第6章 土の匂いの夜明け
夜十一時過ぎ、山が低く唸りはじめた。
無線には「避難所追加」「土砂の流下速度上昇」「河川水位警戒」の文字列が重なって、ひとつひとつが鼓動みたいに目に打ち込まれる。
「西斜面上部、堰き止め崩壊の可能性。ふもとの集会所に濁流到達の恐れ」
管制の声に、朱音は思わず奥歯を噛む。「避難所に、避難が向かってるのに……」
「先行する」
香月悠斗はレインジャケットの裾を引き、救助隊に短く指示を散らした。「発電機、担架、ロープ、油圧スプレッダー。神谷、集会所で医療ブースの立ち上げを。状況によっては即搬出」
雨は粒が大きく、街灯の円を乱暴に叩いた。集会所に近づくほど、土の匂いが濃くなる。
斜面の上で、木が折れる音。黒い影が滑って、地表がわずかにうねった。
「来るぞ!」香月が叫ぶと同時に、山の口が開いた。
轟き。泥と石と、折れた枝。茶色い蛇が道を這い、集会所の壁にぶつかって、建物が呻いた。
窓ガラスが内側へ押し込まれ、悲鳴がいくつも重なった。
「負傷者多数!内部に取り残し!」
朱音は泥に膝まで沈みながら、玄関のガラスの割れ目から身を滑らせた。懐中ライトが濁った空気を切る。
体育館に敷かれたブルーシートの上、人が点在している。棚が倒れ、折り畳み机が歪む。
「歩ける人はここから!赤いコーンの向こうへ!」
自分の声が広がるより早く、子どもの泣き声が耳に刺さる。
「お母さんが……下に」
声の主は、あのトンネルで会ったハルだった。肩にひばりのワッペンのリュック。
「ハル!」朱音は屈み、目線を合わせた。「大丈夫。どこ」
「ステージの裏側……重い棚が――」
「香月!」
「聞こえる。ステージ裏、こじ開ける!」
香月は二人の隊員に合図し、油圧スプレッダーの口を棚の隙間に噛ませた。
「回す。1、2――」
金属がうなり、棚がわずかに持ち上がる。泥に濡れた床が滑る。朱音はその隙に潜り込み、圧迫された女性の胸の上下を確かめた。
「意識あり!呼吸浅い。胸痛の訴え、肋骨の変形……」
「固定具!」
コルセットで胸部を保護し、下肢を引き出す。女性の頬に泥がつき、目尻に涙と雨が混ざっていた。
「こわかった……ごめん、ハル」
「お母さん!」
二人の指が触れた瞬間、朱音はほんの少しだけ目を閉じた。好きな音だ――再会の、指をたぐり寄せる音。
だが、安堵は薄い紙だ。次の瞬間、外壁の向こうで木が折れる鈍い音。
体育館の端、ガラス越しに土がまた一段盛り上がり、避難口のドアが内側に押された。
「二次流入!撤収ライン、北側へ移動!」香月の声が飛ぶ。「神谷、重症を優先!」
朱音は手早くタグを配り、赤・黄・緑を線引きする。
頭部裂創で意識レベル低下、右大腿の変形――「骨盤シーツ巻きます。痛いけど我慢して」
足元の泥が吸い付いて、担架が一瞬沈む。
「ロープ使う。斜面に向かって後ろ歩き。転回はせず前進のみ」
香月の声を背中で受け取りながら、朱音は口の中で患者の名前を繰り返す。呼ぶたびに、彼らが此処にいる輪郭が濃くなる。
「香月、梁のひずみが――」
隊員の警告とほぼ同時に、天井の梁がミシ、と鳴いた。
視線を上げた朱音の眼前で、照明機器が鎖ごと外れ、落ちてくる。
反射で身をかがめたが、足場が泥に取られて遅れる。視界の端に黒い影――
「神谷!」
香月が体を投げ出し、彼女の肩を引いた。照明が脇を掠め、床で粉々に割れる。
衝撃で朱音の耳が一瞬聴こえなくなる。代わりに、自分の心臓の打つ音だけが巨大化する。
「だいじょうぶか」
「……大丈夫。あなたは?」
「平気」
彼の額に血。朱音は手袋ごとそれを拭い、ほんの一秒、彼の額に自分の額を寄せた。マスクのプラスチック越しでも、体温は伝わる。
「命令。離れるな」
「従う」
外への搬送路は一本に絞られた。泥流は弱まったが、足元は深い。
朱音は担架の先頭で、声を絶やさない。
「呼吸、合わせましょう。吸って、吐いて――いいです、その調子」
患者の意識が落ちかけるたび、名を呼ぶ。「由佳さん。ここです。まだ行けます」
由佳はうなずき、歯を食いしばる。担架が段差を越えるたび、彼女の手が朱音の袖を確かめるように摘んだ。
外に出ると、雨は小降りになり、代わりに重機の音が近づいていた。
臨時デコンで泥を落とし、救急車に収容。
心電図、血圧、SpO₂、視線。
「痛みコントロール入れます。呼吸数は維持。胸部所見は……気胸なし、出血コントロール良好」
朱音は短く息を吐き、香月に目で合図する。
彼は親指を立て、すぐ次の瓦礫へ向かった。
搬送の最中、朱音の耳元で、患者がかすれ声で言う。「……ありがとう。名前……神谷さん」
「はい」
「生きて、返す」
「じゃあ、約束です」
言葉にすると、胸の奥で灯が強くなる。約束――この夜、いくつ積み重ねたろう。
病院での引き継ぎを終え、未明。
雨はやみ、雲がほどけはじめた。
消防本部の前で、香月がレインジャケットを脱ぎ、深くひとつ息をついた。衣服の泥が乾きかけ、肩の筋肉が疲労で静かに震える。
「終わったか?」
「ひと区切り。……生きて、帰ってきた」
「じゃあ」朱音はポケットから、くしゃっとなった紙袋を出した。パン屋《ひばり》のロゴ。
「こんな夜に?」香月が目を細める。
「さっき寄った。オーブン、無事だった。店主さん、『現場の人へ』って。夜通し焼いてくれてた」
紙袋を開けると、焦げ目の美しいカンパーニュと、じゃがいもフォカッチャ。湯気はないのに、香りは温かい。
二人、横並びで階段に座る。夜明け前の空気が、とても薄く、とても澄んでいる。
まだ濡れた街路樹の葉が、かすかに風に鳴った。山の黒い縁が、青に変わる。
パンを齧る。粉の甘さが、舌の上に帰ってくる。
「……反則」
「だろ」
同じ言葉、同じ笑い。けれど今は、その奥に、二人だけが知っている夜の重みがある。
「香月」
「ん」
「約束、伸ばしてもいい?」
彼は少しだけ驚いた顔をして、それから頷いた。「伸ばそう。ずっと」
「それ、命令?」
「希望」
朱音は笑って、目を細めた。「従います」
その時、東の雲が裂け、山の端から薄い金色が滲んだ。
鳥の声――ひばりがひとつ、空のどこかで鳴いた気がした。
街は目を覚まし、サイレンのない朝が、ほんの短い時間だけ訪れる。
朱音は立ち上がり、手を差し出す。香月がその手を取る。指先の泥はもう冷えていたけれど、掌の中心には確かな温度が残っている。
「行こうか」
「ああ。続きの、続きへ」
二人の影が伸び、そして重なった。
約束は、朝焼けの中で、静かに更新された。
登場人物紹介(主要キャスト)
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神谷 朱音(かみや あかね)/32歳・救急救命士
山間の中核市の救急隊員。現場では声が一段低くなり、判断と手際が鋭い。名乗りと相手の名前確認を最初にする癖がある。短く結んだ黒髪。好物は《ひばり》のじゃがいもフォカッチャ。 -
香月 悠斗(かづき ゆうと)/34歳・消防隊長
寡黙で責任感の塊。水難・火災・災害現場での統率力は抜群。冷静だが、要所で体を張るタイプ。命令口調を便利に使うが、芯はとても優しい。短髪、精悍な目元。 -
ハル/小学低学年の男の子
第5章トンネル事故の生還者。ひばりのワッペンがついた小さなリュックを大事に抱える。第6章で避難所で再会し、母を案内する勇気を見せる。 -
由佳(ゆか)/ハルの母
避難所で棚の下敷きになり負傷。痛みに耐えながらも、息子の声で気力を取り戻す。搬送後に回復の約束を朱音と交わす。 -
りょう/湖畔キャンプ場の患者
炭火による一酸化炭素中毒で意識障害。朱音の酸素投与と迅速搬送で救命の糸をつかむ。回復途上で名を名乗る。 -
《ひばり》の店主・小野寺 慎(おのでら しん)/30代・パン職人
夜明け前から窯に向かう港区出身の職人。現場帰りの人に温かいパンを手渡すのが密かな矜持。非常時には“現場の人へ”と差し入れを焼き続ける。
サポートキャスト
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救急隊員・沢渡(さわたり)
朱音の同乗隊員。モニター管理と搬送段取りが早い、頼れる右腕。 -
消防副隊長・東条(とうじょう)
香月の腹心。ロープワークと水難救助に長け、川・土砂現場で力を発揮。
医療・現場のキーワード(読者メモ)
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CO中毒:酸素飽和度(SpO₂)が正常に見えても安心できない。専用計(SpCO)や症状で判断、酸素投与を継続。
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トリアージ:多数傷病者発生時の優先度分類(赤・黄・緑・黒)。
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背部固定/胸骨圧迫:朱音の“手”の矜持。速く・深く・戻す、の鉄則。
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約束:二人が“生きて帰る”ための合言葉。パンとサイレンの間にある、小さな灯。
あらすじ
山あいの中核市。救急救命士・神谷朱音は、夜明け前のサイレンに呼ばれて走り続けている。ある霧の事故現場で、寡黙な消防隊長・香月悠斗と出会う。的確で胆の据わった指示、要所で必ず体を張る背中。現場の終わりに勧められた小さなパン屋《ひばり》の温度が、二人の距離を少しずつ解かしていく。
湖畔のキャンプ場でのCO中毒、秋祭りの川での水難、トンネル火災での多重事故、そして豪雨による土砂流入――命の境目が次々と押し寄せる中、朱音は「名を呼ぶこと」を、香月は「約束を伸ばすこと」を、自分の矜持として選ぶ。
恐れも、ためらいも、現場では言葉にできない。だから二人は、食べかけのパンの“続き”を合図に生きて帰ることを誓い合う。
救いたい人の手と、隣で戦う人の手――その両方を離さずにいられるのか。土の匂いの夜明け、二人はようやく同じ温度でパンを分け合う。サイレンの間に灯る小さな温もりを描く、救助×ラブストーリー。

