真田丸では、昌幸&信繁親子の蟄居地として有名になりましたが、
前回の高野山とも非常に関係の深い場所です。

●丹生都比売神社


九度山の町から少し離れたところにあります。
空海の金剛峯寺建立にあたっては、丹生都比売社が領地を寄進したと伝えられます。(おや?)
高野山への入口にあり、高野山参拝前にはまずこちらに参拝する習わしだったそうです。
高野山にはここから分祀された社もありましたね。

と言うわけで、高野山よりも歴史の深い社なんですが、元は何かというと
「丹(に・たん)」つまり「丹砂(たんしゃ)=硫化水銀」の産地です。
古代中国では、丹には魔を払う力があり、不老不死の仙薬であると伝えられてきました。
不老不死を願った秦始皇帝の死因は、水銀を服用し続けた為の水銀中毒とも言われていますし
始皇帝が復活を願って作ったお墓:兵馬俑には水銀の川が流れていたとも言われています。

こういった思想が古くから日本にも伝来していたことが見られます。
『魏志倭人伝』に書かれる当時の日本人は、魔除けとして朱丹を身体に塗っていますし、
倭王から魏国王への贈答品として、奴隷・倭錦・綿衣などと併せて「丹」を贈っています。
古代奈良の古墳、例えば藤ノ木塚古墳の石室は今でも丹の朱色で真っ赤っかです。

そんな丹はどこでも採れる物ではありませんでした。
特に古代日本では、近畿地方南部(和歌山・奈良・三重)局地的に、産地が集中しています。
その内の1つが『丹生都比売神社』のある、ここだったんですね。

空海は三鈷諸を投げて高野山の場所を決めたと言われていますが…
朝廷と丹の産まれる国と空海と。土地絡みの話にしては伝承がスムーズに進みすぎです。
何か関係がありそうですね…


●丹生官省符神社
九度山の町中から少し歩いたところにあります。
慈尊院と同時に創建奉祀されたと思われる神仏集合型のつくりです。
空海に高野山を教えてくれた高野明神がご祭神であり、神使は白・黒二頭の犬。
安産(子授け)導き(縁結び)家内安全、試験合格、商売繁盛、交通安全、厄祓、厄除等
生きるための全ての導きの神とされています。
「官省符荘」とは太政官符・民部省符を得て不輸租を認められた荘園のこと。
それだけ丹生都比売社近辺の丹国は大勢力だった?朝廷とも繋がっていた?想像が膨らみます。
実は「丹の産まれる国」については大学時代に残してしまった課題の一つでもあり…
こんなところで再会するとはなぁ…と頭を抱えている最中でもあります。


●慈尊院

高野山参詣の表玄関として創建。庶務、宿所、冬期避寒修行場など機能がありました。
空海の母が讃岐(香川県)からやって来たものの、当時の高野山は女人禁制だったため
ここに留まって弥勒菩薩を篤く尊崇されたそうです。
空海は母に会うため、一ヶ月に九度(9回でなく「何度も」の意かな?)訪れたことから
この辺りの地名が「九度山」になったそうですね。
それから慈尊院は「女人高野」女性が参拝できる限界寺として信仰を集めています。
「女人」の名の通り、ご利益も女性らしいものばかりです。

●真田庵

正式には「善名称院(ぜんみょうしょういん)」
真田昌幸・信繁は始め高野山蓮華定院で蟄居していますが、あまりの寒さに九度山へ。
その九度山時代の、昌幸庵跡(と言われる)地に、地蔵菩薩を安置した一堂を創建したのが始まり。
何かすごいです。一度に入ってくる情報量が多すぎて、溺れそうになります。


●真田の抜け穴

と伝わっていた穴がある。
その穴から善名称院までを繋ぐ真田氏の造った抜け穴であるとか、
大阪城まで繋がっていると長い間信じられてきたが、
発掘調査によって、古墳時代後期の横穴式石室を持つ円墳であることが判明した。
間違っても「ここから大阪まで穴掘る力があるんだったら、そのまま大御所にぶつけた方が強い」
などと言ってはいけない。思った以上にしょんぼりされてしまい、笑い事では済まない。