冷めた表現
東京の昔の街並みや暮らしぶりに感心しながらも、「東京暮色」はつかみどころがない映画だなという印象が強かった。全体としては確かに悲劇を描いた作品であった。次女は秘かに堕胎し、自己嫌悪のなか自滅への道を走り、実の母は長女の一言で東京を去り、長女も子供のことを考え、嫁いだ家へと帰り、父は一人家に残された。全体的に陰影が多い撮影の仕方と演技者の表情は、家族がバラバラになっていく様子を描いていたが、どことなくつかみづらいという印象が残った。
充分すぎる悲劇だが、つかみづらいという印象を与えたのは映画のいたるところに客観的な視点が登場するためである。シリアスな場面を横目に茶々を入れながら麻雀をする人がいたり、事故にあった次女を見ながら淡々としている人がいたり、重大な別れのときに応援団が大声を振るっていたりと、映画全体が暗い方向に傾こうとすると、それに歯止めをかけるように客観的な視点を持った人物が登場する。シリアスな場面でかかる陽気なBGMのせいもあるが、とても感情移入しづらく、淡々と事件が起こっていくという印象だった。この作品を見た多くの人が「悲しい話」ではなく「暗い話」と書くのも、どこか現実味を帯びた「冷めた表現」のせいである様に感じる。
しかしこういった冷めた表現は私たちに多くのことを考えさせる。多くの映画は主人公を軸に世界を回す。主人公が悲しいときは哀しげなBGMや雨などの演出をし、主人公が楽しいときは世界全体が楽しく、美しく見えるように演出する。そういった表現は大げさな表現ではあるが、私たちが日常で体験するものには近い気がする。感じるのは自分であるから、楽しいときには世界は楽しく見えるものであるし、悲しいときには世界は暗く見えるものである。むしろこの映画の表現が特殊で、ストーリーと関係ないような人をところどころで表現することで、世界が自分中心には回っていないんだということを痛感させられる。つまり、主人公からみた悲劇も他人から見たらただの出来事でしかないのだという、ある種の虚無感や孤立感を表現しているように感じる。私が冷めた表現と感じるのはこういった至極現実的な表現をしているからだろう。
私は映画は疑似体験のようなものだと考えていた。しかしこの映画は事象を客観的に「見る」ということにとても焦点を当てた映画なのだと思う。そのため他の多くの映画と違い、感情移入もしづらいし、淡々と流れていく事柄がつかみづらさを与える。そしてその淡々とした表現は「他人の悲劇は自分の悲劇ではない」というとても現実的な制作者の悲しみを表しているように感じる。この映画が言うように生きるということは孤独であるということなのだろうか。