最近は、ダウンタイムと呼んで、「何もやる気も出なくてダラダラする時間」を否定も肯定もしないことにしている。
自分に嫌悪感を覚えたり、焦りを感じたりしても、ダウンタイムなんだと思うことにした。
だからってわけじゃないけど、最近は短いスパンで「生きてていいんだ」と思えることが増えた。
音楽を聴きながら仕事をしていると、途中で泣いてしまうんだな。
だいたい徹夜して、やってたことがうまくいって、それを他人に見せて、もちろん反応もよくて、その日か次の日の心地よい気怠さの中で音楽を聴きながら仕事をしてる時に多い。
昨日はくるりの「ワールズエンド・スーパーノヴァ」。特にバンド編成でのライブ。
1つめ。仕事中、歌詞はところどころ断片で入ってくるが、その断片が詩的なことが重要。あるいは許しを与えてくれたり、認めてくれたりする歌詞の断片があること。
この曲だと、「do be do be dada do スタンバイしたらみんなミュージックフリークス」とか。
2つめ。ベースが好みであること。好みっていうのは、つまり今まで好きになってきた曲と同じか近いコード進行で、結構ちゃんと聴こえてくるってことだな。
3つめは、たまたま聴いた曲ってこと。その曲を選んで聴いたりするより、最近知った新しいアーティストの曲のランダム再生とか、類似したアーティストのプレイリスト再生など。こればっかりは今の音楽のプラットフォームがサブスクベースだったりすることが大きいかもしれない。
出会いが多いからね。
ちょっと話がそれたが、
要は泣くのはさ、
「生きてていいんだ」って思えるからなんだよね。
「生きててよかった」じゃないんだよ。
「生きてていい」なんだよ。
これってのはさ、尊厳って言ったらよく分かりづらいけど、じゃあdignity って言ってもまぁより近いけど、英語わからんとわからんよね。
つまりさ、尊厳も自己肯定感もdignity も、要は「生きてていい」ってことなんだよ。
それをさ、感じる瞬間は、他人から肯定された時じゃないんだよ。
他人から肯定されたからって、自分が自分を肯定できるわけしゃない。
第一、「肯定」って言葉があまり好きじゃないんだな。サリンジャー的にいうと、"インチキ"なんだよ。
僕が翻訳するなら、多分「自分を悪くないって思うこと」とか、「今の自分を許せること」ってことだと思うんだよ。
アメリカ人やなんかで積極的に自分を肯定できる人が日本に比べて多いのは、これは文化の違いだろう。だから、dignity と、それを日本に輸入してできた「自己肯定感」とか「尊厳」とかっていうと、なんだか文化的に日本に土着しないんだな。
肯定するっていうのはさ、アメリカ的には「劣ってるように見えて、これはこれで素敵」みたいなニュアンスでも使っていけるけどさ。
日本だと、まず自分は他より劣っているっていう所から発せられた言葉じゃないと"インチキ"みたいに感じるんだよ。だって、劣っているのにそれを肯定するってきれいごとじゃない。孤高の存在として劣るところを肯定したところで、孤高さを高めるじゃない。
だからさ、劣っている部分がさ、「なんかそれはそれでうまく事が動いてしまったな」みたいな現象を伴って初めて、「こんな自分でもできんじゃん」っていうところに落ち着けるわけだ。
これは「肯定する」とかじゃない。「許し」なんだよ。自分が自分を許せること。「生きてていい」って自分で思えたときに涙が出るんだよ(まぁそれ以外でもいろんなことで涙出るけどさ)。
こういうのってさ、「成功する方法」とか「自分を肯定する方法」とかに回収されたくないんだよ。
許しってのは、どこまで行っても自分の中だけの話なんだよ。明らかに仕事がうまくいく、とか、具体何かいいことが起こるわけでもない。
あるいは、否定されても挫けないとか、傷付かない、とかでもない。
そもそも自分が自分を嫌いになって、死にたくなって、どうにもならなくなって、誰か褒めてくれないか、誰かの役に立てないのか、そうやってどんどん許せなくなる自分を、下ろすってことなんだよ。ただそれだけのことなんだよ。
「生きててよかった」と感じるのは一過性のもの。岡本太郎の言葉を借りれば、瞬間の爆発。歓喜。幸福とは異なる。
それに対して、「生きてていいんだ」っていうのは、荷下ろし。マイナスから0に戻るってことなんだな。幸福度の高いフィンランドはサウナで有名だが、苦しさを乗り越えて常温に戻ろうとする肉体的な反応が気持ちいいわけで。
こういうときに、頭で考えて肯定するとかなんとか言ってちゃだめなんだよ。
こういうものは、心臓の爆動とか、涙が出るとか、肉体反応しゃないとだめなんだよ。
こういうものを「整う」って言ってもいいし、「荷下ろし」って言ってもいいし、新しい言葉を生み出したいね。dignity でも自己肯定感でも、尊厳でもない、日本語でさ。
