比叡山縦走
還暦の朝を延暦寺根本中堂で迎えた。厳冬の山上でのお勤めだから、もっと凛とした寒さの中で張りつめたものかと思っていたが、根本中堂は改修中で外側が覆われているせいもあってか意外と暖かく、何やら観光客の覗き見のような緩い雰囲気に感じられた。下の壇前で読経を上げる僧侶の所作は、後方となってしまった位置からは窺い知ることはできないが、唱えているのは法華経の一つだろうか、有り難い意味は分からずも、デュオの調べは何やら耳に心地良く響き、さぁ還暦を迎えたのだという高揚感も一応湧いてきた。区切りの形にするにはおあつらえの場となった。
京都トレイルを昨年度完踏されたTKさんに冬の京都行に誘われ、過去の〝京都シリーズ〟では越えていない滋賀側から京都への比叡山縦走をお願いした。比叡山を所望したのは、一泊の縦走とするに適当なボリュームと、何かの機会に見た雪の伽藍の佇まいだった。加えて、「日本仏教の母山」となった比叡山の谷や尾根には、今も霊山として響いてくるものがあるだろうかという関心だった。
最澄が比叡山に開いた天台教学は簡単にいうなら、「春になれば花が咲き、秋になれば木の葉が紅葉する、自然そのものが法の相である」ということと勝手に理解している。それは「山川草木悉有仏性《さんせんそうもくしつうぶっしょう》」「草木国土悉皆成仏《そうもくこくどしっかいじょうぶつ》」山も川も、草も木も、全てのものが仏性を持っており成仏できるという「本覚《ほんがく》思想」として深化し、広まっていった。あらゆる自然の事象に神が宿っているという日本古来の自然観(八百万の神)と、伝来の仏教が融合された姿であり、やがて本地垂迹《ほんじすいじゃく》として神仏習合や修験道、山岳登拝といった日本人の山岳観の根っこになっていく。いや一つ山岳観だけでなく、草や木の移ろい、無常の中に草や木の「悟り」があると捉える想いは、「わび・さび」という日本人の美意識、日本文化の根っこにもなっていった。
これは、現代《いま》の私たちが山を歩こうとする意志とも繋がっている。頂でご来光の一瞬を拝み、春の芽吹きを称え、短い夏の高嶺の花を慈しみ、紅葉を愛でる。〝雪の〟と願った今回の比叡山縦走のように、何も無い冬さえも裸木の潔さや、モノトーンとなった景の静けさに心が動くのである。所詮、人間は自然そのものの在り方の中では生きられない絶対的な矛盾を、本性の中に抱えている。自身の生に対する不安を常に持っている。だからこそ、山川草木、虫も動物も自然の中で、〈おのずのまま〉生きていることに清浄なものの存在、即ち「仏性」を感じとるのである、と思う。
雪の戒壇院
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