匠屋的ものの見方・考え方 by 中島潤一郎 -2ページ目

いろいろな角度から眺めてみる

皆様こんばんは、中島です。


またまた、筆不精ですみません。どうも震災以来、モチベーションが上がりません。


震災以来、原発が継続的・世界的問題児として取り上げられておりますが、弊社もそのあおりをくった形で、イベントや国際会議のキャンセルが続いております。大変な危機と言えましょう。


しかし、原発が事故を起こしたから今回のような様々な問題点が浮き彫りになったのではなかったでしょうか。


例えば、大相撲もそうです、八百長という昔から喧伝されている問題が表面化したような報道により、相撲の歴史や文化はそっちのけで、まるでなくなったほうがいいとでもいうような取り扱い。


逆に、現政権では「暴力装置」とまでのたまったその対象である自衛隊のこの活躍。もし、自衛隊がなければ、果たして日本は日本として5月を迎えることができたのでしょうか。


私の大切な友人のメールに次のような文章がありました。


(前略)「社業(傘)のシーズンでもあり、張り切っています。」(後略)


なんのこっちゃ、でしょうが、要するに、これからの梅雨のシーズン、多くの方は、いやな季節、と言うのですが、彼女は「張り切っている」のです!


このメールをいただいて、上述の通り、今問題になっていること、今悪のように言われていること、またその逆のこと、私たちは自分勝手な見方・考え方で、一方的に思い込んでいないかな、と思ったのです。


梅雨こそ私たちのシーズン、と言い切ることから、私たちは、物事をいろいろな角度から眺めてみること、その冷静さが求められているのではないでしょうか。


他責では何も解決されません、今こそ自責で進むべき時だと思わせて頂いた、何気ない一言だと感じました。


有難うございました。


中島 潤一郎

健康とは何か

皆様こんばんは、中島です。


最近、健康とは何か、についてよく考えることがあります。それは自分自身のことや周りの人々、また国内外の報道など、様々なことが対象ではあります。


例えば、ご存知の通り、世界保健機関(WHO)憲章の一部として有名な章句に、次があります。


「健康とは、完全な 肉体的、精神的及び社会的福祉の状態であり、単に疾病又は病弱の存在しないことではない。 到達しうる最高基準の健康を享有することは、人種、宗教、政治的信念又は経済的若しくは社会的条件の差別なしに万人の有する基本的権利の一つである。」


すなわち、健康とは基本的人権であり、肉体的、精神的、社会的福祉のことである、と言っています。


このように考えると、いったいどのような人が、健康なのでしょうか?また、そうでない人は、どうすれば、基本的人権であるはずの健康を手に入れる、または、その状態に近づくことが出来るのでしょうか?


肉体的福祉を求めれば、その過程において、精神的・経済的負担が増すことは予想されますし、精神的福祉を求めれば、肉体的・社会的負担が増すことが予想されます。また、自らだけを対象にした途端、自分以外はどうでもいいのか、またそのような自己中心的な環境の中で、はたして自らの健康を維持できるのか、という問題もあります。


私たちは個人が自らを高めることを基本とし、それらが集まって社会を作り上げているということを、もう一度見直さなければなりません。社会が良く見えても、個人が不幸では間違っていますし、個人が幸福でも、社会が不幸であればそれも否です。民主主義、資本主義を否定し、社会主義、共産主義を肯定しているのでは、もちろんありません。しかし、たった一人の人間が、いざとなったときに出来ることなんて、本当に知れている、だからこそ、自らの無力や無知を認知したうえで、社会との接点を大切にして、社会全体を豊かにすることを考える、そして、その基本的考え方の一つとして、因果応報、陰陽など、古より指摘されている世の中の仕組みを理解することが大切なのではないか、と特に今日この頃、東京にいて思います。


中島 潤一郎

【感電】する人、【感電】させる人

皆様こんにちは、中島です。


先日、私の大好きな致知出版社の藤尾社長のお話を伺う機会がありました。


一つだけおすそ分けしたいと思います。


「S氏は、N氏に対して【感電】したんですね!」


人に対して敏感になり、言葉に対して敏感になり、そして、運命的な出会いが、結果【感電】とまで表現させるような結果を生む。このことをきっかけに、S氏はN氏の「法脈の人」となりました。法脈とは血脈に対する表現で、血縁ではないが、法(のり)を継ぐことでその人の意志を継承する立場のことを言います。


私たちは、人を【感電】させるような、発言や行動をしているでしょうか。また、私たちは、【感電】するような師友と出会い、交際しているでしょうか。


今こそ、私たちは自らの運命を、「切り開かなければ」なりません。感電させ、感電したい、と強く思いました。


中島 潤一郎


自粛を自粛する

皆様こんばんは、中島です。


また、ご無沙汰してしまい申し訳ありませんでした。


震災以来、東日本をはじめ世界中が戦々恐々とした雰囲気に飲み込まれています。弊社の仕事である、イベント・コンベンション・展示会は、軒並み中止の憂き目に遭っており、業界全体が悲鳴をあげています。おそらく破綻する会社が続出するでしょう。


そんな中、私の学んだ大学院の学長であり、SBIグループの代表である北尾吉孝氏がブログで次のように述べておられますのでご紹介いたします。(あくまで私的行為であり営利目的ではないということで、無断転載、北尾学長、ご容赦下さい。)


以下本文。


今あらゆる経済活動に関して過剰とも言えるような自粛ムードが広がっています。
例えば、花見を自粛する、一般企業の宴席を自粛する、フィギュアスケートの世界選手権を自粛する、あるいはプロ野球についても大揉めに揉めた挙句、開幕を延期しナイターを自粛するといったように有りと有らゆる所で自粛が蔓延しています
http://www.jiji.com/jc/zc?k... )。

同胞意識の強い日本国民の一人として、私も「被災地が大変な状況なのに宴会をしていて良いのか!」とか「こんな時に花見をやって良いのか!」というような心情は勿論理解出来ます。
しかし以前ブログでもご紹介した通り
http://www.sbi-com.jp/?m=pc... )、所謂「合成の誤謬」と経済学の世界で言われることを考えて貰いたいのです。
つまり個々人は「節倹の美徳」として無駄遣いをしないことを美徳とするような部分がありますが、経済活動というのを全体として見れば、個人消費が落ち込めば経済活動は停滞しGDPが減少してしまいます。
今の自粛騒ぎについては心情としては理解出来ますが、あらゆる経済活動にこの動きが広まって行くとすれば、デフレから脱却出来るかどうかという中で日本経済は更に難しい状況に陥って行くことになるでしょう。
従って、私は寧ろ「自粛を自粛せよ」と言いたいのです。

それから不謹慎という言葉がよく使われていますが、この言葉にも大いに問題があると思っています。
今回大地震が起こったということ、そして震災により甚大な人的被害・経済的被害が発生したということは、既成事実としてまずは確りと受け止めるべきでしょう。
そして今から如何に早く復興を成し遂げるのかということに我々日本人は全神経をつぎ込んで行くべきではないでしょうか。
それこそが震災被害に遭われた地域の人々に対して、様々な資金的援助・物質的援助を可能にする唯一の方法なのです。
日本全体が沈没して行くようなことでは、そのような援助を十分に施すことも出来はしません。
資金的・物質的に現時点で不足しているものを満たして行くため、そして一刻も早く復興を成し遂げるためにも、他の地域経済を活性化させて行くということが非常に大事になるのです。
それ故、私は最後にもう一度言いたい、「自粛を自粛せよ」。

以上本文。


事実をしっかりと受け止めること、そして正しい現状認識のもと、今何が必要で、いつまでに何をしないといけないのかを明確に描き出し、速やかに実行する。これが私たちに求められていることだと思います。


自粛したい人は自粛すればよろしい。無理にとは言いません。しかし、今こそ明日への一歩を踏み出すことこそ、私たちの使命だと、少なくとも私は思います。


中島 潤一郎

青森県弘前市、「りんご娘」

皆様こんばんは、中島です。


本日、東京駅日本橋口にて「りんご娘」の出演するイベントに参加してきました!


明日、新青森に出発する「はやぶさ号」にりんご娘は搭乗し、東京から新青森の開通を祝うそうです。各種ニュースが楽しみです。


私の大学院の友人、樋川さんがこれらを仕切っているわけですが、りんご娘が歌っていた歌、なんと樋川さんが作詞作曲!


♪「走り出すのさ(ビュン!ビュン!突っ走るのさ)僕らのまちへ(ドン!ドン!つながって行く)はやぶさが夢を乗せて行く♪


はやぶさ就航にあわせての歌ですが、このような思いがあるそうです。樋川さん、勝手に吐露しちゃいます。


樋川氏「青森から東京へ、線路でつながったのだから、青森の若者よ、一度は東京へ行ってくれ。そして、また線路でつながっているのだから、また経験を積んで青森に戻ってきてくれ!」


目頭が熱くなるような熱い想い、それを実行する卓越した行動力、そしてそれを音楽にする意外な?センス。脱帽です。


皆様、青森県を是非ご贔屓に、りんご娘をご贔屓に、そして樋川さんをご贔屓に。


本当に教えられた時間を有難うございました。


中島 潤一郎