科学雑誌Newtonの最新刊のお題が、
「存在とは何か」だったので、
これは買わねばならないと。。笑
しかしやはり存在者と存在が混同されている。
◉『存在』論1(存在と存在者)を参照
存在者(森羅万象)をいくら研究しようとも、
その存在者がなぜ存在するのかは永遠の謎である。
これは、遠いギリシャ時代の哲学者が、
「存在驚愕(タウマゼイン)」と名付け、
驚くことしか出来ない事柄として、ただただ驚いた。
これが哲学の誕生だと言われている。
なぜ哲学的問いに哲学者を入れないのか謎である。苦笑
科学とは、存在者に対する研究である。
「存在者とは何か」と問うべきだ。
もちろんそれはそれで面白いし、大変興味もある。
最終的には、いくらか哲学的な物理学者が出てきて、
「完全な無はない」などと当たり前のことを言う。笑
言語についても考えられていないわけだ。
それもまた哲学者の仕事であるが。
文句が言いたいのではない。
存在忘却
ある哲学者は、我々が存在者に没頭(同一化)することによって、
この「存在への驚き」を忘れてしまうことをこう名付けた。
我々は日常という存在者たちに没頭することによって、
もみくちゃにされることによって、
「存在驚愕(タウマゼイン)」という究極の神秘性を忘れてしまったというわけだ。
我々は依然としてこの存在忘却の真っ只中にいる。
ボクには、
科学の最先端もまたそのことを象徴していると思えてならない。
決してNewtonが悪いわけではない。笑
その科学という存在者への探求が、
存在へのコンタクトを欲しているのは分かる。
それは量子という最小の存在者への興味に象徴されているとも思える。
残念ながら無意識に、だが。。
新型ナントカもきっと、我々にその驚きを、その神秘性を、
知らせてくれているに違いない。
さて、
物理学者も神秘論者も「波(動)」という言い方をするが、
いい表現だなと思う。
世界=存在者が「ある」という状態を、
科学誌に習って「無がゆらいだ」と捉えてみる。
「無がゆらいだ」
初っぱなから言語の限界である。
文法がおかしいのかもしれない。笑
「無」が主語になっている。
「無」がゆらぐはずがない。
ゆらぐはずがないから「無」なのだ。
私たちは、この「ゆらぎ」の当事者であるがゆえに、
「無」を思考することが出来ない。
では、なぜ、私たちは
「無」を知っているのか。
「無」を直観しているのか。
つまり、こう問わねばならない。
なぜ「無」という言語を創造し得るのか?
これは完全なる「不思議」である。
そしてこれは「存在の不思議」と同じ不思議である。
存在と無は同じ地点の話をしているのだ。
無を「無」と名付けることが出来るのは、
人間が「無」の外に出ることが出来る証(アカシ)である。
存在者を「存在者=ゆらぎ」と名付けることが出来るのは、
人間が「存在者」の外に出ることが出来る証(アカシ)である。
そして、何より、
人間が「存在」の立ち上がる場(しるし)だからである。
このしるしとしての人間(存在者)を現存在とハイデッガーは名付けている。
「あらゆる存在者のうちひとり人間だけが、
存在の声によって呼びかけられ、
<存在者が存在する>という驚異の中の驚異を経験するのである」
(マルティン・ハイデッガー)
「存在」は人間が現れるまで沈黙していたのだ。
これは「神の視点」である。
かかる意味において人間は神だと言えるのかもしれない。
もちろん悪魔だとも言えるが。。
この無数の「ゆらぎ(波)」の集合体が世界である。
この波のうち、我々の目に見える波は、
おそらく全存在者(波)のうち、数%にすぎないと想像できる。
「酸素」や「二酸化炭素」という「波」まで目に見えてしまえば、
人間は行動しにくいことこの上ないだろう。笑
(もちろんこれは「観察可能な存在者」と限定してみても、
大した違いはないと思える)
ボクはこの「波」を「記憶」と呼んでいる。
ボクは万物(全存在者)は「記憶」そのものだとかんがえている。
石が「石」であるためには、
石という波が「石という波」であるためには、
石が「石という記憶」であるということではないだろうか。
それは、無が「石という記憶」を孕んだ、と言うこともできる。
なおも文法はおかしいが。笑
その記憶を「意識」できるのが、我々「生物」である。
私たちは、この「ゆらぎ(波)」の当事者であるがゆえに、
常に相対的だ。常に振動している。
もちろんボクは物理(存在者)の話をしている。(量子論?)
世界に「静止している」モノ=存在者はない。
私たちは、この「ゆらぎ」の当事者であるがゆえに、
「静止している」状態を思考することが出来ない。
「静止している」とはどういうことか、思考することすら出来ない。
だが、なぜか「静止している」状態を知っている。
直観している。
完全に「静止している」状態を人間は「無」と名付けた。
つまり「ゆらいでいない」状態。
それは「思考(という波)」が静止した状態であるはずだ。
「感情(という波)」も「感覚(という波)」も。
「静止する」?
そんなことが有り得るだろうか。
それは「謎」、確定である。
だから、思考することは出来ない。
その状態は「禅」の中にあるのかもしれない。
私たちは、この「ゆらぎ」の当事者であるがゆえに、
常に相対的だ。
だから「絶対」を思考することは出来ない。
世界に「絶対」はない。
だが、なぜか「絶対」を知っている。
直観している。
この「絶対」を人間は「無」と名付けた。
これは「絶対は無い」という文章と同義ではない。
限りなく近いけれど、遠い。
人間は「相対(メタ)」の外に出ることが出来る。
だから「相対」と名付けることが出来た。
それは「絶対(からの)視点」。
これは「神の視点」である。
私たちは「絶対」を知っている。
直観している。
ただそれ自体を思考することは出来ない。
この「絶対」を人間は「神」と名付けた。
つまり「神」は「無」に対して名付けられている。
これは「神は無い」という文章と同義ではない。
限りなく近いけれど、遠い。
「神」が有るか無いかで議論(戦争)するのは馬鹿げている。
全く、同じ地点の話をしているからだ。
どちらも、言わば正しい。
つまり、こう問わねばならない地点だ。
なぜ神という言語を創造し得るのか?
ただ、ボク自身は「神」という名付けは失敗だと思っている。
それは「無=存在」に対しての名付けどころか、
その反対の「存在者」への名付けだと誤読されるように「名付け」られている。
存在者と存在が混同されるように。
つまりそこに「戦争」が起きるよう仕掛けられている。
そこが、意図的でうさんくさい。
それはまさに存在忘却の象徴といえる事態だ。
しかし、なおも言語は順調だ。
だから神という名付けは敵ながら?あっぱれ、というものだろう。笑
ただ、これらの話はもうすでに終わっている。
すでに「世界」はボクの手の中だ。
絶対への憧れ(ニヒリズム=ロマンチシズム)から、
「絶対」の獲得へ。
すなわち、
「絶対的自由」の獲得へ。
すなわち、
この肉体(実存)というゆらぎ=不条理を
真に受け入れるというとてつもない試みと、
そのことを通してのみ可能な、
不滅の<魂>の創造へ。
そのために、
ボクは、君は、この世界に、
波として、ゆらぎとして、顕れた。
ゆらぎの種類など関係あるだろうか。
それ以外に人間にいかなる究極的なモチベーションがあるというのか!
99.9%の肉体(実存)というニヒリズムを、
ギリギリのところでひっくり返すモチベーションが。。
何度も、
何度も、
何度も、
何度も、
涙した、はずだ。
また、忘れるのか!
まだ、忘れるのか!
思い出せ!
想い出せ!
お前の<魂>という使命を!
存在とともに。
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この文章は10年以上前に書いたものである。
少しばかり現在のこと(最初の科学雑誌のくだり)を付け加えた。
言葉は方便なので、あまり修正はしなかった。
ボクの場合、多少気難しい落語だと今は思っている。苦笑