「人間芸事」
やめだ。やめ。くだらねえよ。こんなこと。いや、俺は元々くだらない事で金を貰おうとしていたんだ。自分を無様に見せて、人様から笑いと金を頂く。これが俺の生業だ。こんな事にどれぐらい時間を掛けてきただろう。楽屋で項垂れている相方に一度舌打ちを鳴らし、俺は目の前の机を蹴り上げた。すると社長が俺の胸ぐらを掴みあげ怒鳴った。
「お前なあ!クビじゃ!なんやねんさっきのステージ!アホか!勝手なことばっかしやがってほんま。どこでも好きなとこ行きさらせ」
俺は目の前にあるぶくぶくに肥えた社長の腹に抱きついた。俺の人生初のタックルが自分の事務所の社長に捧げられる事になるとは幼い頃の俺には想像もつかなかっただろう。社長は鼻水を撒き散らしながら楽屋のドアにすっ飛んでいって、倒れた。相方はそれを見て小動物のように震えていた。俺はそんな相方にもう一度舌打ちをお見舞いし、うずくまる社長の横を優雅にすり抜けて楽屋を出た。楽屋のドアが閉まる時に社長が何か叫んだ気がしたが、重いドアがそれをすぐに遮断してくれた。「やってらんねえよ」俺は何度となくそう呟きながら劇場から出ると、まるた屋まで一度も止まる事なく夕暮れの新宿を歩いた。まるた屋に入ると、二年先輩のコウタ君がカウンターに座って飲んでいた。俺はこのまるた屋の大将で元後輩のミキオに軽く手を上げてコウタ君の隣に座った。ビールがすぐに運ばれてきた。
「お疲れ様です。コウタ君早いですね」
「おう。出番午前中だったからな。明日からまた五連休だよ。早く『ドブネズミ』さんに追いつきたいっすよお。お前の相方は元気か?最近調子悪いみたいじゃねえか」コウタ君はそう言ってハイボールを呷った。
「勘弁してくださいよ。コウタ君だって相方さえ見つかればどこまでも行けるじゃないですか」
「なんだ、俺はピンじゃ面白くねえって言いてえのか。てめえ」
「もう飲みすぎですよ。ミキオ、何時から飲んでんの?」俺は煙草に火をつけようとしているミキオに聞いた。
「んん。何時からだっけ。結構飲まれてますよ。コウタさん」
「黙れミキオ。芸人やめてこんな薄汚え店継いで何が楽しいんだお前は。芸人はだなあ」
「俺も辞めたんですよ。芸人」俺はコウタ君にぼそっと言ったが、コウタ君は芸人についてのくだらないポリシーを語り続けた。芸人としてのポリシーや誇りならあんたに言われなくても分かってるさ。くだらねえ。
コウタ君が気持ちよく語り終えると、俺はビールを飲み干してミキオに千円札を手渡した。ミキオは「いつもすんません」と言って変な笑顔をしてみせた。俺はこの奇妙な笑顔が好きだった。俺が店の玄関まで歩いて行くと、コウタ君がカウンターから「おい」と言った。
「芸人辞めても俺と友達でいてくれるか?」コウタ君の目は潤んでいるように見えた。
「よくある台詞ですね。よくある台詞には聞き飽きたんで、ノーコメントです」俺は笑いながら言ったが、コウタ君は号泣していた。俺は暑苦しいコウタ君が大好きだった。
それから一週間が経ち、俺の携帯電話がひっきりなしに泣き叫ぶ音も落ち着いた。それは社長から、芸人仲間から、親から、いろんな人が俺の携帯電話を泣かしていたが、俺は相手にしなかった。俺は信頼できる人間などこの世にひとりとして居させなかった。居たとしても、それは過去の人間たちだった。劇場で、俺と相方のくそみたいな漫才を笑ってくれていたお客さん。決して多くはなかったが、他の芸人たちの時よりも暖かい優しい顔をしていた。あの劇場では俺たちが一番だったに違いない。それなのにあいつときたら。
俺は冷蔵庫から缶酎ハイを取り出して一気にそれを飲み干した。間も無く部屋のインターホンが鳴った。ドアを開けるとそこには若い女がひとり立っていた。短い金髪に胸元の開いたTシャツ、おどおどした様子は無く、堂々と俺の玄関の前に立っている。身に覚えの無い顔だ。だがなかなかいい女だ。
「お待たせしました。中に入れてもらえる?」女は言った。
「嫌だね。あんた誰だよ」
「あんたこそ誰よ。あ、お客さんって事は知ってるわ」
「客?あんたが?俺のファンか?あいにく俺は芸人を辞めたんだ」
「そんなの知らないわよ。あんたがお客。やりたいんでしょ?さっさと始めましょ」そう言って女は俺の部屋にずけずけと入って来た。
俺は訳が分からず冷蔵庫からもう一本缶酎ハイを取り出して一口飲んだ。
「あら、いいじゃない、私も頂こうかな」金髪の女が言ったので、俺はもう一本冷蔵庫から取り出して女に渡した。
金髪は女はそれを何口かで飲み干すとTシャツを脱ぎ始めた。そして短いミニのジーンズも。俺はそれを眺めながら酎ハイを啜った。金髪女は持っていたバッグに手を突っ込みがらがらと音を立てながら黒い革と金属の輪っかがくっついた得体の知れない物を取り出し、それを手際よく俺の部屋に並べた。そしてまたバッグに手を突っ込んでコンドームとロウソクを取り出した。俺はあきれ返り、ソファで目を瞑った。俺がこのアパートに引っ越して来てからというのも、隣の部屋から女の喘ぎ声と男の苦痛に悶える声ががひっきりなしに聞こえてきていたのだ。俺は何度となく隣の部屋へと続く壁を殴り続け、しまいには俺の壁のクロスが引き裂かれてしまった。正体はこの女だった。いや、この女では無い。この女が属するデリヘル会社の女たちだ。この女は新人で来る部屋を間違えたのだろう。俺は哀れな金髪女と貧乏貧欲男のすれ違いを目の当たりにしたのだ。糞食らえ。
「なあ、俺デリヘルなんて頼んでないんだ。多分隣の二〇五号室だよ。早く行ってやんな。今か今かと待ってるぜ。隣のアホタレ」
「え、もしかして間違えた?」
「そうだって」
「ええ、なんだ」
「言っとくけどな、隣のやつ、一回見たことあるけどかなり、その、あれだぜ」そう言って俺は苦い顔をしてみせた。
「何よ」金髪女が道具をバッグにしまいながら言った。
「いや、それは行ってからのお楽しみだな。それがエンターテインメントってもんだろう」
「私あんたがいい」
「金がねえ」
「いらない」
「帰れ」
それから六時間後、目が覚めてベッドから起き上がるとテーブルに置き手紙と名刺があった。
楽しかったよ。ありがとう。気が向いたらまた電話して来てね。名刺置いとくから。頑張ってね。M1優勝したら一杯奢って。芸人さん。
ゆい
外を見ると真っ暗だった。俺はパンツだけ履いてベランダ出た。煙草を一本取り出して火をつけると、去年まで付き合っていた彼女の顔が浮かんできた。俺はそれをすぐに振り払ったが、今度はさっきの金髪女の顔が浮かんできた。俺は別の事を考えようと必死に過去を遡った。しかし出て来るのはどれもやっていた漫才のネタばかりで、結局いい思い出というものはいつもどこかに隠れていた。俺は部屋に戻り、日本酒の入った一升瓶の蓋をぽんと開けてテーブルの上にあった茶碗に注いだ。それを啜りながら金髪女が残したメモ帳と名刺を丸めていると、隣から男の苦痛に悶える声が聞こえてきた。続いて女の高笑い。つくづく吐き気のする世界だ。笑いを生み出せるのは一体誰だ?一体全体人間は何を見て笑う?何を感じて幸せになる?俺がどれだけ馬鹿になれば笑う?そんな事が面白いのか?くそったれめ。俺は茶碗の酒を飲み干して隣の部屋に隣接する壁を叩いた。
「うるせえぞ!てめえらはカスだ!人間的笑いの無いそんな空間でよく笑えるなあ!俺は絶対にそんな人間的笑いの無い笑いなんて認めねえぞ!ていうか人間的笑いって何なんだよぼけえ!」
すると俺の部屋のドアが誰かに叩かれ大きく揺れた。俺は一瞬仰け反り、相手を想像した。社長か?タックルの仕返しにきたのか?上等だ。俺は自分が思っている一番「怖い」顔を作り上げ、勢いよくドアを開けた。すると目の前には自分が思っている「怖い顔」の何百倍もの「怖い顔」がそこにはあった。目の前の男はスーツで決めており、角刈りの下にある眉毛は細すぎて確認する事が出来なかった。男はさっきの金髪女と違いずかずかと俺の部屋に入ってきた。
「さっき。女。金。回収」男は気だるそうに言った。
俺には何の事かよく理解できたが、とりあえず口を開いた。
「俺には何の事やら…」
「さっき!女!金!回!収!」男はいきり立っていた。
それからスーツの男は俺の通帳、財布、腕時計、壁時計、去年買った革ジャン、まだ履いてないジョーダンのスニーカー、金目のありそうな物を全て持って行った。置いていったのは俺の命と敗北感ぐらいのものであった。俺は殆ど何も無くなった部屋にへたり込み、転がっていた酒瓶を拾い上げてそれを飲み干した。俺はここが劇場だったらどれだけ笑いを取れたかと考えた。そして俺は少し笑った。
スーツの男が俺の部屋から出て行って四日が過ぎた。昨日の晩で冷蔵庫の中身は全て俺の胃の中にしまい込まれ、今まさにそれらが形を変えて便器に収まろうとしていた。俺はユニットバスの便器に座りながら考えた。俺に残っているものは一体何だ。そう、何も無い。こんな有様で人生は終わっていく。もう劇場の幕が両サイドから真ん中に集まろうと動き出している。俺は舞台の真ん中で立ち尽くしているんだ。まだ足掻けるか?行けるか?ああ、行けるとも。最後までふざけ倒してやるとも。いや、しかし俺ももう三十過ぎだ。愛媛の実家に帰って左官屋でも継ぐか。そんな気持ちで左官屋なんか務まる訳がないか…俺はひとり力みながら、前に進もうとしない自分を見て心底落胆した。
「あれをやるか。あれだ!決めたぞ。もう迷わん。悪かったのはあのどうしようもない社長とやる気の無い相方だ。俺はひとりでも芸人になってやるぞ。事務所も劇場もいらねえ!そんなもん、地球の全てが劇場だ!世界中の人間から笑いをかっさらってやるぜ。俺も芸人のはしくれ。今夜だ。一夜にして俺はスターになるんだ。見とけよぼんくら供!」
それから俺は部屋にあった残り少ないガラクタを掻き集めて準備に取り掛かった。昔漫才で使っていた赤いシャツを破り、他の布切れを縫い合わせる。これで衣装は何とかなった。顔も作ろう。俺は机の引き出しを開け五色入りのマーカーを引っ張り出した。それを持って洗面所に向かい鏡の前に立つと、まず白いマーカーを大いに振り顔中に塗りたくった。それから黒いマーカーを振り回しながら目元を塗りつぶした。仕上げに赤のマーカーで口周りを塗りたくる。完璧である。俺は押し入れにあった黒いハットを被り、赤と黒の多少乱雑なスーツを羽織り、外が完全に暗くなった事を確認してから部屋を勢いよく飛び出した。行き先は自転車で三十分程行った所にある池袋駅東口。今夜のショーはここしかない。
行きしにスーパーで貰った小さいダンボールを前に起き、俺は駅ビルの前に立ち尽くした。何もせず、ただ立っていた。言わずもがな目の前を通り過ぎて行く人たちは俺を見てきた。何見てんだよなどとは言わない。どうぞ俺を見てくれ。そのために俺はここに立っているのだ。しかし、都会というのは何故にこう皆じたばたとしているのだ。少し俺みたいじっと立ち尽くしてみるといい。都会を俯瞰で見るというのは実に気持ちがいいものだ。俺はあくまで俯瞰で、東京の人混みの一部なんかでは無いと、こう思わせる。あんたらとは違うんだとね。しかし、相手はお客だ。金は払っていないが、皆何かを待ち望んでいる。「このピエロ、動かないわねえ。死んでるのかしら」「何だこのおっさん、早くなんかやれよ」「わあ、東京っていろんな人がいるんだなあ」そんな声が聞こえてきそうで聞こえてこない。全ては街のがやがやした雑音に消されてしまっている。ここでは、相手の言葉を聞こうという意識が無いとなかなか会話は難しいものだ。いや、それは人によるな。ここで、俺が何故動かないのかと誰かに聞かれたとしたら、俺は「緊張」とだけ答えるだろう。最大限の緊張を超え、思考が正常でないと認識した俺の脳は諦めて寝てしまっているに違いなかった。部屋を出る前、駅で何をしようかとあれこれ考えてはいたが、それがどんな芸だったのかもほとんど覚えていない。そうだ、思い出したぞ。まずは漫談だ。昔相方が営業をばっくれた時に一度だけやったことがある。ではいってみよう。
「ええ、初めまして…こんばんわ…ええ、元気にね…やっていこうと…思ってるんですけどもね…ええ、こんばんわ…」
目の前を通り過ぎようとしていた若いギャルが一瞬びくっと俺を見て、舌打ちを鳴らして消えていった。俺はそれからまただんまりを決め込んでやった。情けねえ。俺は芸人の端くれにも置けないクズだった。変質者だった。しかし、テレビに出ている芸人も一歩間違えれば変質者だ。笑いというのは裏切りによって生まれるもの。ここで俺が荷物をまとめて帰るのもまた裏切りか。ならば誰かが笑ってくれるだろう。いや、ここ数十分の間ずっと俺を見ていた奴なんかいる訳がない。もっと他の裏切りだ。
動き回る人間たちの中に、静止している小さな生き物が紛れ込んでいた。そいつは俺の前までやってきて、また静止した。
「坊や、親がいねえんじゃねえだろうなあ。勘弁してくれよ」
「親はいるよ。母ちゃん父ちゃん」
「なら帰んなよ。都会の子はおっかねえな」
「嫌だよ」
「何でさ」
「いっつも怒鳴りあってるんだもんさ」
「なるほどな。俺もガキの頃は両親の喧嘩が一番胸糞悪いワンシーンだったぜ。いつも静寂を望んでたよ」
「おいらもだ」
俺は小僧の顔を見ながら次はどんな芸をしようかと頭を捻っていた。
「ねえ、なんか面白い事やってよ」
「嫌だよ」
「そんな格好してんだからさ。いいじゃんよ」
俺はため息を大袈裟に吐き捨て、漫才を始めた。相方の台詞も俺が喋って、俺がボケた。あの頃劇場で一番客にウケていたネタだ。ひとり漫才が終わると、黙って見ていた小僧はどこかへ走っていった。俺は茫然と立ち尽くし、拍手ひとつない劇場で空を見上げた。ビル供のせいで空が狭い。都会の野郎、ふざけやがって。俺が唾をひとつ路上に吐き捨てると、小僧が走って戻ってきた。手には五千円札が握られていた。
「小僧、どこで手に入れたよ、それ」
「いいんだ。おじさんにあげるよ」
「お前、親が近くいるのか?」
「父ちゃん母ちゃんは今も家で騒いでるよ」
よく見ると小僧の顔には傷の跡が無数に刻まれていた。
「なるほどな。これが、俺の知らねえ世界か。これが笑いのねえ世界か。やってらんねえよ。やってらんねえよ…やってられるかってんだ…」
俺はそう叫びながら泣いた。池袋にいる誰よりも大きな声で。馬鹿でっけえカメラ屋から流れるアナウンスよりも。馬鹿笑いしてるギャルよりも。俺の声は大きかった。
「小僧。笑いを教えてやるよ。来いや」
小僧は嬉しそうに笑いながら俺の後について来た。俺はそれを見てまた泣いた。俺は泣いて、小僧は笑って、都会は無表情だった。やってやるぜあほんだら。