ここのブログはかなり久しぶりになってしまいました。10ヶ月ぶりぐらいでしょうか。
毎日書いていたことが、週1になり、月1になり、年1になって、フェードアウトする。そんな感じなのかもしれません。
賢者は愚者からも学び、愚者は賢者からも学ばず、という言葉がある。
些細なことからでも、気づきを得て、自分のものにしようとする人もいれば、何かの研修を受けても、くだらない、意味がない、自分には当てはまらない、と批判だけする人もいる。
賢者は、賢者風な装いはしていない。学歴的には大したことないかもしれないし、資格もたいして持っていないかもしれない。
でも、学びに対して謙虚で真摯だったりする。
逆にここでの「愚者」は、学歴が高かったり、色々知っているかの如く賢者の装いを漂わせている。
たまたま、社内で研修講師的なことを仰せつかい、30名程度の前で話をした。
その後のアンケートを読ませてもらい、この賢者と愚者について思いを馳せた。
拙い研修であっても、何かを気づきを得られたような感想を書いてくれた人もいれば、こんな研修は意味がないといった感じのことを書いた人もいた。
人はどうしても、ネガティブな意見に自分の感情を持っていかれてしまいがちだで、それほど多くない批判的な意見が気になってしまいっている自分がいた。
ネットでの誹謗中傷も、少数意見だったとしても、ノイジーマイノリティに感情を持っていかれてしまい、その意見によって、自らの命を絶ってしまう人もいる。
自分はどんなことからも学べる賢者なのか、それとも学べない愚者なのだろうか。
見た目の賢者で実は愚者なのか。それとも、見た目は愚者で、実は賢者なのか。
尤も、見た目も実際も賢者な人もいるし、その逆もいる。
もう一歩、踏み込んで考えると、賢者の装いをした愚者の背景に何があるのか。何がそうさせているのか。
自分がこれだけ勉強をし、これだけの知識も仕事の力量もあるはずなのに、評価されなかったという被害妄想からなのか。
自分がやってきて、それでずっと上手くいってきたし、これからもそのはずで、それを他からの新しい知識によって否定されることは、すなわち、自分の存在が否定されるという思いがあるのか。
どちらにしても、自分自身はそうしたことを意識していない。
いや、僕自身も意識していないだけで、このような思いを抱いているはずだ。
そして、無意識から発せられる言動が、賢者に見える愚者にさせてしまう。
賢者に見える愚者は、全てにおいてまずは否定から入ってしまう。
それは、自分のコンプレックスを見ないようにしているからなのか。
いずれにしても、周囲から見れば、賢者に見える愚者ほど「痛い」存在はない。
まずは、賢者のように装いっている自分に気づき、実は愚者であったことに気づくことからなのかもしれない。