生配信中コメントに書いてくださった一文です。
YouTubeで毎日生配信をしています。もう2年くらいになるのですかね。はじめたての頃は収益化したいーだのたくさんのファンが欲しい―だの野望に近い目標をもって活動していました。
その熱意が伝わったのか、人柄を評価されたのか、まったく0から始めた生配信が少しづつリスナーが増えていき、コメントが盛り上がるには十分な数の方達が僕についてきてくださいました。
中には100人登録者記念として制作物をいただいたり、○○ファン、○○狂信者といった肩書をつけてくださる方も出てきました。
これらのことは嬉しかったのですが、さすがに狂信者というのは言い過ぎであり、半分冗談が混じっているというのもすぐにわかりましたし、登録者記念として記念品を毎度制作してくださるのも大変なことなので両者とも続かない、と冷静に考えていました。
しかし「一生ついていきます」「ずっと配信見続けます」という言葉はどうだろうか。
「狂信者」ほど曖昧な表現ではなく、制作物よりも簡単にこなすことができる(動画を見るのもカロリーを使うというのをは理解しています)。
直接的で発言者がどう思っているか素直に理解できる魔法の言葉だ。
実際その言葉に憑りつかれた私はその言葉を受け入れ、骨の髄まで堪能し生配信の活力として心にとどめていた。
とても嬉しかった。なんにでもない私がゲームをして反応し、何のひねりのない突っ込みにありきたりなボケ、これらを必死に叫んでいると画面の向こうで喜んでくれる人がいる。その決定的な証拠として誇示するには十分だと感じたのだ。
永遠なんてない。一生なんてない。今までもそうだった。生まれてから今まで何度も挑戦し何度も諦めた。そのたびに「永遠」が遠い存在だと思い知らされた。
あの魔法をかけた人たちは少しづつ姿を見せなくなり、コメントが来るたびに久しぶりと声をかける、旧友と道ですれ違うような間柄になった。
今コメントを打ちに来てくれた人はただの昔のなじみとして声を掛けてくれただけ。配信をずっと見に行くと言ったことなんて覚えていないのだろう。この温度差がたまらなく苦しかった。
向こうにとっては一生ついていくという言葉は私にむけての宣言ではなく、あくまでコミュニケーションの一部。それを自分が間に受けてしまっただけ、それだけなのだ。リップサービスと見抜くことができず、ただ自分を好きでいてくれると思い込んでいた。
完全に勘違い、一生なんて言葉はこの世に存在しない。それを信じる人がバカなのだ。
しかし、もし弁解の余地があるとしたら、
不安定な環境で奮闘する人に対して、「一生」という言葉をかけるべきではないのではないか。
いかにリスナーを増やすか、安定した再生回数を獲得するか模索している最中に「一生」だなんて言われるとそのリスナーを良く思ってしまう。
自分はそのリスナーに認められたのだ、特別な間柄なのだと。結果、今、こうしてブログを立ち上げなければならないほど裏切られた気分になっている。
昔は配信を楽しんでくれた。それだけでいいではないか。何が気にくわないのだろう。
約束を果たさなかった人への嫌悪感を持つ自分に嫌気がさす。無理な約束だと分かっているのに。
新しい視聴者様も来てくださる。もちろん昔から配信を見に来てくださる方もいる。
不思議なことに昔から来てくれる人は「一生」なんて言葉を使った人はいない。言葉の意味をしっかり理解しているのだ。
配信時間になるのを心待ちにし、待機画面中に挨拶をくれる人がいる。とても嬉しいことだ。配信者冥利に尽きる。
ある時私は言った「いつまで配信続けるかなー」
とあるリスナーのコメントが流れてきた「いつまでも見に来ますよ」」