明治8年(1875年)、大阪会議にて参議大久保利通木戸孝允板垣退助らが会談を持ち、その結果,将来国会を開く準備として元老院を設けること、裁判の基礎を強固にするため大審院を設けること、民意を疎通するため地方官会議を興すこと、および内閣と各省すなわち参議と卿を分離することで合意し木戸と板垣退助と木戸孝允は再び参議として政府に復帰することになります。

 

大審院とは、今の最高裁判所に相当する組織です。そして元老院とは今の国会のような立法府ですが、「選挙の無い」国会でした。そこで将来的に西洋のような先進的な民主主義を導入する準備を始めようと合意します。

 

そして、国会を作る前のシュミレーションとして、明治12年、公選府県会を設置します。公選府県会とは今の地方議会で地方税の予算審議権が与えられます。

 

公選府県会により、豪農、地主などが政治に参加する事になります。イギリスの政治学者ジェームズ・ブライスは、著書『近代民主政治』において「地方自治は民主主義の最良の学校であり,その成功の最良の保証人である」と述べたように、地方自治の経験を国民に積ませてから国政に参加させる準備を整えていきます。

 

この次期の中央政界の政権は有司専制(ゆうしせんせい)と呼ばれ、明治政府の政治が、政府内の特定藩閥政治家数名で行われていました。

 

1873年(明治6年)に起こった明治六年政変後の、大久保利通の主導権が確立された時期から、大日本帝国憲法成立までの時期です。

 

当時の明治政府内の大論争は、「憲法」「内閣」「議会」をどのように作り一等国を目指すかでした。当時のベストセラーは福沢諭吉の文明論之概略です。それを読んだ有識者達がどのような文明国を作るかを大論争します。

 

「憲法」「内閣」「議会」は、ただ西洋を模倣すれば良いというものではありません。国の在り方を変える改革であり、十分に議論を尽くして検討しようと言う事になります。

 

その意見に異を唱えて早急に憲法、議会を整えて立憲君主制に移行すべきだと唱えたのが板垣退助です。主流派は慎重派であり現実派でしたが、非主流派の板垣退助の理想では有っても現実的ではない意見が世の中では支持を得ていきます。

 

これがいわゆる「自由民権運動」ですが、目指しているゴールは同じですが、それを何の準備なしにすぐにでも実現しろという板垣退助と、大事な問題である為に時間をかけてじっくりと研究しようとしていた有司専制との対立でした。

 

理想論だけを振りかざすと民衆の耳には心地よく聞こえます。板垣退助は薩長が政府を牛耳っている藩閥政治であると非難を繰り返します。

 

世論は板垣退助を支持していきます。その中で世論を呼び戻そうと明治14年、大隈重信が翌年に憲法制定、議院内閣制導入、二大政党制の導入を明治天皇に上奏して先走りします。

 

さらにタイミング悪く、北海道官有物払い下げ事件が発覚します。有司専制の構成員の一人である薩摩反出身の黒田清隆が、同じ薩摩藩主審の五代友厚に十年計画で1400万円を投じた北海道官有物を30年無利子の39万円で払い下げようとした事件です。

 

板垣退助などが藩閥政治の弊害の癒着であると猛反発して政府を非難します。

 

この事件の決着の為に行われたのが明治14年の政変です。大隈重信を諭旨免官し、大隈派と福沢派を排除します。

 

大隈重信と福沢諭吉は親交が厚く、大隈重信の周りには慶応義塾出身の政治家がたくさんいましたが、明治14年の政変で政界から一掃される事になります。

 

当時の明治政府への不満が高まり自由民権運動が加熱して支持を集めた理由は経済的理由もありました。明治10年に西南の役が起きます。第2次長州征伐の説明時も触れましたが、内乱はインフレを生みます。

 

そして貨幣の乱発もインフレに導きます。戦争はインフラを破壊するのでただでさえ経済はインフレに揺れます。

 

さらに、十分な予算が無い中で大隈重信は「紙幣の乱発」により予算を確保しようとします。必要以上の貨幣の供給は経済をインフレに導きます。西南の役以来のインフレにより庶民の生活は非常に苦しくなっていました。

 

つまり、大隈重信はインフレ時にインフレ政策を行い庶民の生活が壊れていたのです。その様な社会的不安が高まった時流に乗り板垣退助の現行政府批判である自由民権運動が庶民の支持を得たのです。

 

明治14年の政変以降、財政政策を担当しインフレを押さえたのが松方正義です。日銀は明治15年6月、日本銀行条例公布、10月10日に開業します。それまで銀行は民間任せでしたが、政府が銀行を造り加熱したインフレを押さえる政策をその後に行います。

 

それがいわゆる「松方デフレ」です。日銀の設立当初の経済がインフレが過度に起きていた為にディスインフレ政策を取り経済を安定させようとしたのです。

 

大隈重信を免官した後に政府が発表したのが明治14年の「国会開設の勅諭」です。

 

板垣退助や失脚した大隈重信の意見は、先に議会を作ってからルール(憲法)を作ろうという意見でした。しかし伊藤博文らの政府は、明治23年までにルール(憲法)をじっくりと時間をかけてつくり、その後に議会を開くという意見でした。

 

その宣言が「国会開設の勅諭」であり、それから立憲政治調査が開始されます。立憲政治調査とは憲法の条文及び憲法の運用を含めた大掛かりな調査が開始されます。「国会開設の勅諭」に示した様に明治23年までに憲法を制定し議会を開く為です。

 

その勅諭を受け、議会が開かれる前に政党が設立されます。政府非難の先鋒である板垣退助が自由党を設立します。そして政府から追放された大隈重信が立憲改進党を設立します。

 

立憲帝政党とは政府の御用政党です。

 

ちなみに坂本龍馬の神格化はこの時代に作られます。幕末から明治の始め、坂本龍馬は無名であり庶民は誰も知りません。高杉晋作は幕末から有名でしたが、坂本龍馬など誰も知らなかったのです。

 

板垣退助が薩長の藩閥政治を批判しても、政府内の長州、薩摩出身者は維新回転は長州藩と薩摩藩の命がけの働きで実現出来た誇りがあります。

 

藩閥政治が何が悪い!長州、薩摩がいなければ、そもそも維新は起きなかったと土佐藩出身の板垣退助の意見に耳を貸しません。

 

その中で、板垣退助が「坂本龍馬」という人物が薩長同盟を実現させなければ、そもそも明治維新など出来ず、土佐の働きがおおきかったのだ!と坂本龍馬スーパーマン説を唱えて土佐出身者が政治の中枢からはじき出されているのはおかしいとプロパガンダします。ここから坂本龍馬のスーパーマンストーリーが始まるのです。

 

その時、明治15年に板垣洋行問題が発覚します。三井財閥の資金により板垣退助、後藤象二郎が洋行します。この三井財閥との癒着に自由党内部が党首批判を始めます。ちなみにこの洋行を斡旋したのが井上馨です。井上馨の当時のあだ名は「三井の番頭」です。

 

話は逸れますが、有司専制で、女に汚いのが伊藤博文、金に汚いのが山県有朋、両方に汚いのが井上馨と揶揄されており、勝海舟は当時、「鹿鳴館淫風政治への批判」という忠告書を送りつけたという逸話が残っています。

 

板垣洋行問題が発覚すると敵対勢力である大隈重信が板垣退助批判を行い立憲改進党の支持を伸ばそうとしますが、立憲改進党も大隈重信は三菱財閥と癒着しており泥仕合になります。

 

この事件をきっかけに自由党も立憲改進党も潰れてしまいます。その世の背景の中で、伊藤博文は立憲政治調査として西洋に渡ります。明治15年から明治16年の事です。

 

イギリス、ドイツを中心に調査を行います。イギリスではスペンサー、ドイツではグナイスト、モッセなどの公法学の権威と会談し意見を交換します。

 

この時代、フランスは革命憲法であり参考になりません。イギリスは不文憲法であり参考にするのが難しく、ドイツは成文憲法の立憲君主国であり最も参考になると考えていました。

 

そこで各国の公法学の権威と意見交換していきますが、全ての人が日本の立憲に懸念と警告を行いました。事実、トルコが立憲しますが2年と立たずに失敗し憲法を停止しており西洋はその事実を目にしているので発展途上国の日本が立憲政治を実現出来る国である事を疑問視していました。

 

その様な中でドイツの公法学者、ローレンツ•フォン•シュタインと出会い「歴史主義」という考えを教えられます。ローレンツ•フォン•シュタインは当時の非主流派の公法学者でしたが、憲法とは、その国の歴史、文化、伝統に根付いたものであり一言で言えば国体である事、ただ単に他国の憲法を模倣しても伝統も文化も違い運用出来ない事を諭されます。

 

この伊藤博文のローレンツ•フォン•シュタインとの出会いで「憲法」とは「国体」であると悟ります。その後の伊藤博文は井上馨と古事記、日本書紀を洗い出し憲法の草案を作り始めます。

 

政府は制度取調局(後の内閣法制局)を立ち上げて伊藤博文が局長に就任、憲法制定準備を進めます。

 

憲法を英語で言うとConstitution、国家の骨組み、正確な訳語は「国体」です。ローレンツ•フォン•シュタインは憲法の内容より、そもそも憲法とは?という概念を伊藤博文に諭したのです。

 

明治18年12月22日、三条実朝を内大臣にし、参議を廃止、国務大臣制を導入し内閣制度を開闢(かいびゃく)します。初代総理大臣に伊藤博文が就任します。

 

この時に「宮中•府中の別」を定めています。宮中とは皇室の伝統を護るところです。事です。府中とは政府の事であり現実の政治を行う場所です。府中では天皇は「儀礼」を行うだけであり、宮中の仕事に集中し交わってはいけないという考えです。

 

内閣制度が始まり、そして明治20年、憲法起草の為に伊藤博文らは夏島に籠もります。

 

伊東巳代治(みよじ)と金子堅太郎は後の昭和期の枢密顧問官となります。金子堅太郎は日露戦争時に大学時代の同級生であったルーズベルト大統領と面会しアメリカを日本側に引き入れる逸話のある人物です。

 

井上毅は後に教育勅語を編纂する人物です。井上馨は憲法学者の第一人者と呼ばれ、伊藤博文が憲法学者のNo2と言われるのは、井上が古事記、日本書紀を筆頭に全ての日本の古典を暗唱出来るほど精通した博学をもっており、その上で議論して国体である憲法の草案を作り上げたからです。

 

憲法とは、その国の歴史、文化、伝統に根付いたものであり国体であるという概念を元に、古代から今に至る歴史的な価値観を尊重し憲法草案が作られていきます。

 

夏島で草案を完成させ明治21年、憲法を議論する場の枢密院という組織を発足、総理大臣を辞任し、初代議長に伊藤博文が就任し憲法審議を行います。この時の説明用資料が後の「帝国憲法皇室典範範義解」となる明治憲法の公式解釈書になります。

 

後に憲法義解(けんぽうぎげ)と呼ばれる憲法解釈のバイブルになります。

 

伊藤博文と井上毅が直接編纂して作成した解釈書であり、英文の翻訳に関わったのが伊東巳代治です。

 

憲法義解は今に到るまで憲法議論を行う為に目を通していなければならないバイブルとされ、目を通していない人は憲法発言に関わる資格が無いと言われるほどの書籍です。

 

政治家や歴史家でも憲法について語る場合、殆どの人が目を通した上で発言する憲法の入門書として今でも復刻版が読まれています。

 

明治22年2月11日発布、明治23年11月29日に大日本帝国憲法が施行されました。

 

憲法記念日は2月11日の紀元節に合わせて発布されました。従って本当の憲法記念日は2月11日でした。

 

ちなみに、この大日本帝国憲法という名前で「国名」が決められたのです。この日から日本の正式名称は「大日報帝国」となります。

 

憲法とは国体をあらわすからです。ちなみに日本国憲法は松本烝治が大と帝という時を抜いて「日本国」として、それが戦後の日本の正式国名となったという歴史を持ちます。

 

金子堅太郎が憲法義解の英語版を世界に紹介して廻ります。それを読んだ当時の欧米の公法学の学者が、その大日本帝国憲法の先進性に驚き、実際に運用が可能なのか論争になるほどの衝撃を受けます。あまりにも開明的だったからです。

 

何故ならオスマントルコの憲法停止の先例があったからです。

 

基本に戻り、憲法で大事な事は憲法観の合意、憲法附属法、憲法習律(運用)です。そもそも憲法とは?という合意が無ければ憲法は成り立ちません。憲法とは、その国の伝統、文化、歴史に根付いた国体であるという基本忠の基本です。

 

左翼が主張する「憲法とは国を縛るものである」という、日本の伝統、文化、歴史に少しも根付いていないマルクスなる無心論者から生まれた主張など荒唐無稽であり、それこそローレンツ•フォン•シュタインに鼻で笑われてしまいます。

 

そして、憲法には必ず付属法があり、附属法を含めて眺めないと全容が見えません。付属保が無ければ絵に描いた餅でしかありません。

 

最後に憲法習律(運用)です。イギリスは憲法習律のみで運用しています。だからこそ成文がありません。

 

憲法附属法も同時に制定されます。ちなみに「附属」と「付属」の違いですが、大事なものに附くのが附属、そうでないものに付くのが付属です。憲法という大事なものに附くので憲法附属法となります。

 

この附属法の最も重要な附属法は「皇室典範」です。皇室典範は憲法と対等です。「宮中•府中の別」で触れましたが、宮中と府中は独立していなければなりません。

 

皇室典範は皇室の家法であり、憲法は国家の基本法です。これは相互に支え合うものであり関わって混同するものではないという考えです。

 

その他の附属法として、選挙を行う為に衆議院基本法を制定しました。又、道徳と法律を混同すべきではないという考えから、憲法に道徳を書き込みませんでした。

 

道徳を憲法に制定すると北朝鮮や支那のような国になります。中央政府に逆らったから死刑、共産主義に賛同しなかったから死刑など道徳の拡大解釈で思想弾圧に繋がるからです。

 

そのかわり、「教育勅語」というお言葉で道徳の模範を示されました。

 

教育勅語は戦後、『The Book of Virtue』というタイトルで発売され、アメリカの道徳教育の模範として使われ、聖書に継ぐベストセラーと呼ばれるほど高い評価をされています。

 

教育勅語は左翼などが「危険思想」と非難しているものですが、インターネットでは、教育勅語の素晴らしさをあらわす為に、その真逆な考えを羅列した「逆教育勅語」というものが流布されています。

 

憲法が発布され、議会が招集され議会制民主主義が明治23年に開始されます。大暴動を繰り返しながら民主主義を求めた自由民権運動の活動家も、この憲法、議会の形には文句が出ず賛同したそうです。唯一の例外が中江兆民と言われています。

 

さて、明治23年に第一回衆議院選挙が行われ帝国議会が開会され選挙で選ばれた議員による議会制民主主義が日本で始まる事になります。

この記事は何重にも間違っています。最初に縄文人と弥生人は異なる民族であるという説は現在では否定された説です。騎馬民族征服論の根拠となった骨格の違いですが、これも捏造データであった事が現在では判明しています。

 

更に言えば、百済が天皇家の祖であるという説はウリジナルの韓国学会でしか通用しない説であり、朝鮮人の願望であり根拠も証拠もありません。

 

DNA鑑定の結果、縄文人と弥生人は同じ民族であった事が解明されています。それでは、何故、縄文人と弥生人が違う民族と考えられたかというそもそも論ですが、土器や装飾が違う為です。

 

3千年前、豪華絢爛な縄文文化は質素な弥生文化に変わります。この変化は日本だけでなく、長江文明でも3千年前に文明が変質しています。理由は黄河文明が生まれたからです。

 

黄河文明は征服文明であり、周辺民族を襲い征服して女性や財産を奪う特徴のある文明でした。その文明が、争い事の少ない長江文明を襲い、長江文明は対抗手段として武器が使われ、財産も質素に変化して行きました。

 

日本が縄文文化に変化したのは同じ3千年前です。この時代、大陸や半島より征服文明の影響が強くなり、対抗手段として文明が変質し征服文明に対峙して行ったと考えられています。

 

日本人のDNAのハログループはD2系統が主流であり、これが縄文人から受け継いだDNAだと言われています。

 

このDNAは朝鮮人では0.5%しかなく、日本人と朝鮮人の民族のルーツは異なる事が判明しています。

 

朝鮮人のマジョリティのハログループはO系統が8割近くであり、2割弱のN系統が占めます。O系統はO2系統が5割弱でありとO3系統が3割程度です。

 

O3系統は北方モンゴロイドに多い系統であり、モンゴルや満州族がこれらの系統の割合が高い系統です。

 

そして02系統は南方モンゴロイドの系統であり、ベトナムやタイに多い系統です。N系統はエペンキ族に多い系統です。

 

つまり、朝鮮民族とは少数派の南方モンドロイドとエペンキ族にマジョリティの北方モンゴロイドが混ぜ合わされた民族であると言えます。歴史的に高麗も李氏朝鮮も、さらに古代に遡ると高句麗も満州族の国であった為、北方モンゴロイドの系統が多いのは征服王朝が北方モンゴロイドだった為だと言えます。

 

日本はD系統のハログループがマジョリティの国であり、朝鮮人とは遠くはなれた民族です。これはDNAが証明しています。

 

そして、田布施システムと呼ばれる空想ですが、これは史実にかみ合いません。何故なら、幕末の長州藩を知っていれば不可能である事が理解出来るからです。

 

長州藩は「朝敵」の逆賊の汚名を与えられ、朝廷に復帰出来たのは「朝敵」の汚名が晴れた後の事です。

 

その汚名が晴れたのは「鳥羽伏見の戦い」で錦の御旗が掲げられ、幕府が「朝敵」になった後の話です。

 

明治天皇は慶応3年1月9日に践祚しています。長州藩が朝廷の出入りを許可されるのは慶応4年1月3日の鳥羽伏見の戦いの後に「朝敵」の汚名が晴れた後の事ですので朝廷工作する事は不可能であり、すでに践阼された明治天皇誕生後になります。

 

桓武天皇の百済の武寧王の娘である事は事実ですが、それは桓武天皇の父親である光仁天皇が失脚した家系であり天皇となる見込みが無い皇族だったからです。

 

「今生天皇の祖先が百済の武寧王と縁がある」という書き方は非常に恣意的で誤解を招く表現です。現に、この発言を元に天皇家は朝鮮人の家系であるというウリジナル説が登場し「天皇家、韓国起源説」が叫ばれましたが、ファンタジーでしかありません。

 

光仁天皇は天智天皇の孫です。天智天皇の崩御の後に壬申の乱で勝利した大海皇子が天武天皇になって以来、天武天皇系の皇族が続いていました。

 

その当時、天智天皇系の皇族は没落していたのです。没落皇族であったため、海外の格下の百済王の娘との結婚相手として適任であり百済王の娘を迎えたのです。

 

しかし、藤原氏の陰謀により天智天皇系の「白壁王」が天皇に押されたのが62歳の時です。

 

その息子として皇太子となったのが、後の桓武天皇です。

 

当時の日本では渡来人系の皇子より日本人の妃を持つ皇子が皇太子に選ばれる事が多かったのですが、藤原氏の圧力と、当時の適例の皇子が少なかった事も在り白壁王が光仁天皇と即位し、その息子が皇太子として立ち桓武天皇になったという経緯を持ちます。

 

さて、つぎの間違いは中央銀行のロスチャイルド陰謀説です。明治政府が成立後、明治政府はしばらくの間、中央銀行を作りませんでした。

 

日銀は明治15年6月、日本銀行条例公布、10月10日に開業します。明治10年に西南の役が起きます。

 

内乱はインフレを生みます。

 

そして貨幣の乱発もインフレに導きます。戦争はインフラを破壊するのでただでさえ経済はインフレに揺れます。さらに、十分な予算が無い中で大隈重信は「紙幣の乱発」により予算を確保しようとします。

 

必要以上の貨幣の供給は経済をインフレに導きます。西南の役以来のインフレにより庶民の生活は非常に苦しくなっていました。

つまり、大隈重信はインフレ時にインフレ政策を行い庶民の生活が壊れていたのです。

 

明治14年の政変以降、財政政策を担当しインフレを押さえたのが松方正義です。日銀は明治15年6月、日本銀行条例公布、10月10日に開業します。それまで銀行は民間任せでしたが、政府が銀行を造り加熱したインフレを押さえる政策をその後に行います。

 

それがいわゆる「松方デフレ」です。日銀の設立当初の経済がインフレが過度に起きていた為にディスインフレ政策を取り経済を安定させようとしたのです。

 

日銀の登場は西南の役以降のインフレを押さえる為です。ロックフェラーの陰謀であれば、15年もなぜ放置したのでしょうか。

 

歴史を知っていれば、何重にも矛盾のある記事です。この記事を何人もシェアしていたので頻繁に見かけますが、デタラメでしかありません。

 

コメントとして「資金もノウハウも無い若者」と書かれていますが、その若者は薩摩、長州という金満藩の財政を背景に活動しています。

ちなみに坂本龍馬は、小説で書かれている様な大活躍などしておらず、彼の活躍は殆どが後世の創作です。

 

明治維新の立役者は薩摩と長州であり、土佐藩は明治維新の報償のポストが得られませんでした。しかし、板垣退助が「薩摩と長州が維新を成功させたのは土佐藩の坂本龍馬のお陰だ。だから土佐藩は維新に多大な貢献をしている。」という口実でポストを要求する為に叫んだ話が広がり、それを後のSF作家である司馬遼太郎が在りもしない事を踏んだんに書き加えて創作した話が今のイメージを作っているのです。

 

この記事を書いた人物は、歴史の教養の欠けた人物であると感じます。

 

http://nipponzine.net/basic-knowledge-of-the-japan/6648#.WJk3uhTG_WF

デモクラシーとは「demos:デ—モス(人々)」に「kratia:クラティア(政体)」が加わりデモクラシーという言葉となります。

人々による政体、民主主義という意味です。アカデミーという言葉にも、この「デーモス」が使われています。「Aqua:アクア(水辺)」の「demos:デーモス(人々)」という意味でアカデモスという地域がアテネ郊外に在りました。

この町でプラトンが学園アカメディアとして私塾を開いたので「アカデミー」という言葉が生まれました。

デモ活動の「デモ」は「De:強調を示す接頭語」と「monstrare:モンストラーレ(示す)」の合わさった言葉であり「強く示す=示威する」という語源を持ちます。

デモ活動を民主主義的な行動と勘違いしている人がいますが、デモの起源は民主主義であるデモクラシーとは全く別の語源であり、「示威活動」と訳された方が正しく理解出来ます。

日本では江戸時代の打ち壊しや室町時代の農民一揆も「示威活動」という意味ではデモに当たります。

デモが合法であるのはあくまでも「法律の範囲内」で行われる場合に限ります。法律の範囲内とは、デモ野許可を得て、許可の範囲で行うという事です。

無許可のデモも許可の範囲を超えた示威行動は「違法」であり「暴動」に過ぎません。

デモが民主主義であるというのは強弁であり、あくまでも「自治体に許可された許可の範囲内の示威行動」までしか許されていません。

その範疇を超えたデモは民主主義でも何でもなく、単なる「暴動」という犯罪に過ぎません。

デモクラシーのデモからデモ活動が生まれたのでデモ活動が民主主義だと言う主張を読みましたが、単なる勘違いであり語源も意味も異なる言葉です。
 

日本はドイツのように謝罪しろ、ドイツを見習えという意見を耳にする事があります。それはドイツがユダヤ人虐殺について謝罪した事を指しているのだと思います。しかし、ユダヤ人犠牲者に対して個人保証したドイツはユダヤ人虐殺意外にその植民地や対戦国に対していかなる保証もしていません。

 

あくまでもユダヤ人犠牲者への個人保証のみです。そのナチスドイツに合併された国がオーストリアでした。ドイツはオーストリアと合併し、ヨーロッパ中を占領していました。

 

そのオーストリアは戦後の連合軍の占領の後に1955年に独立を回復しました。ドイツとオーストリアの関係は、日本と韓国との関係と似た様なものです。

 

そのオーストリアが独立後に行ったことは世界に対してナチスドイツに加担した事を謝罪しました。ドイツはオーストリアに賠償を行わず、オーストリアもドイツに賠償を求めていません。

 

ドイツも日本と同じ様に慰安婦制度を持っており、その中にはオーストリア人慰安婦もいました。しかしオーストリア人慰安婦からドイツ政府への保証問題は発生していません。

 

台湾は日清戦争により清国から日本に永久割譲された原住民の意思でない所から日本に割譲された植民地ですが、朝鮮は朝鮮の政治家の意思で日本との合併を望み合併されているので正式には植民地ではありません。

しかし、仮に植民地だと拡大解釈しても世界で宗主国が独立した植民地に保証をした例は世界史の中で日本による韓国への保証だけです。それどころか作り上げたインフラの費用を請求し、宗主国は独立後に独立前に投資した資源の費用を請求し回収しています。

これが元宗主国と植民地の関係です。その植民地とはただただ搾取されていてさえそのように扱われました。ところが朝鮮の場合、朝鮮で入手した税金の3倍の予算でのインフラ整備に投資を続け、日韓基本条約では、これら37年間の投資して作り上げたインフラ等の全ての権利を譲り渡しています。

ドイツを見習えというのであれば、ドイツがオーストリアに行った様に賠償などしないという事です。韓国が日本に対してドイツに見習えというのであれば、韓国はオーストリアを見習はなくてはなりません。オーストリアはドイツに保証を求めずオーストリア人慰安婦も騒ぎを起こさず、そして世界に謝罪したのです。

韓国人が日本に対してドイツに見習えという発言をする事は好ましい事です。なぜなら何も謝罪せず何も保証もするなと言っているのと同じ事だからです。現にドイツは合併国であったオーストリアには何の保証もしていないのです。

文明の崩壊という論文があります。8年ほど前に出版され上下刊で販売されていますが、それぞれの文明の崩壊プロセスの要因を説明している本でした。私はその中のイースター島での文明崩壊プロセスが特に印象に残っています。

 

エジプト文明、そしてメソポタミア文明、インダス文明、黄河文明と太古の4つの文明が花開いた土地全てが未だに発展途上の国々であり、最も先に文明が花開いたにも関わらず先進国入りしていません。

 

現在のエジプト、メソポタミアは広大な砂漠地帯です。しかし、文明というのは言い換えれば巨大農業文明です。農業の収穫が豊富だったからこそ、力強い文明が起き、人口も増えて国力も上がっていったのです。

 

太古に文明が花開いた土地は緑豊かな農業に適した土地だったからこそ、大きな文明が花開いたのです。ところが、これらの土地は今では砂漠です。世界最大の砂漠はサハラ砂漠です。この地にエジプト文明が大きく花開いた土地でした。サハラ砂漠の東側ではエジプト文明が花開きました。

 

そしてサハラ砂漠の西には紀元前に大きな力を持つカルタゴという国があり、ローマ帝国を脅かすほどの勢力を誇りました。今のチュニジアあたりを中心に栄えた国です。そのカルタゴでは「マゴの農業書」という文献が残っているほど農業技術が高い農業国家だったのです。

 

今の広大なサハラ砂漠はエジプト、そしてカルタゴという強大な国家を維持するために農業が行われていた肥沃の台地だったのです。今のサハラ砂漠を見ても想像が難しいでしょうが、肥沃の台地だったのです。

 

スフィンクスには雨で浸食した跡が残っています。これはスフィンクスが作られた当時には雨が頻繁に発生し、そしてその雨でスフィンクスは浸食されていたという事です。という事は、スフィンクス建設当時のエジプトは緑にあふれ、雨に恵まれる台地だった事になります。雨でスフィンクスが浸食する位に雨が降っていたのです。

 

そして世界第2の広さの砂漠はアラビア砂漠です。イエメンからペルシャ湾、オマーンからヨルダン、イラクにかけて広がる非常に広い砂漠で、このアラビア砂漠とシリア砂漠を跨いだ地がメソポタミア文明の花開いた土地だったのです。これらの土地も小麦の栽培に適した肥沃の台地でした。

 

地上の楽園であるエデンの園は、この地だったのです。この世界で2番目に広い砂漠の台地がエデンの園に描かれているような作物、果実に恵まれた理想の台地だったのです。当時の文明の主力産業は農業です。エジプトも、メソポタミアも農業大国だからこそ文明が力強く花開いたのです。カルチャー(文明)という言葉もアグリカルチャー(農業)という言葉より生まれているのです。

 

そしてその次に大きな砂漠がゴビ砂漠です。ゴビ砂漠の西にはタクラマカン砂漠があります。黄河文明と呼ばれている名の通り、殷、周という中国古代国家は黄河周辺で興ります。黄河というと黄砂が連想されます。現在の黄河流域はゴビ砂漠の拡大により黄砂の広がる台地となり、この吹き上げられた黄砂は日本にも届きます。中国も例外ではなく、古代文明の発祥地は砂漠となり、その砂漠は今でも広がり続けています。

 

そしてインダス文明の花開いたインダス川流域、モヘンジョ・ダロのある地域は広大なチョリスタン砂漠の中にあります。昔ガンダーラのあったアフガニスタンも砂漠に包まれています。

 

この様に見てみると、文明の興った地域と砂漠の広がっている地域は一致します。大きな砂漠のある地域ほど大きな文明が古くから栄えていた地であり、現在進行形で、最も砂漠化が進んでいる地域は中国です。中国の砂漠の拡大傾向は1900年頃から始まりました。そして1950年以降から拡大のスピードを上げたのです。原因は過伐採、過放牧、過収穫と言われています。

 

この様に文明が興ると一般的に土地は砂漠になっていくのです。文明が土地から土地の能力を超える収穫を奪おうとすると、土地は痩せ、そして枯れ、そして自然治癒力を奪われ死んでいくのです。北アフリカも、中東も広大な森林地帯であり、緑あふれる肥沃の大地だったのです。それが文明が自然から資源を奪いすぎて砂漠となっていったのです。

 

地図を広げてアフリカ、ユーラシア大陸の砂漠地域を見てみると、かつての古代文明が栄えた地域と見事に一致します。つまり文明が緑を奪い、砂漠化を促したと言えます。北アフリカのサハラ砂漠以外にエチオピアのあたりも地図で見ると砂漠化が進んでいる地域ですが、エチオピアも神話ではソロモン王から続く2千年以上を誇るエチオピア帝国の治めた古くからの文明の栄えた土地です。この国の砂漠化も古代文明圏と一致しているのです。

 

自然治癒力で森に自力で再生をするには5千年という期間が必要だそうです。土地という物は文明が資源を奪い続けると砂漠になるのです。そして生産力が落ち、文明の力が衰退していったのです。

 

文明には木という資源が不可欠でした。しかし、木を使用する時に、代わりの木を植えて、何十年後には再度同じ量の資源を取り続けるというサイクルを日本人は発明し、そして何万年も歴史を継続させてきています。

 

他の文明は自然からの収奪の歴史です。いずれ自然は枯れます。枯れると生活の基盤が崩れます。崩れると、その文明に住む人たちは問題の解決の為のアクションを取る事に迫られます。

 

そもそも文明とは農業生産をして、その生産物である食料を蓄える事により食料の安定供給を実現する為に生まれてきました。逆の言い方をすると、今までの食料の安定確保が難しい地域であったからこそ、安定供給を実現する食料確保の社会モデルが望まれたのです。

 

食料の安定確保が出来た地域では、狩りを中心にした今までの食料確保モデルでも十分に生活が出来たので文明を起こす必要が無かったのです。そもそも生活の不安定で、且つ農業に適した地域が文明を開くのです。しかし文明は自然を奪います。

 

4000年前から2000年前に最も自然を奪っていった地域が今の北アフリカであり、中東、西アジアだったのです。その為に、これらの地域が世界で1位、そして2位を争う砂漠の広さとなっているのです。

 

そして2000年前から現在にかけて最も自然を奪ったのが中国です。そして1950年以降、自然からの過収奪に拍車がかかり今に至ります。中国が現在最も砂漠化が進んでいる地域なのです。

 

しかし、古来日本では自然と共存で暮らしてきました。日本では植林という木を伐採するとそれに代わって木を植えるという文化がありました。この文化は古事記にも書かれています。少なくとも1300年前には植林という文化が昔からあったと記録されているのです。恐らく何万年も植林を続けてきたのでしょう。

 

気候の変動と一言で片づけていますが逆なのです。木を奪い、土地の保湿能力を奪い続けた結果、土地からの水蒸気も減り、そして乾き続けていった結果が砂漠なのです。砂漠化した地域の歴史を調べれば調べるほど、古代より文明が栄えていた土地なのです。

 

日本国内でも緑の少ない荒廃した土地は沢山あったのですが、時代ごとに土地を開拓していくのと同時に植林も進めていき、土地の痩せていて木が生えていなかった禿山は順番に植林によって緑あふれる森林となり、そして土地が肥えて豊かになっていったのです。

 

治山の最初の一歩は茅場です。すすきを山に植えて土地改良をします。そして土地に活力が戻ると次に植林をしていきます。不毛の台地を緑の楽園にするために多くの茅場が栽培され、そして山に植えられていったのです。

 

東京に茅場町という地名の土地があります。この土地は治山の為の茅場が栽培されていた土地でした。その土地に東京証券取引所が明治時代に建てられました。茅場は不毛の台地を緑豊かに育てる植物でした。その茅場にあやかって開国した貧乏な日本と言う国を豊かにしていきたいと茅場町に証券取引所を建てたのです。

 

関東や東北の開拓史に植林によって土地を改良する話が数多く残されています。この植林は日本独自の文化でした。他の国では資源のサイクルを考えて木の伐採後に木を植えるという考えがなかったのです。

 

日本だけが何万年も植林を通して資源を繰り返し収穫し、そして荒れた土地も植林によって改良し豊かな土地に変えてきた歴史を歩んでいるのです。この植林を最も行った地域が朝鮮半島です。

 

日本が統治する前の朝鮮半島では禿山の枯れた山々に収穫の少ない痩せた土地しかありませんでした。統治後に真っ先に行われたのが治山、治水です。木の無い禿山全てに木が植えられて、そしてダムを造り、農地を改良したのです。約100年前から68年前までの間に朝鮮半島中の山々に植林がされました。

 

現在の朝鮮半島の木々は樹齢100年から70年ぐらいです。これは日帝時代に植林されたからです。木を切って年輪を測れば簡単に証明できます。ほぼ全ての木が樹齢100年から70年の範囲なのです。

 

今の朝鮮半島の木々は日帝時代の植林の結果、森は緑に溢れています。しかし、これらの植林は全て日本の指導によって行われたのです。木が生える事により、日影が出来き、そして直射日光には弱い植物が木陰に密生し、そして木と木陰の植物が土地の保水力を高め、そして更に枯れた葉や植物がバクテリアに分解されて養分を作り次世代の植物が育ちやすくなりと、植林後の土地は土地再生のサイクルを回ります。

 

保水力を取り戻した土地には虫が集まり動物も集まり豊かになっていきます。日本は世界が誇る植林先進国です。植林は日本発のユニークな文化だったのです。収穫を前提に木を植えて育てるという国は数多くあります。ぶどうであったり、リンゴであったり果物を収穫するために木を植える事は多くの国で行われてきました。

 

しかし、土地を豊かにするために木を植えるという歴史を持つ国は日本しかありません。その日本の植林は明治時代以降になって初めて世界に紹介されて世界に広がります。しかし、現在になっても植林に理解をせずに植林のなかなか進まない国もたくさんあります。

 

最近の植林の歴史では戦後の植林が有名です。資源の無い大東亜戦争時代、木は貴重な資源としてあらゆる目的で使われましたが、その代わりに国土の50%の森を失いました。その失われた森も戦後の植林によって復活させたのです。

 

日本は緑あふれる国ですが、この緑は私たちのご先祖様が代々守り通してきた貴重な財産なのです。

評価が人により大きく乖離する場合、幾つかのケースが考えられます。

 

第一のケースは、その評価対象の「違う」一面しか見ておらず、その「一面」が異なる為に評価の善し悪しが分かれる場合です。

 

第二のケースは、評価対象を見ながら、その対象への評価が分かれるので、その人物への印象が分かれる場合です。

 

例えば、「日本が好きだ」という発言を、同じ日本が好きな人が聞けば好印象で受け取られ、「日本が嫌いだ」という個人が聞けば印象が悪くなるというケースです。

 

第三のケースは、その評価対象を見る個人の評価対象への知識量が大きく違う場合です。

 

例えば、「インテリ」という言葉の上面しか知らなければ、「インテリ」とは高学歴の博識な人物という誤解を持ちますが、「インテリ」の語源が「インテリゲッチャ」というロシア語であり、インテリとは大正時代以降にロシア語でマルクス•レーニン主義にのめり込んでいった左に偏った人物を示す言葉として生まれた背景を知れば、「インテリ」が左に偏った偏見の多い人物を揶揄している言葉だと理解し、「インテリ」とは相手を褒めているように見せかけていながら皮肉を込めている言葉だと理解します。

 

ある物事について評価が大きく分かれる場合、この三つのケースが組み合わされています。

 

例えば、「トランプ大統領誕生を喜ぶ日本人が理解出来ない」という発言ですが、第一のケースでは大手マスコミの報道しか見ていない人物と、情報をそれ以外から得ている人の評価は大きく違うはずです。

 

第二のケースでは、トランプ発言の内容を好意的に受け止めている人物と、批判的に受け止めている人物のトランプ大統領への評価は大きく異なるはずです。

 

第三のケースは、マスコミで報道される一部の情報しか知らない人と、それ以外の豊富な情報を元に評価をすれば評価が変わっても不思議ではありません。

 

「トランプ大統領を日本人が絶賛するのは理解に苦しむ」という発言を見ましたが、物事の味方は多様なのです。

 

尚、マスコミは、トランプ大統領の持つ価値観より「好き嫌い」で報道している様です。

 

トランプ大統領のテロ指定7カ国からの90日間の入国禁止では大騒ぎしていますが、この7カ国をテロ国家と指定したのはオバマ政権です。さらに、オバマ政権下ではイランからの180日の入国禁止を実施していましたが、その時は何もマスコミは騒いでいません。

 

さらに、トランプ大統領をポピュリズム政治家とレッテルを波浪としていますが、ポピュリズムとは「大衆迎合」、オバマケアこそポピュリズムでしたが、その事には何も触れずトランプ大統領だけを非難しています。

 

大衆が併合しそうな公約を掲げて選挙を戦い、多数を占めた政党が政権を担うという民主主義の原則こそが「ポピュリズム」です。

 

ポピュリズムを非難するという事は、ポピュリズムと真逆な思想を持つという事です。

 

その思想は「民主集中制」、共産党の人民統治の原則です。簡単に言うと、「マルクス•レーニン主義を掲げる正しい私に無条件で従え!」という思想です。

 

トランプ大統領を非難している組織の背後が透けて見えます。

国際金融のトリレンマという言葉が有ります。「為替の安定(固定相場制)」「独立した金融政策」「自由な資本移動」の3つを同時に行うことはできず、2つしか実現できないという現実を指す言葉です。

 

単純な例で2国間の関係で表現します。

 

「為替の安定(固定相場制)」と「自由な資本移動」が成立していたとします。例えば日本が1ドル360円として米国と固定相場制だった時の事を考えてみます。

 

この時に日本はインフレが激しくインフレ抑制をする為に高い金利を課す為に8%の利息を設定したとします。

 

しかし、その時に米国が不景気で景気浮揚策として低金利政策で3%の金利にしたとします。この場合、固定相場制であり為替リスクがありませんので、仮に日本がいくら高い金利をかけて経済を抑制しようとしても、資本を米国か低金利で調達されて投資されれば経済政策の効果が日本では失われてしまいます。

 

つまり、「為替の安定(固定相場制)」と「自由な資本移動」が成立すると「独立した金融政策」が出来なくなります。

 

日本でも当時は「自由な資本の移動」が規制されていました。「自由な資本の移動」は変動相場になったので許可されたのです。

 

逆に「為替の安定(固定相場制)」と「独立した金融政策」を実現する為には資本が自由に移動してしまう事を抑制しなければなりません。

 

「自由な資本移動」に制限をかける事により「為替の安定(固定相場制)」と「独立した金融政策」を維持できるのです。

 

最後に「独立した金融政策」と「自由な資本移動」を成立させる為には「為替の安定(固定相場制)」を捨てて変動相場制にする事により自由な資本移動にリスクを負わせる事で調整しようというのです。

 

海外通貨の金利に寄るメリットに為替相場のリスクを与える事で経済リスクを回避するのです。

 

日本は現在、「独立した金融政策」と「自由な資本移動」を選択して「為替の安定(固定相場制)」を捨てています。

 

支那共産党は「為替の安定(固定相場制)」と「独立した金融政策」を維持したいので元をドルに紐づけて価格を維持し共産党政府だけで経済をコントロールしたいので「独立した金融政策」を選択しています。

 

それを守る為に必要になるのが「自由な資本移動」を規制する事です。

 

いかに共産党が出鱈目な経済政策を強権的に実施したとしても国際金融のトリレンマを破る事が出来ない以上、「自由な資本移動」の規制以外に経済政策をコントロールする事が出来ません。

 

実際に様々な強権的な方法で「自由な資本移動」を規制してきたのが昨年から今年にかけての行動でした。

 

しかし、「自由な資本移動」が規制された市場は海外から見て投資リスクをあげるだけです。投資して利益をあげても自国通貨に戻す事が出来なければ魅力はありません。

 

さらに、「自由な資本移動」が表面的には実現されている様に見えても、裏から抜け穴を通って資本逃避が起きているので「独立した金融政策」の効果が失われます。

 

実質的に「自由な資本移動」が陰で行われる限り、共産党政府が固執する「為替の安定(固定相場制)」を維持しようとする限り、「独立した金融政策」の効果が失われるので如何なる金融政策も効果がありません。

 

いくら規制しても賄賂さえ渡せば例外として資本移動が出来るからです。

 

支那経済は「自由な資本移動」を規制する事は不可能です。西大后が死刑をかざしてアヘンの取引を規制しても賄賂によりアヘンだらけになった歴史は今でも同じなのです。

バク買いも資本移動が実現できるから可能なのです。「自由な資本移動」が規制されているのであればバク買いなど出来ません。

 

そうすると、支那経済がどうなるかは誰でも予想が出来ます。支那共産党がドル連動の固定相場に固執し続ける限り「独立した金融政策」は効果を得る事が出来ないので如何なる経済政策も支那経済を立て直す事が出来ません。

 

「独立した金融政策」を実現しなければ経済が立ち直らないという事は経済が崩壊するしか無いのです。脱出する為には固定相場制を捨てるしか選択肢は有りません。

 

国際金融のトリレンマは支那だけでなく、どの国でも逃れられず2つしか選択できないのです。

 

この後の支那がソフトランディングする為に必須な行動は固定相場制を捨てる事です。逆に言えば、今の様に固定相場への固執はハードランディングしか道が残されていないのです。

 

支那共産党の誤算は「自由な資本移動」を規制する事が出来ると考えている事です。かの国で「自由な資本移動」を規制する事は不可能である事は歴史が何度も証明しています。

 

賄賂社会に規制など通用しないのです。ヨーロッパ各国が人民元をSDR通貨にしたがる理由はこの点にあるのでしょう。

 

SDR通貨にして強制的にでも変動相場制を採用させないと人民元が崩壊するのは誰の目にも明らかです。そして人民元崩壊で最も経済的ダメージが高いのはヨーロッパだからです。

社会主義国が成立した地域は文明圏で考えてみるとスラブ東ヨーロッパ文化圏と中華文明圏が中心です。

 

スラブ東ヨーロパ文明圏ではロシア正教会の影響を多く受けた世界でした。この地でユートピアを実現しようという取り組みが社会主義革命でした。

 

社会主義革命は神の否定をしていますが、神は最後の審判の後に正しい行いをした人を復活させ永遠の幸せを約束します。

 

しかし社会主義革命は現世での幸福の追求を求め、平等な社会実現を目指しました。ユートピア思想とは現世での幸福追求という思想が含まれています。

 

その思想を受け入れた文明圏が東ヨーロッパのスラブ文明圏と中華文明圏に限られたという事は、これらの民族しか共産主義を受け入れなかったという事に興味を覚えます。

東ヨーロッパの国々はソビエト崩壊後に共産主義から抜け出しています。

 

しかし中華文明圏では共産党一党独裁は続いています。

 

東ヨーロッパの国がどの様に向かったかというと、民族ごとに独立しナショナリズムの強い国家になりました。

 

最も顕著なのがロシアです。かつてのソビエトはナショナリズムを超えて多民族国家としてアンチナショナリズムを歌う国です。

 

しかし、プーチンを見ても愛国者でありロシア人という民族を誇りに国をまとめています。他の東ヨーロッパの国も同じです。

 

しかし、中華人民共和国という国はアンチナショナリズムの国です。ロシアはかつてモンゴルに蹂躙され200年にも及ぶ支配を受けていました。

 

しかし、だからと言ってロシア人の先祖をチンギスハーンであるとは言わず、歴史も他民族による支配と解釈しあくまで異民族であると解釈しています。

 

しかしながら、支那では女真族の清であってもモンゴル族の元であっても鮮卑族の隋や唐であっても自国史として扱っています。

 

チンギスハーンは生涯モンゴルの地で過ごしており、いわゆる中原と呼ばれた中華の中心地に入ったことなどありません。中華に進出したのは孫のフビライ・ハーンです。

しかし中国史ではチンギスハーンも中国人の先祖と扱っています。そして現在行われている政策は同化政策による混血です。

 

ウィグル人、チベット人の女性は強制移住されて働かされ、漢民族の嫁とされて漢民族の子を産まされています。

 

モンゴルに200年支配されたロシア人は絶対にチンギスハーンの子孫であるとなど言いません。

 

そもそも支那の歴史は様々な民族に変わるがわる征服され続けた歴史です。歴史の中で混血が進んで今の漢民族が生まれているのです。

 

今も共産党の政策で同化政策が進んでいます。中国人というのは共産党の作り上げたいアンチナショナリズムの民族です。実際には55の民族と、その混血による多民族国家です。

 

中国共産党政府は様々な民族全てを混血させ純粋な民族を葬り去り結果として中国人を作りたいのです。そのアンチナショナリズムが国の柱となっているのです。

 

東ヨーロッパの社会主義国家の崩壊はナショナリズムの復活でした。ナショナリズムの復活が社会主義国家を崩壊させる要因なのです。

 

戦後の歴史をみると、満州族、ウィグル族、モンゴル族、チベット族には多くの粛清と同化政策が行われていますが、アンチナショナリズムが柱にあるからです。

 

同じ社会主義国だったソビエトと中華人民共和国の違いはソビエトがナショナリズムを取り戻し分裂していったのと比較し中国共産党がアンチナショナリズムを進めている違いがあります。

 

現にチペットやウィグルでは大規模な粛清が行われ続けています。仮に支那でナショナリズムが強くなると民族ごとの独立の危機が起きます。そのためアンチナショナリズムの国是は外せないのです。

 

そしてアンチナショナリズムは中華世界の歴史です。例外もありますが、東ヨーロッパと中華世界にしか社会主義国が生まれなかった理由の一つは世界初の社会主義国であったソビエトと地理的に近いという点もありますが、歴史と文明圏の影響もあると感じます。

 

どちらも他民族に征服された歴史を共通として持っています。しかしナショナリズムを失わず復活させた東ヨーロッパの国々では社会主義国家が崩壊してしまいました。

しかし中華文明圏では未だにしぶとく持続しています。この違いは文明圏の持つ思想の違いの影響も大きいと感じます。その違いの一つがアンチナショナリズムであるのではないかと感じます。

遊牧民は土地を畑にしては砂漠になる事を知っていました。畑にして耕すと元々枯れかけている土地が栄養を失い砂漠となるのです。その為、広大な土地を畑にする代わりに動物を放牧して生活をするようになったのが蒙古族や女真族だったのです。

 

その放牧地に大量の流民が流れ込んで勝手に畑にしだした民族がいました。明王朝末期の事です。1600年頃から数十年も勝手に畑を広げて土地を荒らしていったのです。

 

土地は枯れ、放牧も出来ないように荒れる土地が広がり出しました。それでも土地から資源を奪う事しか出来ない民族は次々と畑を広げて荒れ果てた土地を広げていったのです。

 

この暴挙を放置しておくと放牧の生活の基盤自体が壊れてしまう事になります。その為、女真族は団結し許可も無く入植して土地を荒らす漢民族を追い出し、そして明の国も滅ぼし、そして漢民族を征服し満州への立ち入り自体を禁止にしました。

 

遊牧民にとって大地を奪われる事は生活を壊される事だったからです。女真族に限らず蒙古族も土地との共存をする為に耕作ではなく遊牧の生活を選択したのは耕作によって土地が砂漠になっていく事を理解していたからでした。

 

これらの地域の民族が騎馬民族となったのは土地との共存を考えて必然の選択だったのです。あの土地と共生しようとすると遊牧民しか選択肢が無かったのです。好んで騎馬民族となったのではなく、耕作の出来ない土地だからこそ自然と共生する為には遊牧の生活しか選択できなかったのです。

 

土地は奪いすぎると枯れてしまいます。その土地と末永く付き合っていく生活が遊牧の生活だったのです。ところが土地から資源を奪う事しか知らず、しかも郷に入っても郷に従わずに荒しまわる迷惑な民族がいました。それが漢民族です。

 

江戸時代が始まったばかりの頃、明の国では人口が増え続け食糧不足になりました。人口が増え続けるとあぶれた人は勝手に女真族の住む遊牧地に移り住み勝手に畑にして生活を始めだしました。何年もすると土地は枯れ何も生えない砂漠化がはじまります。そうすると場所を変えて違う場所を畑を耕し次々に草の生えない不毛の土地を広げて行ったのです。

 

女真族が明に攻めて自国の遊牧地を守ろうとしたことは自衛の為の行動でした。その結果生まれた王朝が清王朝です。漢民族は満州への立ち入りを一切禁止され一歩でも足を踏み入れると死刑とされました。

 

清王朝が滅びたあと、同じ事が起きました。漢民族は遊牧民の暮らす内モンゴルの土地に踏み入り遊牧地を畑にしだしたのです。明治中期から大正時代にかけて内モンゴルは次々に畑にされて土地は荒廃していったのです。

 

昭和になり日本軍が治安維持の為に大陸に進出した時に蒙古族が日本に従順に従ったのは日本軍が土地の状況を正しく理解し畑の耕作を止めさせた為です。このままでは畑は砂漠となり緑が失われることが調査の結果解り、耕作を禁止させました。

 

大東亜戦争が終わり日本軍が去った土地で文化大革命が起きました。この時に最も虐殺されたのは蒙古族です。その理由は親日だったからと言う理由でした。5人に1人の蒙古族が殺害されました。しかし蒙古族が日本に従順に従ったのは土地への理解が共通だったからです。土地との共生についての理解が共通だったので従ったのです。土地を奪い砂漠化を進める漢民族に従わなかったのは必然だったのです。しかしそれが理解できない漢民族は大量の蒙古族を虐殺しました。

 

そして戦後の内モンゴルは再び畑にされて耕作がはじまったのです。現在、黄砂の元となる広大な砂漠であるゴビ砂漠は戦後の耕作の結果で不毛の土地が急拡大した結果生まれた巨大砂漠です。

 

遊牧民が数千年も守り、そして戦前の日本も守ろうとした遊牧地は無計画な漢民族の耕作により枯れてしまい何も育たない広大な砂漠となってしまいました。その土地ではもはや遊牧生活は出来ません。

 

黄砂が日本にまで届くようになりましたが、この黄砂は数千年も蒙古族がまもってきた遊牧地を漢民族が考えなしに耕作してしまった結果なのです。そして満州の地も土地が枯れ始めているのです。漢民族の立ち入り禁止だった満州の地は悲鳴を上げています。

黄砂は天災などでは無く明らかな人災なのです。そして濃霧の様な煙を吐き出し続け人が住むことが難しい土地を広げています。漢民族の容赦のない収奪は明王朝末期となんら変わらず歴史の教訓も自然の摂理も理解せず欲望のままに土地から資源を奪い続けているのです。

 

大陸は人の住める住環境が次々と壊され有害な煙が充満し、国土の95%の水が汚染され、川はヘドロの沼と変わり、そして海岸部では魚の取れなくなった猟師は遠く韓国や日本の領海に侵入して密漁して漁をしているのです。自国の領海は汚染されすぎて魚が寄り付かなくなっていったからです。

 

支那の裕福層は自国の水も自国の食材も食べません。全て輸入食材を食べています。それは有害で汚染されている事を知っているからです。

 

世界で3番目に広いゴビ砂漠は何千年も蒙古族が守り続けた遊牧地だったのです。その数千年守り続けた土地を数十年で砂漠に変えたのが漢民族です。一旦砂漠となると砂漠が自然の力で元の姿を取り戻すには5千年かかるそうです。そして砂漠は拡大を続けているのです。

 

国際社会との共生の出来ない国は自然との共生も出来ないのです。国破れて山河ありと春望は唱えましたが、国が破れないと山河も残らないのが今の支那の現状なのです。文明の崩壊と言う論文があります。その論文に従うと、かの国は崩壊に向かって突き進んでいるとしか見えません。

韓国にある独立記念館の中に日帝侵略館という施設では朝鮮の当時の警察が朝鮮人に行ったとされる惨たらしい拷問シーンを蝋人形で再現し飾っています。

この蝋人形で描かれた拷問シーンは捏造であると様々な意見がコメントされています。「韓国独立運動の血史」という捏造の本を基にして拷問シーンが再現されたと言われています。

 

しかし、様々な資料を見てみると、この拷問シーンは実際に行われていたことが見えてきます。

 

韓国の当時の警察は8割が朝鮮人であり、その朝鮮人の警察を部下にした上官の記録として、拷問を止めない部下に拷問を止めるように何度も注意しても拷問を止めず、注意を繰り返した後には出勤時間を夜に変えてまで拷問していたとの記録があります。

つまり、これらの拷問は「朝鮮人警察」が朝鮮人に行っていた拷問なのです。なにせ警察の8割が朝鮮人だったのです。

 

その朝鮮人が朝鮮人に行った拷問が日帝侵略館のおぞましい蝋人形で再現された拷問です。

 

考えれば解ることですが、警察の8割が朝鮮人である警察が刑務所で拷問を行っていたという事は8割の朝鮮人が拷問を行っていたという事です。2割しかいない日本人の朝鮮警察官が民族差別で朝鮮人を拷問したとしたら8割いる同僚に何をされるかわかりません。

 

その様なことができる環境ではないことが容易に推測できます。しかし、日本人上司による朝鮮人の部下である警察官への拷問禁止の命令記録は多く見つかっています。

朝鮮人は当時は日本人でした。かつて日本人が行ったと言われる様々な悪行は当時は「日本人」と呼ばれていた朝鮮人が行っていた悪行です。なにせ警察の8割は朝鮮人だったのです。

 

そして上官が日本人で現場はほぼ全て朝鮮人です。日本人警察は書記官などの事務系に集中していたのです。

 

刑務所も現場もほとんどすべてが朝鮮人警察です。その事実に照らしあわせれば、朝鮮人警察が朝鮮人に行った拷問と理解できます。

 

日本人が行った残虐な事とは朝鮮人が朝鮮人に対して行っていたことなのです。

日帝侵略館には、最後の説明で、拷問を行っている警察は日本人の上司が拷問禁止命令を出しても命令を聞かない朝鮮人でしたと一言の説明を加えると捏造が真実に変わります。