社会人になり,仕事に忙殺されながらも新しい仲間と出会い,それなりに楽しい日々を送っていた。
いや,楽しいと言うと嘘になるかもしれない。仕事はつらい。正直に言って。
そんなある日,一通のメールが届いた。
「篠原愛展のご案内」
3年前の個展で芳名帳にメールアドレスを記入していた為に届いたお知らせだった。
前回は六本木のギャラリーだったが今回は両国のようだった。
「よし,行こう。」
都内で働いている為に,両国までは電車ですぐの距離だ。
しかしギャラリーの開いている時間は19時までで,私の仕事は20時を回るのが常だった。
個展の会期中は常に夜まで残業をしていて中々時間が作れない。
やっと早上がり出来る様になったのは,個展最終日の5月31日になってからだった。
上司が休みなのを良いことに仕事を切り上げ,18時前の電車に飛び乗り両国のギャラリーへ向かった。
電車に乗っている時間は30分もない。ギャラリーも駅から近い。
何の問題も無いはずだった。
先ず間違えたのは両国駅を西口から降りてしまったこと。
次に間違えたのは道に迷ったこと。
その為にギャラリーに到着したのは18時40分を回ろうとしていた。
「間に合った。」
胸を撫で下ろしながら扉を押す。

小さなギャラリーには数名のお客さんが点々と作品を眺めていた。
スタッフらしき人は見当たらない。
入り口脇に置いてあったパンフレットを手に取り,壁に掛けられた作品を見て回る。
相変わらず不思議な絵だった。
少女と魚の融合した世界。
一見してグロテスクな印象を受けながらも悲壮感の無い少女たちの表情に一種の安堵感を覚える。
特に私の気を惹いたのはこの一枚。
この絵のどこに惹かれたのか,それは私自身よく分かっていない。
ただ「良い」と思った。それだけだ。
小さなギャラリーではあるが作品は10点以上展示されており,作家さん本人が描いている途中の油彩画も置いてあった。
私が訪れた時には既に油彩は描き手を失っていたが。
奥にはミーティングスペースがあり,作家さんの手がけた雑誌や今回の個展のパンフレットなどを自由に閲覧することが出来た。
そこで初めて『少女世界』という雑誌(表紙絵が篠原さん作)を読んだが,中々に面白かった。
個展に来ているのに別の作家さんの作品を楽しんでいるのは失礼かななんて思いつつ。
そして最後にパンフレットを買おうと思い,カウンターに並んでいる他の作家さんのパンフレットもパラパラと見ていた。
そこで見つけたのが早川克己さんのパンフレット。
ついこの間まで同じギャラリーで個展があったのだが行けずじまいになっていた。
いや,どちらかと言うと他の予定を優先させてしまったから行けなかった。
だから今回の篠原さんのパンフレットと,早川さんのパンフレットをそれぞれ購入することにした。
カウンターの奥に居たスタッフさんに声を掛け,パンフレットが欲しい旨を伝えると,
「サイン付のものは売り切れてしまいました。」
と残念そうに言われた。
そう。今回の個展のパンフレットは先着100部には篠原さんご本人のサインが書かれていたのだ。
そりゃあ最終日の閉館直前の時間な訳で,もともとサイン入りパンフレットが買えるとも考えていなかったから,
「そうですか。」
と返すしかなかった。
ところがその後にスタッフさんの口から出た言葉に私は驚かされる事となった。
「ですから,ご本人に書いてもらいましょう。」
え?
私は固まった。
ご本人?篠原さんがギャラリーに居られる?
いやだってTwitterで別の作家さんの個展のレセプションに行くって呟いていたじゃない。
六本木のギャラリーでのレセプションは18時からで,今はもう19時前なのに両国に居るのはどういうことなの?
なんて困惑している私の前に現れたのは,一人の若い女性だった。
私より(年齢的に)少し大人な彼女が篠原愛さんご本人だった。
突然の出来事で何を言ったら良いのか分からず,何も話すことはできなかった。
目の前でパンフレットにさらさらとサインを書いて下さり,その上可愛いイラストまで描いて頂いた。
「あっ,ちょっとおかしくなっちゃった。ごめんなさい。」
「いえいえそんな事ないですありがとうございます。」
話せたのはこの程度。
美術に造詣のある訳でもない私はこういう時どんな話をすれば良いのか分からない。
まあ,別段話をしなくても良いのではないだろうか。
お喋りに来た訳ではないのだから。
そうして不思議と手にすることが出来た,しかも私だけのサイン入りパンフレットがこちら。
(表)

(裏)

このパフレットにはイラストカードが2枚もついてきました。

左は今回の個展(両国)で見た作品。
右は前回の個展(六本木)で見た作品。
自宅に帰ってまじまじと眺めていて,
「ああ,やはり私はこの少女たちに惹かれているんだな。」
と再確認した。
前回の六本木での個展から帰ってきて以来,私の部屋にずっと飾ってある一枚の絵。
これも絵の中の彼女に惹かれているからずっと置いてあるのだろう。

仕事で疲れて帰ってきた時,レコードを掛けながらスピーカーの上の彼女に癒されるのだ。
余談だが,この後に野方で職人と焼き鳥屋で飲んだ時,
「サイン貰ったとか自慢気にしやがって!」
と焼き鳥の油を飛ばされそう(あくまで冗談の一環で)になった所を必死に守ったものである。