2015年ラストにして一年を総括するのはとても難しいので、淡白なものになるがおそらくこの記事を読むのは私か、相当私のことを謎な人間だと思っているあなたくらいしかいないのだろうから印象的なことをぱぱっと書いていくことにする。
大きく一年の流れについて書いておく。
気になるところを都合よく読めるように。
1月~3月:高校生活の終わり&大切な出会い&Berryz工房との別れ
4月~7月:新生活開始&ハロプロ放浪&ワールドミュージックなど属するコミュニティとは離れた音楽現場&将来を見据えるための情報収集期
8月~10月(11月):ハロプロ以外の楽曲派アイドル(ガールズポップ)との出会い&バイトやインターン、マス白などの活動開始
11月(10月)~12月:
大きく分けて三つである。この記事では1月~5月を扱う。
1月から3月
1月から3月は手帳にスケジュールが記載されてないため出来事を明確に思い出すことができない。改めて、大学生からスケジュール帳に手を出せてよかったと思っている。スケジュール帳自体が超淡白な備忘録となるからだ。
さて、本題だが、正直な話、この時期は大学も決まり、Berryz工房と音楽と今後の生活のことを考える日々だった。札幌の山奥の寮に収監されていたし、受験シーズンだったこともあって私自身は自由な身でありながらも、環境が私を解放してくれなかった。とはいえ、私なりに土日は札幌や大通のTSUTAYAをめぐり一回につきCDを20枚くらい借りては地下歩行空間のWi-Fiを使って情報をインプットしながらPCに取り込んでいた。あの頃に各ジャンルの表層を満遍なく把握できたことが大学入学後の活動のスタートダッシュに大きく影響しているのは間違いない。
だとかなんだとあるが、あの頃の頭の中は「Berryz工房のラストコンサートのチケットをいかにして手にするか」ということで占められていた。
2月8日に中野サンプラザでBerryz工房のラストシリアルイベントが行われた。私は大学進学準備を言い訳に帰省し、なんとか当選した夜の部に参加した。最後の中野サンプラザを私は最前で観覧することができた。皆眩しかった。"ソウルシンガー"こと菅谷梨沙子の歌が私の脳髄や胴を刺激した。あのコンサートは約1時間のショートセットだったが、2014年秋ツアー「プロフェッショナル」の五反田公演に次ぐ感動アクトであった。そして、終演後、今も仲良くしてくださるヲタクの友人たち(皆目上であるが私が非常に慕っている人たちなのでここくらいでは"知り合い"ではなく"友人"と表記させて欲しい)に出会ったのである。皆出会った時は全く知らない人だったし、私もなかなかの人見知りなので若干会話に支障があったかと思うが、たまたま同席者にツイッターのフォロワーがいたりなんなりで以降今に至るまで皆親交が続いている。人生の先輩としていつもいろんな話を聞かせていただいている。私にとってかけがえのない"友人"であり"仲間"である。
そして、3月3日、幾人かの友人が私のために確保してくれたチケットのおかげで晴れて日本武道館に足を踏み入れ、Berryz工房の最後の勇姿を見届けることができたわけである。菅谷梨沙子の声が不調だったこともあって私としては不完全燃焼な時間が流れた。「こんな気持ちで終えたくない」正直そんな気持ちであった。しかし、菅谷梨沙子はアンコール前のMCで「後悔はない」と言い切った。心になくてでもいいから、私は「最後のステージで最高のパフォーマンスができなかったからいつかリベンジしたい」とか言って欲しかったので愕然としたのを覚えている。
そんな心境で始まったラストBerryzアクト『Love Together ~Piano arrenge ver.~』。私の心の中のモヤモヤが全て綺麗に吹き飛んだ。CD音源としてはなんのギミックもないエレクトロであったが、ピアノ伴奏は違った。ピアノ伴奏は様々な儀式の大事なタイミングで現れては"優勝"していくが、このコンサートでの圧勝ぶりは圧巻であった。リズムを猛烈に外して歌い始めた菅谷梨沙子の涙が彼女の頬を美しく光って流れていた。遠くから、顔は見えずともあの一線の輝きは目に入った。菅谷梨沙子の歌は涙声で震えていた。その中で彼女は一生懸命歌った。かすれて震える声を、まさに、絞り出すように歌う姿とそこから作り出されるアンビエンスはハロプロのリズム徹底主義を一時無効化した。あんなに胸が締め付けられるような歌を聞いたことがあっただろうか。聴いてるファンの心を締め付け、絞り尽くすような歌に感服してしまった。最後の最後にして菅谷梨沙子はステージウーマンとしての「最高」を更新したのであった。
彼女は、私的に「女」としては全く彼女にしたくないような人だったが、「ひと」として「アーティスト」としては最後まで私の尊敬と憧れの対象であった。彼女は今、元気にしているだろうか...
3月の終わりには高校の仲よかった奴らの中で「京都・大阪の卒業旅行」に行ってきた。初日は大阪集合で日本橋やら通天閣などを回った。飯は通天閣で串カツやたこ焼きを食べ、宿のある京都に向かった。
夜は一つの部屋に集まって小さな食べ物をつまみながらトランプしたりした。2日目3日目と京都の主要な観光地を巡った。
しかし、問題は飯だった。2日目は京都駅で湯葉の浮かぶ鴨そばを食べ安定の満足を得たのだが、3日目に問題は起きた。弾が腹をすかして我慢できず、覚醒したのか知らないが、とても高級そうな軒先きが並ぶ小道の鍋屋さんにテキトーに入って行ったのだ。一行はそれに従い店に入って行ったはいいが、互いに不安な顔を見合わす状況。案内された先は綺麗な川を一望できる広い畳の間。横の卓にはワイングラスが二つ向かい合って置かれており、「予約」と仰々しい札が下がっている。不安がる我々の前に開かれたメニューには「寄せ鍋 五〇〇〇」の文字。雨宮が店主に素っ頓狂な質問を投げかける。「これは一人前の価格ですか?」。店主は淡白に答える「はい。ご注文は如何にいたしましょうか」。どこを見ても最低価格は「五〇〇〇」に変わりないことに気づいた雨宮はとっさに答える。「『すっぽん鍋』一人前で」。結局、皆「すっぽん鍋 六〇〇〇」を選んだ。高校の卒業旅行で食する価格ではない。料理に手をつけ始める時には、我々のような場違いなガキどもの横の座敷でお上品におめかししたカップルがワインを乾杯している。店主は気を利かせて我々といろんな話をしてくれたが、我々は稀にも見ない仰々しい態度をとり続けた。店を出てお見送りが見えなくなった途端我々一同、緊張を破ったように爆笑した。
あれ、めっちゃいい思い出。
4月
満を持して大学に入学した。しかし、初っ端からインフルエンザにかかり最悪な一人暮らしで年度を始めた。入学当初に入会したサークルは「放送研究会」と「アナウンス研究会」、「ハロプロサークル」であった。結局3つ掛け持ちするキャパはなかったので放研は退会したわけだが、アナ研とハロサーで新たな仲間と大学生活を始めた。アフロさんとの初めての会話での印象的なやりとりは「(ベリ好きである話をした後、集団の話題が℃-uteになって)The Powerとか好き?」「いや別に...」「そっか...」「あ、The Powerか!!The Futureと混同してましたすみません」他人からしたらどうでもいいやりとりかもしれないが、当時の私はヒヤヒヤしたものだ。どちらのサークルも私を快く受け入れてくれた。人に恵まれるスタートダッシュだった。
イベントものとなると、4月4日に「菅谷梨沙子の誕生日を祝おうじゃないか」と"ベリロス"発症まんまんなかのヲタクたちで集まってパーティをしたり、ハロショガッタスという未成年でも楽しむことができるDJイベントに遊びに行ったくらいだ。
5月
最大の出来事は何だったか。これは5月4日の「ハロプロ研修生春の公開実力診断テスト」である。Berryz工房という主現場を失って途方に暮れていた私はいよいよ研修生現場に足を踏み込んだ。かねてより研修生は加賀楓を推していたので、ぜひ一度は応援したく、勇み足だった。連番相手のくりさんのおかげで4列という良席で彼女の勇姿を見届けた。
あの日は、会場に着いた時から何かが違った。とても緊張していた。ガチヲタでもないはずの私の皮膚が、加賀楓の順番が近づくにつれて、鳥肌立っていく。いざ加賀楓の圧巻のパフォーマンスを見たかと思えば私の心は彼女一色だった。これまた「女」としてではなく、「アーティスト」としてである。かっこよかった。結果発表の時、あんなに拳を固めて願ったことがあったろうかというほど体に力を込めていた。グランプリの受賞が「まこと」から発表された時は、私は我を見失ってガッツポーズを何度もかまし、「ッシャー!ッシャー!」と叫んでいた。それでも私の声は会場で目立つものではなかった。それは私の声が小さかったからではない。そこにいた2200人による称賛の拍手や激励の声援が中野サンプラザを揺らしていたからであり、私の声もそれに吸収されていたからだ。あの感覚を味わってしまった私はもう既に「カガタク」だったのである。
以上、5月までの主要イベントを厳選した備忘録。(12/31 18:05)






