エニアグラムと哲学のTakkme -28ページ目

エニアグラムと哲学のTakkme

◉9つの性格タイプ論としてのエニアグラム
◉神秘と哲学の両輪

さて、この話、ボクはブルーになる。
ただ、ここでブルーになることはボクにとって重要である。
このボクが「外向型」であるからだ。

ボクは今から「外向型」にダメ出しをします!
以下、外向型へのもの言いになっております。笑



ボクは人の人格を9つに分けている。
それがここのブログであるエニアグラムです。
エニアグラム上では、タイプ1、2、3、7、8が外向型。
タイプ4、5、6、9が内向型と言えるでしょうか。
もちろん人間は両方を持ち合わせており、どちらかに偏っていると観るわけだ。


ボクは外向型にこの話をすること自体が少ないが、
それは、調子に乗っている外向型が反発してくるからだ。
外向型は自分がまず調子に乗っていることを自覚して欲しい。
まずはそのための「客観」としての「人格(性格)」である。

ボクは内向型にはかなり優しいが、
外向型には非常に厳しい。笑  特にタイプ2に。
これは母親がタイプ2であったトラウマであろうから、
将来はそれも越えねばならん、が、今は無理だ、許せ。笑

9つに分けるのはまずいい、それはとり下げる。
しかし、まずは2つくらいには分けてくれ!頼む。
それがまずユングがやった「外向型」と「内向型」である。
これは画期的な事態なのである。
まずこの視点を取り入れただけで、明らかにその類型の本質が直観できるはずだ。
(例えば、ほぼ外向型または内向型、内向型に見える外向型またはその逆、等)

ここですぐにユングを批判しにかかるヤカラがいるが、
どうせ調子に乗っている能天気な外向型だろう。
(もしくは現実逃避の内向型か)
常に臨床で闘ったユングの功績をまずは素直に見て感じて欲しい。
ユングは明らかに性格には「類型」が見てとれる、と言っている。
(ユングは次に「思考型」-「感情型」、「直観型」-「感覚型」とに分けている)
「観察」しさえすればたちどころにユングの直観力に敬意を払えるはずである。
批判は二の次三の次だ。
そもそも「批判したい」という「我(パワーゲーム)」を問うているのがタイプ論である。


さて、問題は、
「不快感の垂れ流し」である。

これはもちろん外向型、内向型とも観察される。
常に、人間関係の問題は「不快感VS不快感」である。
ただ、内向型はこの自分の「不快感」について比較的自覚があるように思える。
いや、実はそうでもないが、ボクは内向型に優しいので。。笑
ただ内向型はその不快感にある意味「素直」で「正直」なことは確かだと思う。
ここでは内向型の問題はさて置くとして。

外向型のいやらしさは自分の「不快感」を体よく正当化するその狡猾さと
その上その狡猾さに無自覚なところである。

さらに外向型は、その外向性のためにこれまで、
その不快感を正当化するパワーゲームをものにしてきている、という自負まである。
それが「プライド」である。
もちろんそのこと自体に無自覚であるが。
(それは外向型の「傷」であるのだけれど)


そしてそれが、
「説教」「忠告」「苦言」「訓戒」「批判」「無視」等々、上から目線となって表れる。*


ほら!
(ボクがブルーになるのがお分かりか。笑)



ボクは「教育」という概念そのものに疑問を感じてもいるが、
教育者(または「親」)にならなくて心底良かったと思う。
そうしていたならまるで鼻持ちならない能天気になっていたに違いない。
そして今も若干?・・・(ブルー)

ボクは教育者にタイプ論は必須だと感じる。
別にエニアグラムでなくともユングのものでも構わない。

さらには「内向型」に教師を目指して欲しい、とまで思う。
あらゆる面で一石二鳥だ。笑



外向型はその自分の「支配性」により敏感でありたい。
「相手を操作したい」という欲望に自覚的でありたい。* *






そしてボクは、
限りなく透明になりたい。









******
>「説教」「忠告」「苦言」「訓戒」「批判」等々、上から目線となって表れる

これは外向型のテクニック上、表面的には「優しさ」という形をとることも多い。
だが、外向型が思っている以上にそれは内向型にバレバレである。
そのために内向型には「観察(タイプ5)」「疑念(タイプ6)」「独自(タイプ4)」の感性が強く備わっているのだ。

どんなに優しさを装っても、相手を操作(コントロール)しようとすること、
相手より優位に立とうとすることは「攻撃行動」である。
このことをこの「パワーゲームとしての世界」の中で自覚し続けるのは非常に難しいことだ。

>外向型はその自分の「支配性」により敏感でありたい
「相手を操作したい」という欲望に自覚的でありたい

「相手を操作したいなんて思ってもみないよ!」と言う外向型に
ボクは辟易とさせられることがあるが、
「そう思っているのかもしれないな」と言えるくらいになって欲しい。笑
百歩譲ってそう思っていなくとも、である。
五十歩譲る訓練をしなさい。 します。笑
かえって内向型の方がそう認めることが多いようだ。

外向型は、内向型をしょぼくれていると批判する前に、
その表現の正直さに学ぶべきだ、とボクはそう思っている。
もちろん内向型はその「弱さ」を武器に相手を操作しようとすることがあるわけだけれども、
それは外向型が批判すべき立場にそもそもない、ということである。



さて、

***********************************
以下、mixiにて2009年に交わされたタイプ2(Y氏としておきます)との喧嘩です。笑
金八先生(武田鉄矢)との喧嘩と言ってもいい。笑
もちろん突然行われた訳ではなく、友人(タイプ4)の助っ人として、
その友人の日記上で前哨戦が以前に交わされておりました。
懐かしい。笑


>Y氏
僕はおそらくここで「外向型」と呼ばれる「先生」的なこともやっていた輩です。
そして自分が支配欲を持っていることを強烈に意識してるつもりで暮らしてます。
今回の日記は特に興味深い話でした。

たとえば僕が
「君を操作したいなんて思ってもみないよ!」
と言ったとしたら、それは
「君には僕の言うことを聞かない自由が用意してあるよ」
という意味だったりします。

ただ、自分から望んで「生徒」的な立場にいたがるタイプの人が大勢いるのも確かです。
知り合い、友達などの関係性以上のものを求められる。
判断を委ねられ、教えを乞われ、節度を排除した「師弟」的な関係を
望まれる場合があるのも事実でした。
僕はそれが悪いとは思わない。でもそれは「友達」としてはできないし、
ここで言う「外向的」で「調子にのった」タイプの人に「生徒的」なメリットを
得ている人が「操作」されることは、
「SM趣味の人が補い合うかのように」
お互いにデメリットがないこともあり得ると思ったりもします。

「先生」「生徒」の関係が解消されるまでは。


たとえばここで言う「外向型」な人間がこの関係を成立させ続けるために
「調子に乗って」損をしなければならず、
「支配性」を部分的に解き放つことで対応する選択肢をとるケースがあると思うんです。

僕の例で申し訳ないけれど(これは正当化のためではなく、「実情」という意味です)、
職業の「先生」をやめた後も長い間

「俺はもう先生じゃないよ」
「私(僕)にとっては先生ですよ」

なんて会話をそれぞれに交わしながら、僕は「先生」をやめていくのに苦心しました。
自分に「支配性」がある以上、「生徒」でなくなってもらわないとそれは
「友達に対してはしたくないこと」
をするトリガーになってしまう。

さらには少し前まで質問メールをたくさんしてきてくれるような「生徒的」な立ち位置だった人が宣言もなく急に「生徒」をやめて、
「先生的」
なことに不快感を示すケースもあって面食らったりもしました。そんな時僕は
「先生なんて割りに合わない仕事だなよあ」
なんてぼやきながら、下から関節技をかけられて負けたような気分になったものでした。
そして自分が出した
「支配性」
を、渡す相手のいない花束のように恥ずかしがりながらすごすごと片付けるんですw

そんなこんなで、「調子にのった」「外向型」である僕は、「先生」は二度とやらないと思いますw

長々とごめんなさい!この間は会えてよかった!

>Takkme
こんばんは。
この前はどうも。

さて、今回はボクが上から行きますね。笑
まずですね、

 >自分が支配欲を持っていることを強烈に意識してるつもりで暮らしてます

なんですが、正直甘過ぎる印象を受ける。
そのことをこの日記で書いているんです。
強烈に意識している人であるならば、そういう言い回しにならないと感じる。
例えば、
「自分は支配欲があることにまだ十分には意識が出来てないかもしれない」
という言い回しであれば、ボクはああこの人はかなり日頃から意識出来ているひとだなあ、と感じます。意味が分かるでしょうか。

あるいは、内向的な人であればこう言うかもしれない
「自分は支配欲のかたまりだ」と。
こちらは、外向型が言うのは難しい。正直すぎる。笑
まあ、言えるようになれば敵なしなんですが。笑

あとですね、

 >ただ、自分から望んで「生徒」的な立場にいたがるタイプの人が大勢いるのも確かです。
  ~~

ここで「申し訳ない」と言いながら「実情」を言うのは、
ボクには言い訳にしか聞こえない。
少なくとも、「これは正当化かもしれないが」と言えた方がいい。

なぜ「実情」を言いたいのか?
それは自分の問題を棚上げするためだ。違うでしょうか。
確かに色んな生徒がいるでしょう、色んな人がいるでしょう。
けれどまず自分のことに焦点を当てて欲しい。
YさんにとってYさんの問題が第一の問題であるはずです。
いや、唯一の問題かもしれない。

他人は変えられない。
だからボクはYさんとコミュニケーションが取れると思っていない。
だからブルーになるのです。意味が分からないかもしれませんが。笑


Yさんのタイプは、見返りを強く求めるタイプだとボクは推測しています。
衝撃でしょうか。
ちなみに見返りを求めることは悪いことではありません。 普通のことです。
言い換えれば、
「見返りを求めることを(強く)悪いと思っている」タイプだということです。
「性格」というのは「反動」によって出来ているということです。


確かに、「先生」をやめることに賛成です。
Yさんが「先生」をやるのは、
<先生>が「先生」をやるようなもので二重苦ではないでしょうか。笑

ただ「先生」は象徴なので、例えば親子、恋人、友人に対して、
<先生>という支配性を捨てるのは難しいことだと思います。
人をサポート出来るとすれば、それは支配性を捨てることと同義だとボクは考えています。
もちろんだからこそ至難だとも。


けれど、Yさんが少なくともこれだけの自覚は持っていることに少し安心させられたのも事実です。

以上、上から目線でした。



>グリンパールなぎ(タイプ4)
なるほど~。

でも、たくみさん自身が上記のような外向的な人だと思ったことはないけれど。。。
それに最近はますます達観されているというか、尊敬しております

私も外向的と思われる上司に不快感感じちゃうこと多々!あります。
本当傷の垂れ流しの連鎖なんですよ

まずは意識的になろうと思います。

 >その不快感を正当化するパワーゲームをものにしてきている、という自負まである。

無性に嫌悪感を感じるのはこのことだったのですね。

そう考えると、外向タイプの人がその事に気がつくのって、なかなか難しいことですね。

>Takkme
はは。尊敬されちゃマズい。

なぎーを見習うべき人が、なぎーにダメ出ししてる姿が目に浮かぶよ。
たまにはビシッと言ってやった方がいいかもよ。
突然言うとびっくりされると思うけど。笑

 >外向タイプの人がその事に気がつくのって、なかなか難しい

そうだよね。まず無理に近い印象・・・
普通、気づく必要性を感じないし、気づかないための、
つまり傷つかないための外向性を彼らは日々磨いてるわけだし。。
だから、そのやり方が本当に立ち行かないところまでズタボロにならないと、ということだからね。

>Y氏
お返事ありがとう!
見解、興味深く読みました。上から目線じゃないよ。実に面白いしうれしい話でした。
そして、僕に気を使わなければこんな話になるだろうなあと期待した話に近いものだったw

ただ、最初の「つもり」を少しだけ読んでもらえるとうれしいですね。
「つもり」だから本人の認識で、事実ではない。本人だけがそう思ってる訳です。情けないことに。
聡明なはずのTakkmeさんがこうなるあたりについては、強い思いがあるんだなと感動しました。僕もそうなります。「こうあって欲しい」という意思が読解力や認識能力を弱めることってあるよね。すごく共感します。

というか、Takkmeさんがそうでなくても僕はそう。
今回ここで「軽く踏み外している辺り」だけに的を絞ると僕に似てると思う。

そして、Takkmeさん自身がちょっぴり支配的になって終わるあたりも僕と傾向が似ている。
外向的な僕らの限界なのかも知れません。「良かれと思うと支配的になる僕ら」みたいなね…。

でも僕は支配的な人のことをけっこう好きなんです。ためになるでしょう。
それが支配的な自分を捨てない理由なんでしょうね。いかんともしがたいよなあ。

今後も是非話を聞かせて下さい。本当にありがとう!

>Takkme
ああこれはヒドいです。とにかく残念です。
ボクがここまで言うのは珍しいですよ。
まあ、ちょっと突然ここを見た人はびっくりするかもしれませんが。

この<つもり>ってのが大問題なんです。
もう一度自分で読み返してみて下さい。
この<つもり>が「逃げ」を用意しているんです。
しかもその「逃げ」を今使っている。
それが身に付いた外向型の狡猾さだ、と言っているわけです。
もうあまりに辛辣になるので指摘するのをやめたんですが、
<つもり>という表現がなければまだいいんです。
徒労感をやはり感じるのでもうやめます。

気を使う、ということに関しても、
ボクは他人に気をつかっているふりをして、
本当は自分に気をつかっていることに目隠しすることに自覚的でありたい。

それと、ちなみに全く「踏み外して」いない。
ボクは、ど直球でしかもど真ん中だ。
この日記は<先生>のことを書いている。
まさかYさんも「偶然」ここに書き込んだとは思っていないでしょう。


その、自分と徹底的に向き合わない、
その薄皮一枚でも上に行こうとするパワーゲームをぜひ止めて欲しい。(懇願)

とにかく、以前のまま平行線による孤独感は増すばかりです。



>おしゃかさん(タイプ不明)
通りすがりの野次馬です。
このYさんとのやりとり、
三島由紀夫の『レター教室』みたいで面白いです。

周囲を見渡す限り、自分は度正直に過ぎるのかなあ? と、
遠慮して合わせてみたりして、そんな自分を後悔したりして、
おそるおそる度正直の度合いを高めつつある私としましては

この度正直さは、実に晴れ晴れとしてすぽーんと抜ける様な霹靂でした。

>Takkme
コメント、ありがとうございます。
いやあ誠にお恥ずかしい。こんな時に覗かれるなんて。笑

自分の「意志」がどこにあるのか。
「垂れ流し」とは何なのか。格闘中です。
自覚をし続けることでブルーになるより仕方がないと思っています。

>ぐる猫(タイプ6)
わたしも、外向型のやりとりに、癒されます。
(これも驕りでしょうけど)
その真っ直ぐさ、というか裏表のなさに憧れます。
外向タイプの人の上から目線、不快感の垂れ流しに傷つくことはあるけど
正当化でさえ、なんだか清々しく見えます。

ここのところ、内向型の方とのやりとりの中で気が滅入ることがあって
お互いを傷つけてしまい、それがお互いにわかるから、気遣うことでさらに傷を広げてしまう。そんな、R・D・レインの「結ぼれ」を思い出しました。

『彼らはゲームをして遊んでいる。
彼らはゲームをして遊んではいないふりをして遊んでいる。
彼らが遊んでいるところを私が見物しているのを、彼らに見せつけようものなら、私はルール違反をすることになり、そして彼らは私を罰するだろう。
私がゲームを見物しているのを見ないでいるのが彼らのゲームなのであって、私は彼らの仲間に入って遊ばなくてはならない。』

思考に入り込んで、すっかり神経が参っているところに
外向型の方のやりとりを見て、おしゃかさんのように、抜けるような青空を見ました。こんな風にぶれない自分を持てたら・・・
わたしは内向型も外向型も好きだなぁと改めて思います。

Yさんが、「ありがとう」、「うれしい」という言葉を使いつつ、目が笑っていないのも見えるようだし、思ってもいないのに、「聡明なはず」という言葉を使っているのもわかります。(非常にアグレッシブだ!)

たくみさんの、「その薄皮一枚でも上に行こうとするパワーゲームをぜひ止めて欲しい。」は面白いですね。やはり支配的です。
ただ、懇願だから、操作的ではないのかな?しかし、他人は変えられないので、もしかしたら懇願しても意味がないのかもしれません。

本題と関係ないコメントを長々とすみません。

>Takkme
全く、その通りです。自覚している<つもり>です。
ここではパワーゲームをやります。支配VS支配です。正直キツい。
外向型というのは、なんとこの「キツい」という感覚が薄いんです。
下手をするとこの感覚を薄くするために勝ち続けて来たという自負まである。
そういう方向で自我が肥大するんです。内向型と逆ですね。
ボクはこの「キツさ」から少なくとも目を逸らさないようにしたい。

関係のない人がドラマのようにこれをみれば清々しいかもしれない。笑
戦国武将というのはドラマでみると清々しいが、
実際、内側にいるとドロドロだと思う。笑

自分の「意志」がどこにあるのか。
これが「垂れ流し」であれば、ほぼ全く意味はなくなる。
この「意味」を問いながら、です。
これが「意志する」上での「観察」という自分との闘いであることに気づいたのは最近のことです。
能天気なんですね。笑
さて座禅に行くかな。笑

>Y氏
おしゃかさま、『レター教室』楽しんでいただけてうれしいです。
的外れなことを言ってTakkmeさんの孤独感を増す結果になってしまっていますが、
僕もこのやり取りが楽しいです。愛があるなあと思います。

ぐる猫さん、「目が笑ってない」・・・そんなはずはないんですけどねw
このやり取りは確かにここで言う「外向型」の人間同士でないと怪我をするゲームだろうなあ。
どちらかの基礎体力が低かったら怪我をするしさせると思います。
でもお互い体力があるので楽しいです!


そしてTakkmeさん、
僕はパワーゲームはやめたいんですよ。
そして、パワーゲームをやめようとしてみたら、
あえてパワーゲームに参加したがっている人が見えたんです。
僕は誰にもなんにも教えたくなくなってしまったし、
人を変えようとしていた自分を恥ずかしく思うようになった。
今も捨てる努力をしているところだったりします。
それでも世の中に「教えて君」はいる。頼りたがる人もいる。
僕はその人たちを排除することにした。僕らは家族でも同じ仕事場にいるわけでもない。
だったらオーダーメイドの人生なんだし関係を切ってしまう選択肢だってある。
それでも関わるのであれば、それは本人の意思なんでしょう。
僕は切ることを選んでしまったし、それでいいと思う。

人がものを教える理由は、
「自分のほうがそのことを上手にできるから」
だったり、
「自分の方が長くたくさん勉強しているから」
だったりするんでしょう。
そういった「理由」があるからTakkmeさんも僕に「教えて」くれようとし、
自分の方が「気づいている」から「気づいていない」僕に教えてくれようとしてるんですよね。
そして「教わる」ということは、自分を変えることに続かなければいけない。
「変われない人は教わるべきではない」と広く言われるのはそこなんでしょう。



心理学とは科学ではなく宗教だと言った人がいました。
本当はどうだか僕は興味がなくて知りません。
しかし、ここでは心理学そのものではないけれど「心理学のような」ルールが動いていて、
僕はそのアウェイに脚をつっこんだ。これが心地いいんです。
総合格闘技の人がK-1の練習に参加しているような感じw

僕には「内向型」「外向型」という信仰はない。
しかしここではその言葉が通じ、その概念があるものとして語られる。僕も語る。これが面白い。
そして、その言葉や考え方で言うならば、Takkmeさんが「支配性」を発揮して
僕に「教えて」くれるのは僕が「外向型」で頑丈だから、
「内向型」のようにナイーブではないからという観点からなんでしょうか。
そこだけが少し残念にも思いました。
戒律を破りながら戒律を説く方法は得策ではないかなと。
伝わったから結果いいんですが、矛盾している感は否めなかった。


僕はとても尊大な、無神経な男です。
そして僕ほどではないと思うけれどTakkmeさんも尊大だw
僕はあなたが尊大で、僕に「教えて」くれようとしなければ
こんなにあなたを好きにならなかったと思う。
しかし、尊大さは凶暴であり、尊大でない人を傷つけることも事実だろうね。


僕らの尊大さはおそらく変えられない。
だからと言って尊大を野放しにしておいてよい言い訳にはならないんですよね。
お互いに自分を見据えて、尊大さの形を整えて世の中とも接点をうまくやりくりしていくしかない。
その第一の接点がこの
「"外向型"同士のやり取りが好評!」
な状況だったりしたらよいなあ なんてぐる猫さんのコメントを読んで思いました。

この文章を書いていて、自分の中に
「自分より尊大な人を見つけて非難する自分」
というものがいることにも気づいだんだ。これもまたすり替えなんだろうな。
気をつけないと。


長々ごめんなさい!

>Takkme
自分が傷ついていることに正直になって欲しい。
今、言えることはそれだけです。
ボクはなぜYさんがそんなに婉曲的なのか。
タイプ的にはよく分かるのですが、実感的にはよく分からないんです。



>れい(タイプ5)
たくみはね、わたしが自分の中に持っている言葉にできないもやもやした感情を
いつもうまく言葉にしてくれる。

あぁ、そういう気持ちだったのか。
あぁ、だからそう感じたのか。
あぁ、それでそうしたのか。
自分のことなのにね。
自分のことなのにわからないんだよ。
自分のことだからわからないとも言えるんだろうけど。

でも気になってずっと持ってるとずーーーっと後になって自分でもパッてわかる時があるの。
あぁ、あの時はあんな気持ちだったのか。
だからそんな風に感じたのか。
それであんなふうにしたんだ。
てね。

わたしはここの言葉の数々を読んで涙が出た。
温かい涙だよ。

堅い鉛の弾を心の真ん中に打ち込まれたような衝撃。
そのあとにホロホロと崩れていく心の外側の堅い鎧。
その中から溢れ出る温かい体液。
書かれている言葉の中身こそ違え、同じことだよ。
ここまでど真ん中だと。
わたしが解放された気分になった。(笑え)

今すぐどうこうできなくても(しなくても)次に踏み出す一歩の意味が明らかに違うと思うんだよね。
自分がありのままに見えているということは。
だいいち自分に振り回されない。
でもそれが難しいからたくみはずっとずっと書き続けている。
透明になるために。



でも、なんだか心が痛い。
言葉の向こう側に手を伸ばしたい。

>Takkme
れいはボクのことがボク以上に分かっているので、
ボクも焦点がブレないことを再確認できる。
ありがとう。

***********************************


あ〜今読んでも腹立つ〜〜!笑
究極、人のせいにするタイプ2ぶりが!
オレのタイプ1ぶりも凄いが。。笑