本日はビームが脱走。
先日はゆきちゃんでした。
とある芸術家の言葉
『自己となにかが一対一一になり、自由な気持ちに満たされること、それが私の宗教観だ。』
そして何と一対一になるのかと問われたら『アートと自然』だという。
ここは、かなり遠くの音や声が聞こえてくる反面、
家の換気扇の音が馴染めなくて、責め立てられるような圧を感じたり、
人の足音からは、何かをやらなくてはいけないに向かってる音なのか、
それとも、ゆったりした気分でいるのかがちゃんと聞こえてくることに気づけるようになったり、
深夜になると、コウモリが飛ぶ音がダイナミックに頭上を駆け抜けて行ったり、
10年前とは明らかに鳴き方が変わったみみずくの声を夜をになると求めてしまう。
以前は「ホッホォー」という鳴き方がとてもゆっくりだったのに、
年々早くなってきていて、今では同じ種なのか?と疑いたくなるほど、
2倍速に泣くのだ。
「ホホーホホー」
ホの間にあった「ツ」とか「オ」はどこいった??
余白がなくなっている。
つがいで呼び合っているのか、仲間と話をしているのか、倍速になったことで、
呼び合いもちょっと忙しない。
近年の加速化に伴っているのか、ここ最近は気候変動でたねを撒く時期がずれたりしているのとかなどと関係しているのかな。
ここが静かだからこそ、今朝は娘が牧場に行く前に大音量で音楽をかけていたが、
選曲が私とあわないときは朝からかなり悲劇だ。
とにかく出かけるまでの時間を耐えるしかないのだ。
これが車内となるとどこにも逃げれない。
好きな曲だと私も楽しいが、そうでないと爆音で攻撃されているような気分になりだんだんイライラしてバトルになるが、家では、出かけるまでのこと。せっかく音が出せる暮らしでもあるから、
夜遅くなければ自由にさせている。
結構忍耐の修行。
外は、風にゆらめく葉や、雨の音、馬が翔ける蹄のおと、腹白クイナの朝の呼びかけ、
蜂の羽音など何かしらの自然界の音に360度ぐるりと囲まれた生活をしていることで、
都会での生活では気づけない空間を感じとる。
この美しい静けさに耳を傾けていると、何もしていない時間が過ぎてゆくのだ。
かなりのんびりとさせてもらっているが、
老後っぽくないか?と思い始め
娘とやろうと思って注文した油絵の具を引っ張り出して、描き始めたり、
次女と一緒にギターを練習しながら、
爆笑三昧の夜を楽しんだり、
趣味のバラのお世話に傾きすぎないようにしている。
たまに旅に出たくなる。温泉も恋しい。
今年はまだ宮古島と関東圏に行ったくらいだったかな、
来月は青森のツアーの企画があって、仕事で温泉に行く。
6月はキミタミ二人旅と娘の誕生日祝いにもしきたかったら招待したいと思ってドンピシャで彼女の誕生日に栃木県の温泉を予約していたが、
その娘が沖縄に戻ってくることになったので、
あれすれ違っちゃう、タイミングどうしよう当日を一緒に過ごせるのも3年ぶりだったのに。。
とにかく3年間の高校生活が終わり合宿で車の免許を取ってからこちらにくることになり、
彼女の部屋を作るのに部屋を片付けていたのと、
みんなのスタジオ兼アトリエを作ろうと思い色々準備をしているのだが、
冒頭に書いた一節「手をたたきながら」という本を、掃除の途中で、
開いてしまったら、2010年に11月に発行されたとある。
沖縄移住が10月だったので、大きな移動のタイミングに出た本なんだと思いながら、
ページをめくると、流れるように美しい言葉たちがページから躍り出てきてしまった。
やばい。泣きたくなってしまう。
いっぺんには読み進められない、
この滲み出てくる雰囲気をこよなく愛していた。
そういうものは消えることはない。
とはいえ脳裏では、ため息をついては本を閉じはするけど、
結局一気読みしてしまいそうだと思い、案の定3時間で読んでしまった。
同じ時を共有していても記憶や視点、世界はこんなに違う。
今年の4月で実は離婚9周年。
いろんな角度で検証することとなった。
9という数字は括る全てを統括して次の10に向かう数字だ。
主催している3月の断食合宿は、4月の後半まであるせいか、
心身の大掃除がやたら長い。
人生の共同創造者だったのだからいろんな想い出もある。
また思い出したくても思い出せないこともあるし、
忘れていても、度々夢ではリアルに続いている。
しかしこんなに長く揺さぶられるのは初めてで結構分析をしてみたりもした。
90%はすでに整理できていることだったが、
後の10%の質量が重いのだろうか、
もっとコアな部分、
自分の中で終わっていなかった未整理の感情がこのタイミングで押し寄せてくることとなり、
本当に驚いてしまった。
一旦落ち着いてはまた洪水のように流れてくるのだ。
終わっても、終わらないものがある。
そしてそれは終われるものではないということをとことん知ることになった。
色々忘れてしまっているが、そんな場所行ったんだな、そんなに忙しかったんだっけかなどと
追っているうちに、感情がよくわからなくなってきて、
自分だと思っていた私の話は、本や映画の内容だったのかしらと思えてきたりもする。
容姿もだいぶ変わったしね。
改めてあまり言葉を見ていなかったし、話もよく聞いてなかったかもしれない。
もっとあの時代を注意深く聞いたり見たりしたら良かった。貴重な時代だったなと思う。
一つの章が閉じ、そしてまた次の章も終わり、4月という始まりのなかで
どこに向かうかの再確認のようにこの整理の時間が訪れているようだ、
誰か特定の人と織りなす時間の過ごし方をしなかったこと、一人でいることで
より自分の核に降りていくような感じだった。自由の成り方が男女では違うのだろう。
今がもしあの時なら、ブラッサンスのような付き合い方ができるだろうなど、
あの時の自分にはそれができないからそうなったのであって、意味のないことをぼんやり箸休めのように頭をよぎったりとありえないことでもいいからとにかく妄想して感情の流れをそろそろ止めたかった。
人は未完のままでも決断はし続ける。
より良い人生のために。
結論づけようとしたり、色々考察するもあれはあれで不安定だった。
安心、安定をもたらすのは普通だったり、地味だったりする。
そこはやだなとまだ慌てているのかな、
あれでよかったんだと何度も確認したのに、
今更のように、見落としていたことを眺めたりするが、
回想?もう死ぬのか?w w
死ぬ時は新たな世界が待ってるだけだから良いことの前は大体こういうちょっとボヤ〜んとしている時。
大きな変化がたくさんある時期だった。
幼少期の記憶から引っ張られ続けている、
寂しさを洗浄しないといけなかった。
お互いの繊細さ、特性の強さ、現れ方が非常に似ていながらも、真逆だったことで
変化を渡しあうことはできた。
最後は一つになって還る魂だということは、以前に伝えられているからまあ上がるその時は影響し合うのだろう。この間、全く違う人と若い自分が出会っている夢を見た。
あまりにも強烈で、象徴的すぎておばあに伝えたら、
新しい足音の兆しだった。
とても楽しい夢だったが、
余計にいいのか?いいのか?そっちでいいのか?と問われているような気もする。