記紀によると皇室は初代の神武天皇が大和朝廷を起こして以来、男系男子による皇位継承が行われてきた、万世一系であるとしています。
ところが一部の歴史学者のなかには、その事実を認めない人がいます。「皇室は過去何度も断絶している、万世一系ではない」という見解です。
具体的に言うと、10代崇神天皇、15代応神天皇、26代継体天皇の時に皇室は断絶し新しい王朝に取って代わられているという見解です。
前回は「26代継体天皇の時に王朝の断絶、交代があったのではないか?」という問題について考察しましたので、今回は「10代崇神天皇の時にも王朝の断絶、交代があったのではないか?」について考察したいと思います。
記紀では初代の神武天皇は始馭天下之天皇、10代崇神天皇は御肇国天皇と記されています、これは現在では共に「ハツクニシラススメラミコト」と発音されています。
「初めて国を治めた天皇」という意味です。そうすると「初めて国を治めた天皇」が二人いることになり、おかしなことになります。
そこで神武天皇と崇神天皇は同一人物ではないか?と言う説が出てくるのですが、二人の天皇の事績や都の位置、御陵の場所、家族構成などが全く違っているため、あまり説得力がないように思います。
そこで次なる説として始馭天下之天皇と御肇国天皇、昔は発音が違っていたのではないか?という説が出てきます。
すなわち始馭天下之天皇は「ハジメテアメノシタシラス天皇」と、御肇国天皇は「ハツクニシラス天皇」と発音されていたということです。
確かにそれはあり得ることですが、発音は違っていても意味的には両方とも「初めて国を治めた天皇」となるので何だかスッキリしません。
そこで出てきたのが王朝交代説です。崇神天皇の時代、前王朝は滅び崇神王朝があらたに始まったという説です。確かにそれならば二人の「初めて国を治めた天皇」がいてもおかしくないように思います。
崇神天皇の本名は「ミマキイリヒコイニエ」と言いますが、これを「みま来入彦」と解釈し、朝鮮半島の任那から渡来し大和王朝に入り婿することで王権を手にしたのではないか?とする説があります。
記紀の系図のうえでは、崇神天皇は9代開化天皇の子息ということになってはいるが、実際は血のつながりがない他人で、崇神天皇から新王朝が始まったと言うわけです。
実際のところ記紀に記された崇神天皇の事績をよく見てみると、それを裏付けるような、王朝の交代を思わせるような記事があります。以下の記事です。
即位5年、疫病が流行し沢山の人が亡くなった。原因を占ったところ、「天照大神を宮殿の中に祀っているのが原因」とお告げがあったので、天照大神を宮殿の外に出し、笠縫邑に神社を作り祀った。
しかし疫病は収まらない。そこで再度占ったところ、「大物主神を子孫の大田田根子に祀らせよ」とお告げがあった。そこで神社を作り大物主神を祀ったところ疫病は終息した。
この記事を簡潔に述べると「疫病が流行った、天照大神を祀ったが収まらなかった。大物主神を祀ったら収まった」ということになります。
つまり天照大神よりも大物主神のほうが御利益があった、大物主神のほうが優れていると言っているのです。
これはどういう意味かと言うと、崇神天皇の時代に、天照大神から大物主神へ信仰の対象が変わったと言うことではないでしょうか?
ちなみに笠縫邑に祀られた天照大神は、その後何度も遷座を繰り返し最終的に伊勢に遷座されますが、驚かされるのは崇神天皇以後、歴代天皇のほとんどが伊勢神宮には参拝していないのです。
明治2年明治天皇が参拝するまで、歴代天皇の誰一人として参拝していない。このことからも崇神天皇の時代に、信仰の対象が天照大神から大物主神へ変わったのは確かではないでしょうか?
また天照大神が女性で大物主神が男性であることから、信仰の対象が女性神優位から男性神優位へ変更された可能性もあります。
古代の日本ではひとつの時代に祭祀王(女)と統治王(男)があり、祭祀王(女)のほうが位が高かったという説があります。
祭祀王は宗教的行事を受け持つ王で宗教的な権威者、統治王は軍事や経済を受け持つ実務的な王です。
崇神天皇の時代あたり中国大陸の王朝から、男尊女卑の思想や政治の世界から宗教を排除するという思想が伝わったために、信仰の対象が女性神優位から男性神優位へ変更されたのかもしれません。
さらに崇神天皇の時代の話として、記紀には倭迹迹日百襲姫と大物主神の結婚の話があります。いわゆる箸墓伝説です。要約すると次のようなエピソードです。
崇神天皇の叔母、倭迹迹日百襲姫は大物主神の妻となった。大物主神の正体は三輪山の蛇神だった、そのことを知った倭迹迹日百襲姫は箸で下腹部を突いて亡くなった。
この話も倭迹迹日百襲姫(天照大神)から大物主神へ信仰の対象が変わった、女性神優位から男性神優位へ変更されたということを言っているように思えます。
また「倭迹迹日百襲姫は箸で下腹部を突いて亡くなった」という表現から、倭迹迹日百襲姫の家系が断絶したことを暗示しているようにも思えます。
ちなみに倭迹迹日百襲姫は籠神社に伝わる「海部氏勘注系図」にも記されていますが、またの名が「日女命」となっています。
卑弥呼に酷似した名称です。籠神社に伝わる伝承でも「倭迹迹日百襲姫は卑弥呼であると」とされているそうです。
また倭迹迹日百襲姫の家族構成が、魏志倭人伝に記された卑弥呼の家族構成と酷似していることから、歴史研究家の中には倭迹迹日百襲姫=卑弥呼と考える人も多いです。(主に邪馬台国畿内説論者)
魏志倭人伝では「卑弥呼の邪馬台国は卑弥弓呼の狗奴国と戦った、戦いの最中、卑弥呼は死んだ、卑弥呼の後は男の王が立った」と記されています。ここでも女王から男王への交代、王朝の交代が語られているように感じます。
世界の歴史を見ても、宗教の対立から争いが起き国を二分する戦争へ発展し、前王朝が倒れ新王朝が誕生するという話はよくみられます。
さてそれでは崇神天皇の時代、王朝の断絶、交代があったのか、なかったのかと言う問題ですが、
崇神天皇はよそ者のようだ、婿養子のようだ、崇神天皇の時代、宗教の対立が起きている、信仰の対象が女性神から男性神に変わっている。実に怪しい。
崇神天皇の時代、前王朝が倒れ新王朝が誕生していたとしてもおかしくはありませんが、それを証明する具体的な証拠は見当たらない。真実は依然として闇の中です。
崇神天皇 第10代天皇(ミマキイリビコイニエノスメラミコト)
9代開化天皇の第二皇子。母は伊香色謎命(共に物部系)
従妹の御間城姫を皇后とし、活目尊(11代垂仁天皇)や倭彦命を得た。
都は磯城瑞籬宮(三輪山南麓)纏向遺跡の主であった可能性が高い。
三輪山麓を根拠地に領域を広げ、ヤマト政権の基盤を確立したとみられている。
実在が確認できる最初の天皇とされる。
治世時期は3世紀後半から4世紀前半と推定。
御陵は山邊道勾岡上陵(全長242mの前方後円墳)
ミマキイリビコイニエノスメラミコトと言う名前から、任那(朝鮮半島南部)から渡来した可能性。
・天照大神の遷座・・・天照大神と倭大国魂神を宮中に祀るのをやめ、天照大神を笠縫邑(現・檜原神社)に、
倭大国魂神を大和神社(奈良県天理市)に遷座。(天照大神は後に伊勢に遷座)
・大物主を祀る・・・疫病が流行したが、大物主神を祀ることで治めた。
・ヤマト王権の支配領域の拡大・・・武埴安彦の反乱を鎮め、四道将軍を各地に派遣した。
・税制の創設・・・戸口を調査し課役を科し、御肇国天皇(ハツクニシラススメラミコト)と称えらる。
参考 Wikipedia