衆議院選挙まで1週間となった。

選挙戦術のテクニカルな部分だけで強行したような今回の解散は

国民からすれば茶番とも取れる動きであり、投票率も毎度ながら

低めにとどまるだろう。

各党の公約が概ね打ち出されている。注目されるところは

やはりアベノミクス批判であろう。

なんといっても経済政策という空気がこの日本を覆っている雰囲気がある。

与党の自民党は経済成長という進歩主義にいまだにとりつかれているが

野党もあまり代わり映えはなく、有象無象とはよくいったものでどの党をみても経済の好循環を前提としたポピュリズム政治のように思えてしまう。

政治はポピュリズムだけでいいのだろうか。

いつも感じるのは日本の成長期の幻をいまだに追い求めて破綻寸前まで来ている財政をどうするのだろうかということである。

まるで金融緩和でシャブ漬けにしているとさえ思える。

最近、西部すすむ氏が1986年に著された「貧困なる過剰」に以下のような記述があり、現在に続くブレない保守思想を感じたので一部引用してみたい。


「大衆を定義してみると、近代のテーゼあるいはイデオロギーにほかならぬ”豊かさ” と ”等しさ”という二本柱の価値に対していささかも懐疑の念をもたない人々ということになる。もっと弱く定義すると、内心では疑いの念をもっていたとしても、それをきちんとしたかたちで表現する努力を放棄した人々、それを大衆とよぶわけである。そして大衆社会が高度であるというのはどういう意味かというと、社会のあらゆる部署を占拠した状態をさす。つまり政治のみならず社会、文化および経済のすべての領域において、豊かさと等しさとが価値基準になりおおせている。それらにたいする懐疑を明確なかたちで表明することが、タブーになってしまっている。こうした状態をもって高度大衆社会とよぶ。日本はいま世界でもっとも高度に発達した大衆社会である。規模としてというよりも、そのパターンの純粋さにおいて、日本は他に抜きん出ているのである。」


30年も経過したのだから日本の進歩主義もだいぶ薄められてきているとは思うが、財政の赤字が1000兆を越した今、この方向性にもっと懐疑的な方向性を示す政党がひとつぐらいあってもいいなずだと思うのだが。

自給自足がテーマの番組がウケる現在でも政治では退行主義を打ち立てることはできないのだろうか。

ともあれ、来年にはアベノミクスの通信簿が発表され、国民は徐々に価値基準をお金から別のものへ転換させていくように思われる。

創造と破壊でいえばいまは「破壊」の時期なのだろう。

ひと昔前、ロンボク島を訪れたときのはなし。

知り合いになった青年が、もう1年ちかく仕事をしていないというので

生活費はどうしてんの?と聞くと、ともだちが面倒みてくれているということだった。

しかもその親切なともだちは村の多くの若者の面倒をみているらしい。

それで揉めたりしないのかと聞いてみると、まったくならないどころかそうするのが当然だといわんばかりであった。

どうやらそこでの贈与には暗黙の反対贈与が発生するらしく従属関係とはならず、平等な関係を保てるらしい。

損得勘定が蔓延る日本では希薄になってしまった、共同体の結束というものを垣間見たような気がした。


現代の文明社会では、親子・夫婦・恋人・まれに親友、を除いてはあまりみられなくなってしまったこの贈与原理であるが、未開社会においては、寛大さ、気前のよさ、親切なもてなしこそが最高の美徳とされ、逆にケチ、出し惜しみ、貧欲が最高の悪徳とされているという。


大きな豪邸に住み、高級車やクルーザーをもち、たくさんの宝石や預金をもつひとは現代では私的蓄蔵に成功したひととして尊敬されるが、未開社会においてはまったく逆で、気前よく何もかも自分のもっているものを与えて質素に暮らすひとが社会的名声をえていたという。


この贈与原理は西洋文明においての個の確立によって利潤原理へと変貌したといわれている。しかし、古代ローマ法などからかつて西洋文明にもこれに近い相互性が存在していたとこが解明されている。


アメリカを筆頭に世界中で進行している格差問題を考えるとき、この贈与原理がかつては人類の普遍的な公理であったということを思い返す必要があるのではないだろうか。


日本人は外交問題に関して、サファリパーク内の動物であるという比喩をどこかで聞いたことがある。自分たちは自由であると思っているが、外からみると実に縛られた(特に軍事に関して)、かの国に飼いならされた属国であるという内容である。非常に的を得た表現だと関心したことを覚えている。


あと数日で敗戦後69年目となる現在、日本はこのサファリパークからの開放、脱却、及び自立を目指して、集団的自衛権行使容認等の政策を挙げているのだろう。そういう実態もあるということが国民全体の意識に浸透しているかというと、どうだろうか。

実際、平和憲法によってもたらされた恩恵が多大なものであったことは疑いようのない事実である。その憲法に修正を加えるということは、いわばサファリパークのゲートを開けてしまうようなもので、いつ野生の動物が侵入してきてもおかしくないのだから、不安になるのは当然である。


しかしこのサファリパークのシステムが今後も変化なく持続可能なのか、あらゆる世界情勢の変化にも対応できるのかということが問題であり、それを議論せずに、思考停止のまま、ぬるま湯に浸かっているだけなら、それは怠慢というとこになるだろう。


これからの日本の進むべき方向に関する政府と国民の議論は依然として乖離したままのように見える。

いまの日本を取り囲む経済、外交、倫理などはある意味窮地に立たされている状況と見ていいだろう。


戦後日本がとってきた外交姿勢の検証は国民全体で行うことが必要であると考える。

政府や野党はもっと実効性のある、国民の合意を取り入れた政策を立てられはしないのだろうか。

どの政党を見てもサスティナブルな社会の構築よりも選挙中心のポピュリズム政治に見えて仕方がない。

世界的にも例を見ないすばらしい文化、倫理観をもった国だと感じるからこそ、未来の日本が心配になってしまう。


先日 into the wild という映画をみた。

内容は 若い青年の放浪の旅 さまざまな出会い というよくありそうなストーリーだが、いろいろな意味で深い映画だった。

旅に出る理由はひとそれぞれあるが、この主人公の青年のそれは「真理の追究」であった。ソロー、トルストイ、ジャック・ロンドン、バイロンなどを読み漁り人生の意味や精神の自由を探求する。

幼少期の両親の不仲という家庭環境のなかで、現実社会の偽善をより忌み嫌うようになった彼の心はより強く真理を追い求めるようになる。

大学卒業後、金とか名誉とかを投げ打って、家族、物質社会と決別し、「荒野」に答えを求めアラスカをめざして旅に出る。

道中、心の強さを求めながらいろいろチャレンジしていろいろ体験する。

しかし彼が最後に見出す価値観は、「シェア」であり、一番の幸せはその瞬間をだれかと共有することであると悟る。

ある意味、ブッダの解脱にも共通するいのちがけの崇高なモチベーションというと言い過ぎかもしれないが、実話であることや、展開のラディカルさを含めばそれぐらいのインパクトはある。

やはり旅というのは現実社会に懐疑心をもつものにとっての「真理の追究」であり、ヒッピーが旅をするのがその典型だろう。

それと同時に結局ひとはひとりでは生きられないということも改めて感じられる映画だった。