5月16日に鋼製漁礁が館山市洲崎の波左間地区の沖に沈設されました。この波左間の海で岸からそう遠くない位置に、何の変哲もない古いコンクリートの台が、干潮のときに姿を現わします。

1945年6月下旬、一人乗りの特攻艇「震洋」58隻の配備命令(第18突撃隊第59震洋隊)が出され、隊長と176名の若者たちが配置につきました。

この年の3月から300余名の兵士により、艇の格納壕、資材用地下壕などが山手側にたくさん突貫工事で建設されました。洲崎灯台近くの栄の浦漁港にも、「震洋」の基地が作られました。

特攻艇はベニヤ合板製で、先端に250kgの爆薬を装填しており、米国艦船が東京湾に侵入する際に、岬の陰から突撃して体当たりしようとしたのです。すでに飛行機はわずかしかなく、首都東京を護るための苦肉の作戦でした。

もはや国内に充分な資材はなく、「震洋」の製造は遅れて、8月13日に6隻が波左間基地に到着しましたが、直ぐに終戦を迎えて若者たちを死なせずにすみました。

「震洋」の滑り台跡
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波によるコンクリートの破損が進んでおり、またウミネコたちが休む場所になっていました。

特攻艇「震洋」
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「震洋」は1944年秋からフィリピンや沖縄でたくさん使われ、多くの戦死者を出しました。本土では基地の多くに艇が間に合わなかったために、実戦では使われませんでした。

1945年8月16日に高知県手結基地で、「震洋」隊員や整備兵111名が爆死する事故がありました。すでに戦争は終っていたのです。

若者たちが決死の覚悟で待機していた時から、やがて63年になります。
そして今も館山市内と周辺各地には、このような戦争遺跡がまだたくさん残っています。

戦争を知らない世代や次代を担う子供たちに、平和の大切さを教える教材としてこれらを活用するため、4年前にNPOが設立されて、戦跡や地域の史跡へのガイド、出版など多彩な活動が行われています。

私もガイドの一人ですので、今後それぞれの戦跡やガイドの様子を載せていく予定です。