明治8年(1875年)、大阪会議にて参議大久保利通と木戸孝允、板垣退助らが会談を持ち、その結果,将来国会を開く準備として元老院を設けること、裁判の基礎を強固にするため大審院を設けること、民意を疎通するため地方官会議を興すこと、および内閣と各省すなわち参議と卿を分離することで合意し木戸と板垣退助と木戸孝允は再び参議として政府に復帰することになります。
大審院とは、今の最高裁判所に相当する組織です。そして元老院とは今の国会のような立法府ですが、「選挙の無い」国会でした。そこで将来的に西洋のような先進的な民主主義を導入する準備を始めようと合意します。
そして、国会を作る前のシュミレーションとして、明治12年、公選府県会を設置します。公選府県会とは今の地方議会で地方税の予算審議権が与えられます。
公選府県会により、豪農、地主などが政治に参加する事になります。イギリスの政治学者ジェームズ・ブライスは、著書『近代民主政治』において「地方自治は民主主義の最良の学校であり,その成功の最良の保証人である」と述べたように、地方自治の経験を国民に積ませてから国政に参加させる準備を整えていきます。
この次期の中央政界の政権は有司専制(ゆうしせんせい)と呼ばれ、明治政府の政治が、政府内の特定藩閥政治家数名で行われていました。
1873年(明治6年)に起こった明治六年政変後の、大久保利通の主導権が確立された時期から、大日本帝国憲法成立までの時期です。
当時の明治政府内の大論争は、「憲法」「内閣」「議会」をどのように作り一等国を目指すかでした。当時のベストセラーは福沢諭吉の文明論之概略です。それを読んだ有識者達がどのような文明国を作るかを大論争します。
「憲法」「内閣」「議会」は、ただ西洋を模倣すれば良いというものではありません。国の在り方を変える改革であり、十分に議論を尽くして検討しようと言う事になります。
その意見に異を唱えて早急に憲法、議会を整えて立憲君主制に移行すべきだと唱えたのが板垣退助です。主流派は慎重派であり現実派でしたが、非主流派の板垣退助の理想では有っても現実的ではない意見が世の中では支持を得ていきます。
これがいわゆる「自由民権運動」ですが、目指しているゴールは同じですが、それを何の準備なしにすぐにでも実現しろという板垣退助と、大事な問題である為に時間をかけてじっくりと研究しようとしていた有司専制との対立でした。
理想論だけを振りかざすと民衆の耳には心地よく聞こえます。板垣退助は薩長が政府を牛耳っている藩閥政治であると非難を繰り返します。
世論は板垣退助を支持していきます。その中で世論を呼び戻そうと明治14年、大隈重信が翌年に憲法制定、議院内閣制導入、二大政党制の導入を明治天皇に上奏して先走りします。
さらにタイミング悪く、北海道官有物払い下げ事件が発覚します。有司専制の構成員の一人である薩摩反出身の黒田清隆が、同じ薩摩藩主審の五代友厚に十年計画で1400万円を投じた北海道官有物を30年無利子の39万円で払い下げようとした事件です。
板垣退助などが藩閥政治の弊害の癒着であると猛反発して政府を非難します。
この事件の決着の為に行われたのが明治14年の政変です。大隈重信を諭旨免官し、大隈派と福沢派を排除します。
大隈重信と福沢諭吉は親交が厚く、大隈重信の周りには慶応義塾出身の政治家がたくさんいましたが、明治14年の政変で政界から一掃される事になります。
当時の明治政府への不満が高まり自由民権運動が加熱して支持を集めた理由は経済的理由もありました。明治10年に西南の役が起きます。第2次長州征伐の説明時も触れましたが、内乱はインフレを生みます。
そして貨幣の乱発もインフレに導きます。戦争はインフラを破壊するのでただでさえ経済はインフレに揺れます。
さらに、十分な予算が無い中で大隈重信は「紙幣の乱発」により予算を確保しようとします。必要以上の貨幣の供給は経済をインフレに導きます。西南の役以来のインフレにより庶民の生活は非常に苦しくなっていました。
つまり、大隈重信はインフレ時にインフレ政策を行い庶民の生活が壊れていたのです。その様な社会的不安が高まった時流に乗り板垣退助の現行政府批判である自由民権運動が庶民の支持を得たのです。
明治14年の政変以降、財政政策を担当しインフレを押さえたのが松方正義です。日銀は明治15年6月、日本銀行条例公布、10月10日に開業します。それまで銀行は民間任せでしたが、政府が銀行を造り加熱したインフレを押さえる政策をその後に行います。
それがいわゆる「松方デフレ」です。日銀の設立当初の経済がインフレが過度に起きていた為にディスインフレ政策を取り経済を安定させようとしたのです。
大隈重信を免官した後に政府が発表したのが明治14年の「国会開設の勅諭」です。
板垣退助や失脚した大隈重信の意見は、先に議会を作ってからルール(憲法)を作ろうという意見でした。しかし伊藤博文らの政府は、明治23年までにルール(憲法)をじっくりと時間をかけてつくり、その後に議会を開くという意見でした。
その宣言が「国会開設の勅諭」であり、それから立憲政治調査が開始されます。立憲政治調査とは憲法の条文及び憲法の運用を含めた大掛かりな調査が開始されます。「国会開設の勅諭」に示した様に明治23年までに憲法を制定し議会を開く為です。
その勅諭を受け、議会が開かれる前に政党が設立されます。政府非難の先鋒である板垣退助が自由党を設立します。そして政府から追放された大隈重信が立憲改進党を設立します。
立憲帝政党とは政府の御用政党です。
ちなみに坂本龍馬の神格化はこの時代に作られます。幕末から明治の始め、坂本龍馬は無名であり庶民は誰も知りません。高杉晋作は幕末から有名でしたが、坂本龍馬など誰も知らなかったのです。
板垣退助が薩長の藩閥政治を批判しても、政府内の長州、薩摩出身者は維新回転は長州藩と薩摩藩の命がけの働きで実現出来た誇りがあります。
藩閥政治が何が悪い!長州、薩摩がいなければ、そもそも維新は起きなかったと土佐藩出身の板垣退助の意見に耳を貸しません。
その中で、板垣退助が「坂本龍馬」という人物が薩長同盟を実現させなければ、そもそも明治維新など出来ず、土佐の働きがおおきかったのだ!と坂本龍馬スーパーマン説を唱えて土佐出身者が政治の中枢からはじき出されているのはおかしいとプロパガンダします。ここから坂本龍馬のスーパーマンストーリーが始まるのです。
その時、明治15年に板垣洋行問題が発覚します。三井財閥の資金により板垣退助、後藤象二郎が洋行します。この三井財閥との癒着に自由党内部が党首批判を始めます。ちなみにこの洋行を斡旋したのが井上馨です。井上馨の当時のあだ名は「三井の番頭」です。
話は逸れますが、有司専制で、女に汚いのが伊藤博文、金に汚いのが山県有朋、両方に汚いのが井上馨と揶揄されており、勝海舟は当時、「鹿鳴館淫風政治への批判」という忠告書を送りつけたという逸話が残っています。
板垣洋行問題が発覚すると敵対勢力である大隈重信が板垣退助批判を行い立憲改進党の支持を伸ばそうとしますが、立憲改進党も大隈重信は三菱財閥と癒着しており泥仕合になります。
この事件をきっかけに自由党も立憲改進党も潰れてしまいます。その世の背景の中で、伊藤博文は立憲政治調査として西洋に渡ります。明治15年から明治16年の事です。
イギリス、ドイツを中心に調査を行います。イギリスではスペンサー、ドイツではグナイスト、モッセなどの公法学の権威と会談し意見を交換します。
この時代、フランスは革命憲法であり参考になりません。イギリスは不文憲法であり参考にするのが難しく、ドイツは成文憲法の立憲君主国であり最も参考になると考えていました。
そこで各国の公法学の権威と意見交換していきますが、全ての人が日本の立憲に懸念と警告を行いました。事実、トルコが立憲しますが2年と立たずに失敗し憲法を停止しており西洋はその事実を目にしているので発展途上国の日本が立憲政治を実現出来る国である事を疑問視していました。
その様な中でドイツの公法学者、ローレンツ•フォン•シュタインと出会い「歴史主義」という考えを教えられます。ローレンツ•フォン•シュタインは当時の非主流派の公法学者でしたが、憲法とは、その国の歴史、文化、伝統に根付いたものであり一言で言えば国体である事、ただ単に他国の憲法を模倣しても伝統も文化も違い運用出来ない事を諭されます。
この伊藤博文のローレンツ•フォン•シュタインとの出会いで「憲法」とは「国体」であると悟ります。その後の伊藤博文は井上馨と古事記、日本書紀を洗い出し憲法の草案を作り始めます。
政府は制度取調局(後の内閣法制局)を立ち上げて伊藤博文が局長に就任、憲法制定準備を進めます。
憲法を英語で言うとConstitution、国家の骨組み、正確な訳語は「国体」です。ローレンツ•フォン•シュタインは憲法の内容より、そもそも憲法とは?という概念を伊藤博文に諭したのです。
明治18年12月22日、三条実朝を内大臣にし、参議を廃止、国務大臣制を導入し内閣制度を開闢(かいびゃく)します。初代総理大臣に伊藤博文が就任します。
この時に「宮中•府中の別」を定めています。宮中とは皇室の伝統を護るところです。事です。府中とは政府の事であり現実の政治を行う場所です。府中では天皇は「儀礼」を行うだけであり、宮中の仕事に集中し交わってはいけないという考えです。
内閣制度が始まり、そして明治20年、憲法起草の為に伊藤博文らは夏島に籠もります。
伊東巳代治(みよじ)と金子堅太郎は後の昭和期の枢密顧問官となります。金子堅太郎は日露戦争時に大学時代の同級生であったルーズベルト大統領と面会しアメリカを日本側に引き入れる逸話のある人物です。
井上毅は後に教育勅語を編纂する人物です。井上馨は憲法学者の第一人者と呼ばれ、伊藤博文が憲法学者のNo2と言われるのは、井上が古事記、日本書紀を筆頭に全ての日本の古典を暗唱出来るほど精通した博学をもっており、その上で議論して国体である憲法の草案を作り上げたからです。
憲法とは、その国の歴史、文化、伝統に根付いたものであり国体であるという概念を元に、古代から今に至る歴史的な価値観を尊重し憲法草案が作られていきます。
夏島で草案を完成させ明治21年、憲法を議論する場の枢密院という組織を発足、総理大臣を辞任し、初代議長に伊藤博文が就任し憲法審議を行います。この時の説明用資料が後の「帝国憲法皇室典範範義解」となる明治憲法の公式解釈書になります。
後に憲法義解(けんぽうぎげ)と呼ばれる憲法解釈のバイブルになります。
伊藤博文と井上毅が直接編纂して作成した解釈書であり、英文の翻訳に関わったのが伊東巳代治です。
憲法義解は今に到るまで憲法議論を行う為に目を通していなければならないバイブルとされ、目を通していない人は憲法発言に関わる資格が無いと言われるほどの書籍です。
政治家や歴史家でも憲法について語る場合、殆どの人が目を通した上で発言する憲法の入門書として今でも復刻版が読まれています。
明治22年2月11日発布、明治23年11月29日に大日本帝国憲法が施行されました。
憲法記念日は2月11日の紀元節に合わせて発布されました。従って本当の憲法記念日は2月11日でした。
ちなみに、この大日本帝国憲法という名前で「国名」が決められたのです。この日から日本の正式名称は「大日報帝国」となります。
憲法とは国体をあらわすからです。ちなみに日本国憲法は松本烝治が大と帝という時を抜いて「日本国」として、それが戦後の日本の正式国名となったという歴史を持ちます。
金子堅太郎が憲法義解の英語版を世界に紹介して廻ります。それを読んだ当時の欧米の公法学の学者が、その大日本帝国憲法の先進性に驚き、実際に運用が可能なのか論争になるほどの衝撃を受けます。あまりにも開明的だったからです。
何故ならオスマントルコの憲法停止の先例があったからです。
基本に戻り、憲法で大事な事は憲法観の合意、憲法附属法、憲法習律(運用)です。そもそも憲法とは?という合意が無ければ憲法は成り立ちません。憲法とは、その国の伝統、文化、歴史に根付いた国体であるという基本忠の基本です。
左翼が主張する「憲法とは国を縛るものである」という、日本の伝統、文化、歴史に少しも根付いていないマルクスなる無心論者から生まれた主張など荒唐無稽であり、それこそローレンツ•フォン•シュタインに鼻で笑われてしまいます。
そして、憲法には必ず付属法があり、附属法を含めて眺めないと全容が見えません。付属保が無ければ絵に描いた餅でしかありません。
最後に憲法習律(運用)です。イギリスは憲法習律のみで運用しています。だからこそ成文がありません。
憲法附属法も同時に制定されます。ちなみに「附属」と「付属」の違いですが、大事なものに附くのが附属、そうでないものに付くのが付属です。憲法という大事なものに附くので憲法附属法となります。
この附属法の最も重要な附属法は「皇室典範」です。皇室典範は憲法と対等です。「宮中•府中の別」で触れましたが、宮中と府中は独立していなければなりません。
皇室典範は皇室の家法であり、憲法は国家の基本法です。これは相互に支え合うものであり関わって混同するものではないという考えです。
その他の附属法として、選挙を行う為に衆議院基本法を制定しました。又、道徳と法律を混同すべきではないという考えから、憲法に道徳を書き込みませんでした。
道徳を憲法に制定すると北朝鮮や支那のような国になります。中央政府に逆らったから死刑、共産主義に賛同しなかったから死刑など道徳の拡大解釈で思想弾圧に繋がるからです。
そのかわり、「教育勅語」というお言葉で道徳の模範を示されました。
教育勅語は戦後、『The Book of Virtue』というタイトルで発売され、アメリカの道徳教育の模範として使われ、聖書に継ぐベストセラーと呼ばれるほど高い評価をされています。
教育勅語は左翼などが「危険思想」と非難しているものですが、インターネットでは、教育勅語の素晴らしさをあらわす為に、その真逆な考えを羅列した「逆教育勅語」というものが流布されています。
憲法が発布され、議会が招集され議会制民主主義が明治23年に開始されます。大暴動を繰り返しながら民主主義を求めた自由民権運動の活動家も、この憲法、議会の形には文句が出ず賛同したそうです。唯一の例外が中江兆民と言われています。
さて、明治23年に第一回衆議院選挙が行われ帝国議会が開会され選挙で選ばれた議員による議会制民主主義が日本で始まる事になります。