雨上がりの桜見物!
桜の季節になると、何となく高揚した気持ちになるのは、日本人の共通の感情だろう。桜を見て、改めて春が来たことを実感するのだ。しかし、今年は雨降りの日が多く、タイミング良く桜を見ることができるのかと心配していた。 4月4日(土)は雨で、風も吹くという天気予報だった。朝起きて空を見上げると、どんよりと曇っていて、今にも雨が落ちてきそうである。私は10時くらいに家を出て、街の中心部にある幸町図書館に行った。借りていた本を返却するためだが、ここは公園になっていて、周辺に桜の木が植えられている。元々、小学校があった頃の名残だろう。蒸気機関車も設置されていて、桜とのコラボレーションがなかなかいい。 その後、イオンシネマで映画を観て外に出ると、天気予報の通りに雨になっていた。この雨で桜が散ってしまうのではないかと心配しながら帰宅した。雨はますます強くなり、もう桜見物は無理だろうと諦めた気分だった。それから2時間くらい本を読んで過ごした。 キリのいいところで本を閉じて外を見ると、雨はやんで青空がのぞいている。時刻は5時に近かったが、いてもたってもいられず家を出た。 近所の公園に行くと、小学生くらいの女の子が3人遊んでいた。大声で会話をしていたが、よく聞くと中国語のようだった。いつも思うことだが、子どもと桜は良く似合う。それから再び図書館に行った。同じ桜でも、西日を受けた桜は花びらの色が違って見えた。 西川の通りを北に歩いた。夕方になっているせいか、交通量が多い。桃太郎大通りを横切り、西川沿いの桜並木のところまで来た。私が毎年桜見物に来ているのはここである。 雨の後のため、遊歩道の土の部分に水が溜まっていた。そして、心配した通り、桜は散り始めていた。先ほどの雨と風の影響だろう。地上に落ちてしまった桜の花びらが、何となくわびしく感じられた。 私は毎年ここに来て、同じ位置からこの美女の写真を撮っている。もう20年以上になるかもしれないが、一種の定点観測である。背景の建物は変わったが、美女のお尻の美しさは変わらない。以前は子どもとここに来てベンチに座り、お弁当を食べながら美女のお尻を見ていたことを思い出していた。何年か後には、孫を連れて来るのだろうか。 桜の木があるところをぐるりと歩いたが、雨の後のためか人が少ない。以前は西川にかかる橋の上で焼き肉をしながら騒いでいるグループをよく見かけたものだ。しかし、ここ数年はそんな人はいなくなった。それはそれでいいのだが、桜の下を歩く人を見て、私は違和感を覚えていた。日本人よりも外国人の方が明らかに多い。桜見物をしているグループが話していいる言語は、中国語やハングルに聞こえた。また、東南アジアの民族衣装を着て、ネット配信をしている女性の二人組もいた。観光客なのか、移民としてこの街に住んでいるのか分からない。その後、駅の方に向かって歩いていると、すれ違う人も外国人が多かった。異国の人に桜の美しさを実感してもらうのもいいが、日本人の方が少ないというのはどういうことか。 以前もこのブログに書いたことがあるが、散りゆく桜を見ると、私はいつも平安時代の歌人・紀友則の歌を思い出す。それは百人一首にも入っている「久方の光のどけき春の日にしづ心なく花の散るらむ」という歌である。「日の光がのどかに地上に降り注いでいる。そんな春の日に、なぜ花だけがしづ心なく、落ち着かないであとからあとから散っていくのであろうか」という意味だろう。 この歌に詠まれた花は風に吹かれて散っているのではなく、自然にはらはらと散っている。命を全うして満ち足りた花が、自らの意志によってゆっくりと散ってゆく。桜が散っているのが惜しいのではなく、充分に生き切った花が散っていく。その伸びやかな充実感を紀友則はとらえて歌にしたのではないだろうか。 日本人は古来から、桜のつぼみの頃、咲き始め、満開の時、散っている時、そして散った後も、桜を見てなにがしかの情趣を感じることができる民族である。桜が咲く国に生まれて良かったと改めて実感できる。それがこの国の春である。