寄り昆布 捩(ねじ)れて乾く 終戦日
北海道茅部郡 ・木下 勇さんの句。
以前にも昆布大使として他のところに書いた記事です。
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http://kombu-net.jugem.jp/?eid=1689
当時国民学校高学年だった木下少年は、晴れた日は塩田に通い、海の時化る時は学校に行ったのだそうです。
その日北海道は晴れていたのでしょう。浜辺に打ち寄せられた昆布が炎天下乾いていきます。
・・・と、思ったら、晴れて気温が高かったのは関東以西。その日、東北、北海道は曇天で気温も低かったようです。
浜に打ち寄せられた昆布は海の風に乾いていったのかもしれませんね。
http://weathernews.jp/soramagazine/201608/05/
この句の背景は、今思えば、小学校高学年の児童が塩田の作業を担っているわけです。
年頃の男性は兵隊になり、町には女と子供と老人が残り、そのうちに小さい児童は疎開させられ、市民生活は女性と国民学校高学年の生徒から男子中、高等学生、女学生が担うようになります。
昨年の原爆の特集番組では、8月6日広島に投下された原爆による年齢別死者数は、14才の中学生が一番多かったということでした。
当日、8時15分、広島市内にいた年齢別人口比では中学生が一番多数だったそうです。
中学生たちは大人の代わりにあちこちで建物疎開や工場勤務などの勤労奉仕=労働を始めるところだったのです。
広島の某私立中学のまさに二年生だった義父、この日学校を欠席して郊外の家にいて助かってます。この中学でも二年生が最も多く死者が出た学年でした。
総力戦の実態はやはりこういういびつな形で現れるものなのでしょう。注意深く検証しなければ実態は想像が難しいですね。
昨日も父親(昭和5年・1930年生 88才)の話で、父が通っていた商船学校で、寮生活に耐えかねた学生が二人、学校から脱走を試みたものの結局すぐに捕まって放校処分になったと言ってました。
当時、昼間、用もなく若い男子が町中にいることは滅多になかったので、学校を出てふらふらあるいている二人はとても目立ってすぐに通報されたということでした。
夏休み、「用もなく」=労働のためでなく、「若い男子」達が集まって楽しそうに過ごせるのは、本当に平和なことなのですね。
母は母で、萩から瀬戸内の光市へ学校ごと動員されて軍需工場の勤労奉仕だったそうです。
1日八時間、3交代の工場勤務です。
日本中の15才の少女たちの肩に、軍服や兵器の製造がかかっていたのでした。
母は家の間取りや地図を描くのがとてもうまいのですが、納得しました。機械を動かす部門でなく製図の部屋に勤めていたということを昨日はじめて知りました。
昭和一桁生まれ、今年米寿の同い年夫婦の両親とお昼を食べて、お茶飲んで、しゃべってお盆休みも終わりました。
船に乗ってはしごかれ、ケツバットとビンタを食らった商船学校の学生と親元を離れ工場勤務をしていた女学生が共に米寿を迎えられた、長い平和と繁栄を感謝し、世界が平和であるように、と思う今年でありました。
あ、昆布と離れちゃった。
ちなみに戦時中昆布は統制され配給制でした。
そして敗戦後樺太を失い昭和20年昆布生産量は激減。統制解除は昭和24年のことでした。
甘いものに飢えていた当時の少年少女に、
昆布ジャムで炊いたあんこの昆布あんパンを。