疲れた体を引きずって部屋の鍵を開ける。
右手にぶら下げた弁当の袋が、暗くて狭い玄関で行き場を失い、カサカサと途方に暮れる。
そんな彼の心配事をよそに、部屋に入ると俺はコートのままでソファに腰を下ろす。
自分自身をテーブルの上に積み重ね、タバコを一本取り出すと、表通りの街灯は今日一日を安っぽく照らし出した。
月の光は半分で俺の中の何かを見つけて笑っている。
コートのポケットからライターを取り出し、かすかな音で灯す炎は何かに似ているみたいだ。
「例えば希望?」
「冗談だろう。」
薄明かりの中、はき出す煙は紫色で踊りながらに宙を舞い俺を包み込んでゆく。
「おかえり。今日はどうだったかい。良い一日だったかい?」
いつものように夜が話しかけてくる。
闇は少しだけ色を深めて、空気の密度がほんのりと濃くなる。
「いつも通りだよ。たいした一日じゃない。」
俺は目を閉じてタバコの煙をゆっくりと吐き出す。
「それにしては、ケーキなんて洒落たものがあるな。」
夜はテーブルの上に目を走らせる。
「あぁ、友達が職場に復帰したんだ。ちょっとしたお祝いさ。」
「二人で食べないのかい?」
「いいんだよ。俺の勝手なお祝いだから。」
「たいした友人だな。そいつもお前を友達と思っているのかい。」
「さぁね、ただ、嬉しかっただけさ。」
「相変わらずだな。」
「相変わらずだよ。」
夜が口をへの字に曲げて黙り込んでしまうと、闇がほんの少しだけ重さを増した。
俺たちはよく似た兄弟のようだ。
「そうそう。」
と、今度は俺が夜に話しかける。
「弁当屋に面白いばぁさんがいたよ。」
「若い連中に混じって、白髪頭で頑張ってた。」
夜は気のない素振りで、それでも話に耳を傾けている。
「レジの中央に陣取って、微動だにしないんだ。」
「若い連中が4~5人で忙しく弁当を作ってるのに、背筋をピンと伸ばして真っ直ぐ前を見てるんだ。まるで昔のコメディ映画に出てくる軍人さんみたいだったよ。」
「真っ赤な可愛らしい制服を着てさ。」
「それから、受け答えが傑作なんだ。それこそ、軍人みたいに大きな声で、ロッピャクゴジュウエンになります!って叫ぶんだ。」
俺はその滑稽な姿を思い出して含み笑いと一緒に煙を吐き出す。
夜はじっと俺を見ている。
俺は続ける。
「注文を店に響くような大声で厨房に言うんだけど、若い連中、誰も返事をしないんだ。ありゃ、相当嫌われてるんだね。」
「それでも、彼女は気にしないで背筋を伸ばして真っ直ぐ前に向き直るんだ。」
「なんで、あんなに頑張るかねぇ。」
夜は何も答えない。
「まったく、赤い制服でさ・・・。」
「大きな声でさ・・・・。」
俺は突然、言葉をなくしてしまう。
話したい事は山ほどあるのに、伝えたいことは山ほどあるのに。
俺は言葉をなくしてしまう。
空中をさまようように口だけが無様に動き続ける。
「お前は・・・・」
夜の声で、俺は自分の話が終わってることに気がつく。
「そのばぁさんが好きなんだね。」
俺は右手に燻るタバコをもみ消す。
赤い塊がゆっくりと色褪せてゆく。
「あぁ・・・・。」
「俺は彼女の事が好きだなぁ。」
夜は少しだけ笑ったみたいだ。
「お前は・・・。」
「うん?」
「相変わらずだな。」
「相変わらずだよ。」
夜はため息まじりに静かに笑い部屋を出て行く。
俺はもう一本タバコを取り出し口にくわえる。
「相変わらずさ。」
ふと外を見ると、 街灯の灯りに浮かび上がる小さな公園の桜が降り積もる雪のように見えた。
「そうさ・・・相変わらずだ」