気さくで面白くて楽しいベテラン歌手
田端義夫さん、通称バタヤン、この人は私の子供の
頃よりラジオから流行歌(歌謡曲)が子守唄
代わりに聴いてきた「かえり船」「別れ船」
「大利根月夜」「玄海ブルース」「麦と兵隊」等
大衆に絶大に人気のあった歌手だったと思う
特に私の祖母が大ファンで大阪公演は必ず大阪は
千日前にあった定番の劇場、大劇(大阪劇場)に
観に出掛けていた、当時此の劇場は座席指定では
なく早朝、早くに良い座席を確保するため劇場の
前から並ぶのである人気歌手の場合は劇場を何重に
も取り巻く行列だった、其所で祖母は私に言うの
である「茂ちゃん、アルバイトせぇへんか
場所取りしてくれたら、500円あげるでぇ」
と来る当時のお金で中学年の私に取って500円
は大金✊であった、私は二つ返事で「ああ、エエよ」
と言って実家の船場から千日前の大劇まで朝一番の
市電に乗り場所取りをした事を思い出す
その田端義夫さんとまさか一緒に仕事を指せて戴く
事に成るとは夢にも思わなかった
1961年昭和36年、北の御大、市川右太衛門
さんの「旗本退屈男、謎の七色御殿」の作品で
田端義夫さんは旅籠の番頭役で出演する事になり
初めて撮影所で顔合わせする、此の作品は
歌手の方々の出演が多く村田英雄さんに、こまどり
姉妹他に東千代之介さんに久保菜穂子さん
山城新吾さんの面々だったと思う
此の撮影中の時間待ちの時田端義夫さんに挨拶に
伺った折り田端さんから「アンさん、大阪の人か
ワテも生まれは三重やけど、育ちは大阪の鶴橋や
ねん」と言うことになり、失礼ながら父親か年の
違う兄貴の様な親近感を持った事は不思議だった
その後、年の離れた兄貴の様に慕い意気投合し
田端義夫さんの晩年までお付き合いさせて頂きま
した、色々お世話になりぱなしで撮影が終わった
後も、田端さんの大阪公演は必ず楽屋見舞いに伺っ
て居りました、唯、田端義夫さんのホームグランド
であった千日前の大劇は消滅していて、場所は
千日前から道頓堀の「中座」に替わっていた1年に
一度必ず中座公演があり、その中で日本中が驚いた
出来事があった昭和54年の8月だったと思う各
新聞に「田端義夫、ラスベガスでスロット、マシン
で6千万円の大当たりが出る」と報道されている
日本中の国民も驚いたが私も天と地がひっくり返る
驚きだった、その翌年昭和55年の正月に名古屋で
長期公演が「中日劇場」で公演するから良かったら
遊びに来ないかと田端義夫さんのマネージヤから
電話連絡が入る、当然ながら楽屋に陣中見舞に
訪問する、その折昨年のラスベガスの一件を
尋ねると面白可笑しく話して下さった
その頃田端さんは仕事が一段落すると約一週間
ほどラスベガスに行きカジノに入りびたりの
日々を過ごすことにしていたそうだ
泊まりはヒルトン、ホテルでスロットマシンは
ストレス解消の格好の遊び道具だったそうだ
ガチャン、ガチャンとハンドルを手前に倒す
その頃ラスベガスは日本人客がいっばい居たそうだ
朝方の4時頃だったそうだスロットマシンの
賭け率の一番大きいのがビッグ、ジャンク、ボード
だ横5列、縦上中下の三段に数字が並ぶ
ビッグ、ジャンク、ボードは下段の横五列に七が
五つ出るとベルが鳴り出す配当を示すイルミネーション
を見ると何と「二十九万ドル」当時のレートで
日本円にして「六千四百万円」、ホテルの従業員が
駆け付けすぐに日本の歌手田端義夫とわかって
しまったと言っていた、その時ラスベガスでショー
をやっていたポール・アンカーと知り合え
「楽屋に来てくれと言われ」ショーの事とか日本の
歌の事を長い間話をしてきたと言っていた
私も一度、フランク、シナトラを観にラスベガスに
行った折り、ホテルでスロットマシンでをやった
事があるけどサッパリでした
個人的に田端義夫さんとは昭和36年の映画撮影
以後色々お世話になり本当の兄貴の様な感情が
今も心の中に住み着いている。