下関w協会407例会 厚保(あつ)・ウメの里めぐり | 三浦清隆

三浦清隆

加賀百万石ツーデーウオーク ①

6月18日(日) 毎年恒例の梅狩りウォークです。

JR岩徳線→JR山陽本線を使い、厚狭(あさ)駅に9:26に到着しました。

早速、参加費を払ってコースマップを貰います。トイレも済ませておきます。

寝太郎像の前でミーティング、参加回数の表彰、軽くストレッチ体操して、9:40にスタートです。

朝から曇りですが蒸し暑いです。

参加者15名、内女性4名です。


駅前から西へ街中を抜けて、萩原地区から右折して山に向かって進み、山陽本線のガード下を潜る。

レンガ造りのトンネルになってます。

1901年(明治34)5月27日。山陽鉄道の厚狭〜馬関が開通しました。山陽鉄道は、現在のJR山陽本線の前身で、馬関駅は現在の下関駅です。

多分この高架は開業当時の物と思われます。


じわじわと登り坂が続きます。

光圓寺(約4㎞)地点で休憩。水分補給をします。

トイレに行く人がいないのでスタートします。

山陽新幹線の高架下を潜り、人家もまばらになって来ました。


更に登っていくと、県道232号(奥万倉山陽線)に出ました。ここで休憩して体勢を整えます。

ここから県道を東に少し登って行く。

道路の拡幅工事で道路脇の斜面にある「三界万霊」と彫られた石柱、この台座の上に地蔵尊が鎮座されています。村に厄病や悪霊が入るのを守っています。また、三界万霊は無縁仏を供養するという信仰に基くものです。

隣の石は庚申塚と思われます。


県道の頂上に到着。標高120mです。

ここで休憩します。時折り風が吹くと涼しく感じます。


皆が揃ったところで出発。ここから降りです。

少し降ると美祢市に入りました。

県道の途中にある道標ですが、何が書いてあるのかわからないです。拓本を取れば読めるかな?


県道232号線は、途中の沓野地区で県道65号(山陽豊田線)と合流します。

更に降り、本郷交差点に到着。

ここで昼食を買うため、交差点を左折して県道33号(下関美祢線)を北上、デイリーヤマザキ美祢厚保店に寄ります。


昼食を購入したら来た道を引き返して、本郷交差点を渡り全員が揃ったところで、今回は厚保小学校に寄って行くそうで、県道を少し北上して厚保郵便局横を右折。

少し登ると、左に光専寺の三重塔が見えます。

厚保小学校のグランドを通って「来島又兵衛像」を見に来ました。

来島又兵衛は幕末期長州藩の尊皇攘夷派の指導者。文化14年(1817)厚狭群西髙泊(現在の山陽小野田市)高須の喜多村正論の第二子として生まれる。(幼名 亀之進) のち来島政常の養子となり、西厚保町本郷の永代大庄屋格の来島清三郎の長女タケと結婚。一年後にここ厚保小学校運動場側に居室・剣術道場を構えました。槍・剣・馬術などの達人で鬼来島と称せられた。一方で藩の経理の役職を歴任し、文武とともに傑出していた。1863年(文久3)5月下関における外国船砲撃戦で活躍し、6月には狙撃隊を率いて上京。八月十八日の政変の後も京都に潜入していたが、9月に帰藩した。京都における長州藩政治勢力回復のため世子(せいし)毛利元徳が上京するにあたり、10月遊撃隊を編成し、総督となった。強硬な京都進発論を説き、翌年6月、遊撃隊を率いて京都に攻め入った。7月19日の蛤御門(禁門)の変で薩摩藩兵と戦い戦死した。享年48歳。


厚保小学校のグランド裏から旧道に出て東へ。

神功皇后神社に寄ります。

この神社は、応永三十二年(1425)下関長府の忌宮神社より勧請 永享ニ年(1430)源佳秀社領を寄進す 昔 当地を集めて邑と言い 転じて厚保村となる

皇后三韓の際 此の地に兵を集め給うに依ると伝えられる

皇后の偉徳を仰徳を仰慕して神功皇后神社と称す

・・案内板より

鳥居の横に大きな庚申塚がありました。文政七幸日と彫られてます。文政七年は西暦1824年です。

社殿は新しく建てられた物です。


神功皇后神社を後にして、ゴールの厚保駅に向かいます。いつもは厚保中学校の正面から厚保駅に行くのですが、今回は厚狭川を渡り、中学校の裏を通って厚保駅に向かいました。

12:40にゴール。

駅舎で昼食を食べます。昼食後、梅狩りの人と帰宅する人に分かれて終了しました。