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3月25日の午前、十日ぶりに館山の書斎に戻ってきました。

夜の間にかなり雨が降り、26日は朝から快晴でしたので、7時過ぎにマウンテンバイクを引き出して布良・相浜・平砂浦の海沿いを走りました。

まだ冷たい風が頬に気持ちよく当たり、久しぶりの走りに体が汗ばみました。
ここは相浜と平砂浦の境になる巴川の川口で、右手に洲崎が見えています。

MTBを停めた傍の自転車には、サーフボードを右脇に載せる金具が付けられ、持ち主はちょうどよい波が立っている沖でサーフィンをしているようでした。
浜に打上げられているゴミが多く、掃除をしても海が荒れるとこのようになります。

巴川の川口
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いつもなら沖の左手に伊豆大島が見えますが、この朝は霞が立って全く見えませんでした。
最初の写真では冬の快晴なら洲崎の左手に富士山が見えますが、この日はまったく駄目でした。

ハマダイコンの花
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川口で咲いていたハマダイコンです。
大根が野生化したもので、2月から南房総の海岸では多く見られます。

江戸時代の元禄期に起きた地震と津波で、房総は大きな被害を受けました。

元禄16年(1703)11月23日(新暦では12月31日)の深夜に、房総半島南端の野島岬を震源とする大地震が起きました。マグニチュードは8.1-8.2と推定されています。

巴川を大きな津波がさかのぼって、流域にあった家々を一気に海へ押し流し、86名の犠牲者を出しました。

当時の相浜村そのものが無くなってしまい、今でもその位置が何処だったのか分からないそうです。

大規模な地殻変動が起きて4-5mもの隆起があり、灯台のある野島岬は沖合の島から陸続きになったとのことです。

現在の相浜地区は元禄地震で隆起した浜の上に作られた新しい集落なのです。

津波犠牲者を弔った蓮寿院の供養塔
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相浜地区にあり、津波から10余年後の正徳4年に建てられ、今も供花や香が絶えません。
塔に用いた石材は優れたもので、地区の人たちの強い祈りを感じました。

元禄地震により房総各地で多くの犠牲者が出ていますが、このようにしっかりした供養塔はあまり残っていないように思います。

およそ200年後の関東大震災でもこの地区に津波が来ましたが、言い伝えがしっかり残っていたために犠牲者は出ませんでした。