皇居の乾通りを出てから
ぐるっとまわって、北桔梗門から再入場し
江戸城跡をめざします
■江戸城跡(東京都千代田区千代田)
江戸城(えどじょう)は、武蔵国豊嶋郡江にあった
日本の城である。
江戸時代においては江城(こうじょう)という
呼び名が一般的だったと言われ、
また千代田城(ちよだじょう)とも呼ばれる。
江戸城は麹町台地の東端に、扇谷上杉氏の家臣
太田道灌が築いた平山城である。
近世に徳川氏によって段階的に改修された結果、
総構周囲約4里と、日本最大の面積の城郭に
なった。
徳川家康が江戸城に入城した後は徳川家の居城、
江戸幕府の開幕後は幕府の政庁となる。
吹上庭園が御所、旧江戸城西ノ丸が
宮殿の敷地となっている。
その東側にある旧江戸城の中心部である
本丸・二ノ丸と三ノ丸の跡は皇居東御苑として
開放されている。
南東側の皇居外苑と北側の北の丸公園は
常時開放され、それらの外側は一般に
利用できる土地になっている。
江戸(東京)の地に最初に根拠地を置いた
武家は江戸重継である。平安時代末期から
鎌倉時代初期にかけての江戸氏の居館が、
後の本丸・二ノ丸辺りの台地上に置かれていた
とされる。
築城
15世紀の関東の騒乱で江戸氏が没落したのち、
扇谷上杉氏の上杉持朝の家臣である太田道灌が、
享徳の乱に際して康正3年(1457年)に江戸城を
築城した。
道灌当時の江戸城については
「子城」「中城」「外城」の
三重構造となっており、周囲を切岸や水堀が
巡らせて門や橋で結んでいたとされる
道灌が上杉定正に殺害された後、江戸城は
上杉氏の所有するところ(江戸城の乱)となり、
上杉朝良が隠居城として用いた。
ついで大永4年(1524年)、扇谷上杉氏を
破った後北条氏の北条氏綱の支配下に入る。
江戸城の南には品川湊があり、更にその南には
六浦(金沢)を経て鎌倉に至る水陸交通路が
あったとされていることから、
関東内陸部から古利根川・元荒川・隅田川
を経て品川・鎌倉(更に外洋)に向かうための
交通路の掌握のために重要な役割を果たした。
天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原攻の際に
開城。秀吉によって後北条氏旧領の関八州を
与えられた徳川家康が、
同年8月朔日(1590年8月30日)、駿府から
江戸に入った 。
城の東には低地があり街区の町割をしたならば
10町足らず、しかも海水がさしこむ茅原であった。
西南の台地はススキ等の野原がどこまでも続き
武蔵野につらなった。城の南は日比谷の入り江で、
沖合に点々と砂州があらわれていたという
江戸時代
家康が入城した当初、江戸城は道灌の築城した
小規模な城でありかつ築城から時を経ており
荒廃が進んでいたため、それまでの本丸・二ノ丸に
加え、西ノ丸・三ノ丸・吹上・北ノ丸を増築、
また道三堀や平川を江戸前島中央部(外濠川)へ
移設した。それに伴う残土により、
現在の西の丸下の半分以上の埋め立てを行い、
同時に街造りも行っている。
慶長8年(1603年) 家康が江戸開府して以降は
天下普請による江戸城の拡張に着手。
神田山を崩して日比谷入江を完全に埋め立て、
また外濠川の工事を行っている。
慶長11年(1606年)、また諸大名から石材を運送させ、増築した。
翌慶長12年(1607年)には関東、奥羽、信越の
諸大名に命じて天守台および石塁などを修築し、
このときは高虎はまた設計を行い、
関東諸大名は5手に分れて、80万石で石を寄せ、
20万石で天守の石垣を築き、奥羽、信越の
伊達政宗、上杉景勝、蒲生秀行、佐竹義宣、
堀秀治、溝口秀勝、村上義明などは堀普請を行った。
この年に慶長度天守が完成。
慶長16年(1611年)、西ノ丸石垣工事を
東国大名に課役し、将軍徳川秀忠はしばしば
これを巡視した。
家康は大坂の陣の陣触れを出し江戸留守居役を
除く諸大名は、この地からの参加を余儀なくされ
諸大名は著しく疲弊した。
元和4年(1618年)に紅葉山東照宮を造営し、
また神田川の開削を行う。
元和6年(1620年)、東国大名に内桜田門から
清水門までの石垣と各枡形の修築を行わせる。
元和8年(1622年)には本丸拡張工事を行ない、
それに併せて天守台・御殿を修築し同年には
元和度天守が完成する。また寛永元年(1624年)
隠居所として西ノ丸殿舎の改造が行なわれた。
寛永期天下普請
寛永5年(1628年)から翌年にかけて本丸・
西丸工事と西ノ丸下・外濠・旧平河の石垣工事、
また各所の城門工事が行われる。
寛永12年(1635年)、二ノ丸拡張工事が行なわれた。
寛永13年(1636年)には石垣担当6組62大名、
濠担当7組58大名の合計120家による飯田橋から
四谷、赤坂を経て溜池までを掘り抜き、石垣・
城門を築く外郭の修築工事が行なわれる。
寛永14年(1637年)には天守台・御殿を修築し、
翌年には寛永度天守が完成する。
本丸・二ノ丸・三ノ丸に加え、西ノ丸・西ノ丸下・
吹上・北ノ丸の周囲16kmにおよぶ区画を本城とし、
現在の千代田区と港区・新宿区の境に一部が残る
外堀と、駿河台を掘削して造った神田川とを
総構えとする大城郭に発展した。
以後、200年以上にわたり江戸城は江戸幕府の中枢として機能した。
明暦3年(1657年) 明暦の大火により天守を
含めた城構の多くを焼失。町の復興を優先し、
また経済的な理由から天守は再建されなかった。
安政2年(1855年) 安政大地震により石垣、櫓、
門など多大な被害を受ける。
近現代
明治元年(1868年)4月4日、江戸城は明治
新政府軍に明け渡され、東京城(とうけいじょう)
に改名された。
明治21年(1888年) 明治宮殿の完成によって
宮城(きゅうじょう)と称される。
大正12年(1923年)9月1日 関東大震災で
残っていた建造物は大きな被害を受け、
和田倉門(櫓門)は復旧されなかった。
他の被害を受けた門は、上の櫓部分を解体して
改修された。
昭和20年(1945年) 空襲で大手門が焼失。
昭和23年(1948年) 皇居と改称。
昭和42年(1967年)空襲で焼失した大手門が
木造で復元された。
平成18年(2006年)4月6日、日本100名城に
選定された。
本丸と西ノ丸が独立している、一城別郭の形式
である。
武蔵野台地の東端にある地形を活用しており、
特に山の手側は谷戸を基に濠を穿ったので
曲面の多い構造をしている。
逆に下町は埋立地なので、直線的に区画された
水路や街並みを見ることができる。
石垣を多く見ることができるが、これらは
天下普請の時にはるばる伊豆半島から切り出され
船で送られたものである。
それまでは他の関東の城と同じく土塁のみの城で
あった。関東で石垣を多用した近世城郭は
江戸城と小田原城しかない。
それでも外郭や西ノ丸、吹上などは土塁が
用いられているが、特に吹上の土塁は雄大である。
本丸
本丸御殿を擁する江戸城並びに徳川家、江戸幕府の
中心。
関東入国時に本丸と二ノ丸の間にあった空堀を
埋めている。
その後、本丸御殿の拡張の為に、元和の改修時に
北に2段あった出丸の1つを、明暦の大火後に
残るもう1つの出丸と二ノ丸の間にあった
東照宮を廃して規模を拡張している。
二ノ丸庭園
本丸と同じく入国時に三ノ丸の間にあった空堀を
埋めている。元は本丸の帯曲輪の様な存在で
あったが寛永期に拡張されて二ノ丸御殿が造られる。
内部は石垣で複数に区画がなされており、
下乗門から本丸へ向かうには中之門を、
二ノ丸御殿へ向かうには銅門を、西ノ丸方面には
寺沢門を通る必要があった。
三ノ丸
入国時は外郭とされ、日比谷入江と接していた。
平川を濠に見立てて、堤防を兼ねた土塁には
舟入用にいくつか木戸が設けられていた。
以後は屋敷地とされていたが、二ノ丸拡張の煽りを
受けて敷地が大幅に減少した結果、
内郭に組み込まれ小さな御殿と勘定所以外は
空地となり登城大名の家臣の控え場になる。
西ノ丸
皇居正門石橋と伏見櫓
天正年間に徳川家康が入城した頃は、この地は
丘原であり、田圃があり、春になれば桃、桜、
ツツジなどが咲き、遊覧の地であったという。
西には山里丸があり、徳川家光が小堀政一へ命じて
園池茶室を造らせて新山里と呼んだ。
その西に山里馬場があり、後門が坂下門である。
かつては通行が許され、この門を通り紅葉山下を
へて半蔵門に至った。
紅葉山
本丸と西丸の間にある高地で、江戸城内で最も
高い場所。
かつては日枝神社が祭られており、開幕前には
庶民が間を抜けて参拝することができたが、
後の拡張で城域に取り込まれたために移転している。
その後は東照宮や各将軍の霊廟が造営され、
また麓には具足蔵・鉄砲蔵・屏風蔵・書物蔵が
あった。
初期には奥の道三堀と接する一帯には和田倉という
蔵地が置かれ、蔵がなくなって以降も
和田倉門の名が後世に残った。また西側には厩、
東側には馬場があり、隣接する門は馬場先門と
呼ばれたが、この門は1668年(寛文8年)まで
不明門であった。
大手前・大名小路
開幕前は侍衆・町人が混在している居住地で
あったが、開幕後は大名屋敷地となる。
大名屋敷の他には大手前には一ツ橋家の屋敷や
春屋・小普請屋敷・北町奉行所が、大名小路には
評定所や南町奉行所があった。
今日のランチ紹介は
榮太郎飴本舗です
全く知識ないのにお土産で買って
プレゼントしたらスゴイ有名店の飴と
喜ばれました
三の丸売店で売ってます。800円くらいです。