東京の練馬区で育った。今は無き「豊島園」から歩いて10分くらいの所に住んでいた。戦争から帰ってそのまま警察官になった父だったが、ここにあった警察官住宅に家族四人で昭和28年の初めから住み始めた。
小学校3年のとき、ここから自転車で20分くらいの所にあったアメリカ軍の住宅地「グラントハイツ」という所に遊びに行き始めた。この芝生に囲まれた一大区画は、何もかもが自分の毎日の生活とはかけ離れていた。色が違い、においが違い、そして空気まで違うように感じた。何もしないで広大な芝生に座ったりしていた。アメリカンフィーリング。
思わず触れたくなるような金髪の産毛が輝くラビンという女の子のむき出しの腕。ラビンに聞こえたがロビンだったかもしれない。私の初恋の相手だ。勿論、一方的だったが。本当に白人とはよく言ったものだと感心したわけではないが、秋田出身の餅肌、白肌の母親を連れてきて比べて見たいほどだった。
ラビンは7歳だったが、私は一言も口をきけなかった。なんせ、まったく英語ができない。Haroo、とか言うのが精一杯。一緒に行っていた中学一年のシゲさんから英語の必要事項は確認していたが、中学一年の英語力もたいしたことはなかったように感じた。シゲさんも苦悩してた。
大粒の歯を一杯に見せながらラビンのお母さんがアイスキャンデーをくれた。包んであった紙は英語だらけだった。貧しい日本の子供にアメリカの味を、っといった感じだったのかもしれないが、私はその垂れ落ちる真っ赤なアイスキャンデーの味よりも、その甘ったるいにおいの方に惹かれた。それは、もしかしたらあのラビンのお母さんの化粧のにおいも混ざっていたのかもしれない。化粧のにおいといえば、「桃の花」とかを愛用していた当時の母のにおいとも十分に違っていた。
また、納豆とかも食べてはいなかったのだろうし、そういった食物からくる人のにおい、家のにおい、そして町のにおいなんかも別物だった。外国というものを、感覚で学び始めた頃だった。
入ってはいけないことになっているこのグラントハイツから日本の領域にもどると、もうそこは埃っぽい練馬大根に代表される畑だらけの練馬になり、大根と土のにおいが漂ってくる。
小学校の低学年のころから、どういうわけか未知の外国人(どちらかというと女性が多かったように思われるが)に人一倍好奇心があった。その当時の好奇心はいろいろな形に変わって今につながっている。
因みに、このグラントハイツは後に日本に返還され多くの人が住む光が丘団地などになっている。
今年でオーストラリアに移住して40年になる。
*写真は本編とは関係ない
