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  真冬の脊梁山脈越え
 平成十三年の秋は出張も多く、仕事が忙しかったために、夜神楽見物に行く機会がなかなかできなかった。出水へ鶴を見に行くようには手軽に行けず、二日間必要だからである。夜神楽の日程表を高千穂町役場から送ってもらうのも遅れて、入手した年末にはすでに二十地区の三分の二以上が終わり、年明けから二月初旬開催の六地区を残すのみとなっていた。
 平成十三年二月十日の午後、この年度最後の上田原(かみたばる)神楽を見に出かけた。道には慣れていたが、真冬の高千穂行きは初めてである。午後五時には神楽宿に着こうと、正午過ぎに熊本県南部の芦北を出発し、途中で休憩しながら四時前に九州脊梁山脈を越えた。日はまだ宙にあったが、山々にさえぎられて、高千穂の入り口にあたる街道は薄暗く、その夜は宿を取らずに徹夜することを思うと、不安な気持ちになった。

高千穂の町は遥けし県境の冬の山なみはや暮れゆけり
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高千穂の町から高森方向へ、三二五号線を十キロほど入ったところに、神楽宿の林益夫氏宅があった。その後多くの神楽宿を訪れたが、国道、県道のような広い道に接していることはなく、初心のドライバーには厳しい細道を登ることがほとんどだった。林宅も三二五号線から少しそれた山裾にあり、本来は手前から狭い道を登らなければならない。下の国道に車を置いて、段々の田畑を登れば歩いても近いことを、地元の人が教えてくれたのは幸いだった。上の方から流れてくる、あの懐かしい神楽囃子に、とうとうやって来たぞと心のなかで叫んだ。

高台の神楽宿より笛・太鼓ときめかす音の渡り来るなり
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  神楽宿
 計画通りに五時少し前に神楽宿に着いた。広い林宅を囲む生垣に添って笹竹が立てられて、注連縄(しめなわ)が全周張られており、国道からの長い登り道にもえんえんと注連縄が見えていた。御幣と弓矢が、屋根の合掌部の二個所に取り付けられていた。
 神楽宿は地区内での回り持ちとのことであるが、この家は十年振りの神楽のために大掛かりな改築をしていて、木口と畳が真新しかった。神楽の舞を奉じる八畳間の神庭(こうにわ)を中心に、左右に囃子方と観客が入る八畳の部屋があった。前に一間幅の縁側があり、ここにも多くの人が座れようになっていた。さらに外からよく見えるように、幅一間のガラスが入ったサッシを縁側の前面に入れていた。その後多くの神楽宿を訪れたが、このような立派な家に遭うことはなかった。
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 庭に孟宗竹三本を使った外注連が設けられ、赤、緑、黄、紫の色紙で作った御幣(色幣)を青竹に挿んだものが、百本ほど色鮮やかにくくりつけられていた。下に供え物の台が一緒に組まれ、籾入りのかます一俵や餅などが供えてある。翌朝三十二番の繰下しの舞で四本の紐を伝わって、この外注連から神々が天へ帰るのである。
 神庭は内注連とも呼ばれ、四隅に榊の大枝を立て、四周の長押の位置に注連縄を張る。御幣は白だけではなく、三原色もたくさん使われるので美しい。注連の上部に彫り物がずらりと紐で吊るしてある。半紙を二枚重ねにして、独特の構図で日月、七曜の文字、十二支の動物たちを、透かし切りしてある。雲と呼ぶ天蓋が天井の中央に吊られ、正面の大きな神棚には、使われる神楽面がたくさん並べられていた。

 神庭にずらりと和紙の飾りもの切り紙細工の模様美し
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 深夜の寒さに備えて着膨れした身体を、縁側の端に入れさせてもらった。五時半の舞始めの前に、高千穂町長から林氏に感謝状が贈られたのは、家を改築してまで神楽宿を提供したことによるものなのか、その後に見た他の神楽宿ではこのようなことはなかった。
 そもそも夜神楽は冬のイベントで、季語も冬になっているが、上田原は毎年立春を過ぎて行われていることから、春告祭と呼んでいるとのことである。シーズン最後の舞ということもあって、名残を惜しんで多くの人が、見に来ているようであった。
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九州に単身赴任で出向した際は、余暇に九州各地の祭を見るのが楽しみでした。
冬は高千穂の夜神楽に夢中になり、熊本県南部から九州脊梁山脈を越えて往復350キロを通いました。

出向を終えて関東に戻ってから、出水の鶴と高千穂の夜神楽を材料に歌文集「鶴と夜神楽」を私家版で出しました。これは紀行文と短歌を合わせて執筆したものです。

当時撮ったネガフィルムのデジタル化を進めていて、夜神楽の関連が終了しましたので、上記の文章と合わせて当ブログに連載することにしました。
なにぶん長文につき適宜スキップしていただき、概要を知っていただければありがたいです。