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ブログを読んでいて、愛情が欲しいと書いている人がいて、私は、私は違うなって思った。
私は、強さが欲しい。
自分を変えられる強さ。
信じる道を進んでいける強さ。
愛情が欲しいという彼女は強い人なんじゃないかな。
私は弱いよ。
だから、強さが欲しい。
人を守れる強さが欲しい。
傷つける人を諭せる強さが欲しい。
強さがあれば、ひとに愛を配れる。
強ささえあれば、いろんなものが手に入る。
だから、私は、強くなりたい。
私の中には人殺しがいる。
人殺しだけど、優しくて、強くて、
穏やかで、しなやかで、愛がある。
いつも苦しいけど、潰れない。
なんでそんなに強いのかな。
苦しくても、悲しくても、とっても怖くても、
なんで、そんなに優しくできるんかな、他人に。
あなたと一緒にいるとみんな幸せそう。
でもあなたは苦しそう。
私はあなたを追いかけて、あなたに近づきたくて、頑張ってきた。
私はあなたみたいに強くなれるかな?
あなたみたいに優しくなれる?
私は強く、優しくなりたい。
いろんな人に手を差し伸べたい。
いまは、ただ、苦しい。
人殺しの人が私の中にいる。
なんでほかの人の中にはいないのかわからない。
だって、ほかの人だって、もう何人も、殺してきたように思うから。
人殺しはつらい。
人殺しは苦しい。
でも、人殺しを自分の中に飼っていない人より、ずっと優しい。
もう何人も殺してるのに、殺していることに気づけない人より、ずっと優しい。
でも苦しい。
殺さない生き方を知らないから。苦しい。
私は毎日人の死をみている。
毎日言いたいことを飲み込んで、
自分を殺して生きている。
毎日傷つけあいをみている。
心ない一言、悪口、暴言、冷たい態度、
それらが二人を傷つけあって、徐々に人を殺していく。
私は強い人間になりたい。
私は充分傷ついて、充分相手も傷つけて、それでも未だに立っているのだから、充分強い人間だ。
私はいつでも優しくありたい。
私は優しくないけれど、誰より優しい人間だ。
私は人を助けられる。
私は優しい心を持っている。
じゃなきゃ、
この戦争の中で生きていけない。
「生まれる」という言葉が、受身で用いられることを、私はいつ、ならったろうか。
実際に、「生まれた」のか、「生まれさせられた」のか、そういうことはさして重要でないと思うけれど―ただ、どう認識して生きるのか、ということは、それなりに重要になる―のかも、と思う。
我ながら、胡散臭い話であるけれど。
世の中を見てみると、「生まれさせられた」生き物が、圧倒的に多いように思う。
ひどく厭しい目線で見れば、貧乏人の子供は貧乏人になる―割合が多いように思う。金持ちは、金持ちに。学者は、学者に。愚か者は、愚か者に―ひどく不確定な、大きな括りだが、そう思う。
当たり前のようなことだろうか。
子を見れば親が分かる。その逆も、しかり、と。
ひどく嘆かわしい話じゃないか。
犬に生まれたら、犬になる。
馬に生まれたら、馬になる。
なるほど、そのとうりだろう。
悪人に生まれたら、悪人に。
道化に生まれたら、道化になるか。
あぁ、僕は、そんなのは、絶対にイヤなのだ。
選択こそ、人を、人らしくすると思う。
貧乏人は、貧乏人の。金持ちは、金持ち用の、選択肢を与えられ、大人になるけれど―そんなの、あまりに隷属的で、つまらない、じゃぁないか。
私は、欲しい選択肢を、選びたい。
猛々しい感情と、狂おしい熱望で、私は私を選択したい。
執着?囚われ?―大いに結構。
苦しいしめった場所からも、私の求めた選択は、私に熱をくれるのだ。
愚かさから生じる熱は、いつか執着自身をも、燃してしまうと信じたい。
Desition is what makes us human.
私は、「生まさせられた」より「生まれて」生きていたいのだ。