自信という言葉がある。
文字通り自分を信じることだ。
誰かに
「あなたは自分に自信がありますか?」
と問われれば
私は
「はい」と即答するだろう。
そうなるまで、28年という長い長い年月、
私は自分に自信があると言える根拠を探していたことを思い出す。
子供の頃に誰かに何かを褒められた記憶。
「良く親の言う事を聞いて偉いね」
「100点が取れてすごい」
子供の頃、私は自信を持てなかった。
だから褒められた時は
「ありがとうございます」と機械的に答えていた。
内心
「たいしたことないんだけどな」と受け取らずに。
今思えば
私は誰かに気に入られたくて
誰かの言う事を守って
私自身をないがしろにしていたことに気づく。
例えば
私は本が好きだった、ゲームが好きだった。
休みの日はずっと一人でワクワクしながら本をめくっていたし
ゲームを一日中夢中になってやっていた。
それなのに
友達の誘いを断るのは悪いなと思って
内心嫌にもかかわらず友達と遊んでいた。
自分自身はそうは思わなくても
誰かが、親が言うなら、と。
絶対に嫌なことも泣く泣くやっていた。
今では笑ってしまうのだけど
小学校の習字の時間に四字熟語を選んで書く時に
私が選んだ漢字は
「粉骨砕身」だった。
砕けちゃダメだろと今の僕なら笑い飛ばすだろう。
でも子供だった僕は
「努力」が足りないと、真剣に考えていたのだ。
私は長らく
「自信が持てる」と言える根拠を探していたのだが
「根拠の無い自信」こそが
どんな状況、環境、世界に存在してたとしても
「私は自信がある」
と断言できる唯一無二の物であると
「自信」を持って言える。
だから私は、誰かに否定されても
誰かに期待を裏切られても、
誰かに嫌なことを言われても、気にしなくなった。
私だって誰かを否定することはある。
誰かの期待を裏切ってしまうことがある。
誰かに嫌なことを言ってしまうことがある。
それは「自信を持つ」ことと、
まるで無関係だということに気付いたから。
人を信じることも同じだ。
何かを信じることに根拠が必要なのは
自信に根拠を求めることと
同じなのだから。
私はこれから先ずっと、
100%私を信じている。
だから人を信じていくだろう。
誰かに裏切られたと感じたとしても、
誰かに嫌なことを言われたとしても、
不信とは
自分を信じられないことに他ならない。
私の判断を否定することに他ならない。
私の判断は間違っていないのだから、
人を信じていく。
子供の頃から捻くれていて
ずっとずっと孤独で
いつもひとりで泣いていた
私自身のために。