「職業がなんだ?財産なんて関係ない。車も関係ない。財布の中身もだ。パンツのブランドもな。お前らは歌って踊るだけのこの世のクズだ」



(あらすじ)

不眠症に悩む平凡なサラリーマンの主人公僕(エドワードノートン)は、危険な石鹸行商人タイラーダーデン(ブラッドピッド)とともに'ファイトクラブ'を立ち上げた。素手で殴り合う痛みによって、生きている実感を取り戻そうとしたのだ。参加者もどんどん増えていき、クラブは徐々に一大組織へと成長していく。しかし、タイラーの指導によって次第にクラブは社会に不満を抱えた男たちの集まりへと変貌していき、遂には資本主義をぶっ壊そうとするテロ集団となってしまった。僕はタイラーの計画を阻止しようと奔走するが•••


99年の公開当時、その暴力的かつ挑発的な内容により本作は、多くの批評家から非難の嵐に晒された。制作費をほとんど回収できず、20世期FOXの重役は何人も解雇されてしまった。


しかし、次第に状況は変わりだした。アメリカ中の学生の部屋に、本作のポスターが飾られた。原作者チャックパラニュークは一躍脚光を浴びた。世界の各地で、本物のファイトクラブが結成された。ハリウッド最凶の問題作として、カルト的な信者を山ほど生み出したのだ。


これは、67年に『俺たちに明日はない』が公開された時の状況と酷似している。『俺たちに~』も公開当時は批評家からこれでもかと叩かれたが、若者たちの熱狂的な支持を受けて『卒業』(67)や『イージー・ライダー』(69)と共に「アメリカンニューシネマ」という新たな潮流を生み出した。


『俺たちに~』と本作の共通点は、どちらもセックスと暴力が重要なテーマとして描かれていることと、息苦しい閉鎖的な時代に反抗する人間たちが主人公だという点が挙げられる。そう考えると本作は、実にアメリカンニューシネマらしい作品だといえるだろう。


実際に主人公の僕を演じたエドワードノートンは、演技の参考にしたキャラクターとして『卒業』のベンジャミン(ダスティンホフマン)を挙げている。『卒業』といえば、主人公ベンジャミンが花嫁エレーン(キャサリンロス)を教会から連れ去るシーンがあまりにも有名な作品だ。このシーンは、大人社会への反抗と主人公の未熟な自分からの卒業を意味している。


本作の主人公はどんな人物かというと、教会からエレーンを連れ去ることなく、親に言われた通りに社会人となってしまったベンジャミンだ。だから僕は、物質的に恵まれた何不自由ない生活にも関わらず不眠症となってしまう。社会に対する疑問から目を逸らし、未熟な自分を卒業できず、真に自らの人生を生きていないのだ。


「今、真に自らの人生を生きているか?」


これは、重層的なテーマを持った本作の中でも特に重要なテーマである。収入のいい仕事、理想の恋人、オシャレなマイハウス、健康的な食事、カッコいい車、ブランドものの小物etc•••。テレビ、雑貨、広告などが「素敵なライフスタイル」を宣伝し、人々はボンヤリとそれを追い求めてしまう。だが、本当にそれでいいのだろうか?資本主義のど真ん中で、宣伝に踊らされて、いりもしないモノに囲まれ生活し、虚栄に塗れたくだらない人生を消費者として送ることが幸せだというのか?


ふざけるな、そうじゃねえだろ‼︎アイドル?テレビ?クソくらえ‼︎何がガーデニングだ、地獄に堕ちろ⁉︎真の自分なんてものは、全てをぶっ壊して初めて手に入るもんなんだよ——という、資本主義の偽善.欺瞞に気がついた者たちの怒りを描いたのが、本作『ファイトクラブ』なのである。


そして、そんな「資本主義」の偽善.欺瞞に対する怒りを代弁してくれるのが、映画史に残る最高にイカした男タイラーダーデンだ。





「俺たちは歴史のはざまで生まれ、生きる目標も場所もない。世界大戦も大恐慌もない。今あるのは魂の戦争だ。毎日の生活が大恐慌。テレビにはこうそそのかされる、いつかは金持ちかスーパースターかロックスターだってな。だが違う。少しずつ現実を知り、俺たちはそれに怒ってる」


悪の救世主、究極のミニマリスト、男が惚れる男、アンチキリストなど、彼を表現する言葉を挙げだすとキリがない。筋骨隆々、精力絶倫、有言実行。ひ弱で、彼女もおらず、自分に全く自信がない僕とは全く正反対の、自らの哲学に生きるワイルドな男タイラーダーデン。そんな彼と出会ったことで、僕の人生は良い意味でも悪い意味でも狂わされていくこととなる。


そして、本作には僕の人生を狂わす人物がもう1人登場する。「死」に取り憑かれた女、マーラシンガー(ヘレナボナムカーター)だ。



不眠症に悩む僕は、精神科医から睾丸癌患者の集いを紹介される。睾丸を失った患者たちの悲しみに触れた僕は、自らが'生きている'ことを実感し、一時的に不眠症を改善。これをキッカケに僕は、自助グループに偽の患者として通うようになる。しかし、そこで彼はマーラと出会ってしまった。自分と同じように、'生きている'ことを実感するために症状を偽り自助グループに参加するマーラ。彼女を見ていると、自分が'偽物'であることを思い出してしまう。僕の不眠症は、再び悪化してしまった。


僕とタイラーは全く正反対の2人だが、僕とマーラは悪い意味で合わせ鏡のような2人だといえるだろう。どちらも慢性的な日々を送る中で'生きている'という実感を失っており、自傷癖にも近い形でそれを取り戻そうとしている。僕はマーラに対して愛憎入り混じる複雑な感情を抱くようになるが、それは僕がマーラの中に「自分の弱さ」を見たからだ。


しかし、なんとマーラはあろうことかタイラーと関係を持ってしまう。毎夜毎夜2人の営みの音を聞かされる僕は、タイラーに対して憎しみと嫉妬を覚えるようになる。タイラーとマーラは、僕にとって両親のような存在となってしまったのだ。セックスでしか関係を持たず、それ以外では決して顔は合わさない2人の伝言係をさせられる僕。この時のタイラーに対する僕の感情は、映画評論家の町山智浩氏も指摘していたが典型的なエディプスコンプレックスだといえるだろう。


僕がタイラーに対して抱くものがエディプスコンプレックスだということは、本作を読み解く上で非常に大切なポイントの1つである。


殴り合うことで生きている実感を取り戻そうとする場であったはずの「ファイトクラブ」は、いつしかタイラーによって社会秩序の破壊を目的とした過激な組織「スペースモンキーズ」へと変貌してしまった。タイラーについていけなくなるだけでなく、次第に蚊帳の外にされていく僕は、最終的にタイラーの発案した「騒乱計画(プロジェクトメイヘム)を阻止しようと奔走することとなる。つまり''は、タイラーと対峙することを余儀なくされるのだ。


『映画は父を殺すためにある: 通過儀礼という見方』(12)という島田裕巳による名著があるが、つまり本作は、僕がタイラーという名の「父」を殺す通過儀礼(イニシエーション)を描いた作品だったのだ。本作最大のトリックとなる「実はタイラーは''自身だった」という真実は、そう考えるとより飲み込みやすくなるだろう。映画は



自らの内にある理想や破壊願望がつくりあげた新たな「父」、それこそがタイラーであり、そして僕自身だったのだ。実は犯人は自分自身だったという本作のトリックは、確かにありがちといえばありがちかもしれない。だが、そこに込められた意味やテーマ性は他作品と比較しても明らかに本作は突出している。僕がタイラーだったという真実は、鑑賞者に大きな衝撃を与えると同時に大きな勇気を与えてくれるものだ。良い意味でも悪い意味でも、人間には限界なんてものはない。自らの中には、タイラーダーデンのような凶暴性とともにカリスマ性も眠っているのだと、本作は力強く提示してくれている。


以上のことをふまえて、本作のクライマックスについて触れていこう。1度タイラーとの戦いに敗れた僕は、爆弾の仕掛けられたビルの最上階に連れてこられる。「騒乱計画(プロジェクトメイヘム)」の最終目的は、クレジット会社のビルを片っ端から爆破することだったのだ。


「タイラー、こんなことはやめてくれ」

「お前はいつも反対ばかりだな。だが、 結局最後は俺に感謝するんだ」

「落ち着け、タイラーは本当は存在しないんだ。つまり、タイラーが持っている拳銃は•••僕が持っている


この台詞は非常に印象的だ。タイラーが突きつけてる拳銃は、実は自分が持っている。ここでの拳銃は''とともに'ペニス'のメタファーにもなっているが、これは拳銃以外にも言い換えることができる。タイラーが持っている知識は、僕も持っている。タイラーが持っているカリスマ性は、僕も持っている。タイラーにできて、僕にできない訳がないじゃないか——と。


僕は拳銃を口に突っ込む。「タイラー、よく聞いて欲しいんだ。僕の目は空いてる」もう僕は、どんな痛みも恐れない。そして僕は、自分に弾丸を撃ち込んだ。自殺という名の通過儀礼(イニシエーション)、過去の自分からの「卒業」である。


''を経験することで、より大きな存在へと生まれ変わる。


この象徴的なテーマは、様々な映画で描き続けられている。『気狂いピエロ』(65)、『2001年宇宙の旅』(68)、『ゼログラビティ』(13)、『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』(14)などだ。『バードマン~』にはエドワードノートンが出演しているが、それは間違いなく本作へのオマージュだろう。


放たれた弾丸は、僕の頬とタイラーの頭を同時に撃ち抜いた。自ら''という恐怖を乗り越えた時、僕はタイラーという名の「父」、そして自分自身を超えたのだ。


「スペースモンキーズ」たちが、僕の元へマーラを連れてくる。かつてはマーラに対して複雑な感情を抱いていた僕だが、タイラーを超えた僕にはもう恐れるものはない。人を愛することも恐れない。堂々とマーラを、自分の弱さを受け止めることができる。


次々と崩れ落ちるビル群。タイラーの「騒乱計画(プロジェクトメイヘム)」は、時間通りに決行されたのだ。資本主義の終焉を目にする僕とマーラ。怯える彼女の手をとり、僕が言う。


「心配するな、これからは全てよくなる」



ピクシーズの『Where Is My Mind?(88)が鳴り響き、偽善.欺瞞を許さぬ者たちの怒りがついに腐った世界をひっくり返す。映画史上最も衝撃かつ爽快なクライマックスだ。その美しさには、何度鑑賞しても息を呑む。しかしその瞬間、画面に一瞬とんでもないものが映り込むのだ。何を隠そう、ペニスである。


作中でタイラーが映写技師をしていることが語られるが、彼はその時、子供向けアニメーション映画に1コマだけポルノのフィルムを忍ばせる悪戯をしている。つまりこの場面は、鑑賞者が映画を鑑賞しているその瞬間、タイラーが映写室にいることを意味しているのだ。映画そのものをひっくり返すようなメタ演出である。


『ジョーカー』(19)のラストでジョーカー(ホアキンフェニックス )が「理解できないさ」と鑑賞者を切り捨てたように、このペニスの1コマも鑑賞者を容赦なく切り捨てる。「何を感動してるんだ?こういう風に映画を観て貴重な時間をドブに捨てているお前らこそ、メディアに踊らされるバカなんだよFuck You‼︎映画の中で繰り広げられる革命に一喜一憂していた鑑賞者に対して、本作は情け容赦なく中指を突き立てるのだ。


先程、鑑賞者が映画を鑑賞しているその瞬間、タイラーが映写室にいると書いたが、これは映画の演出にとどまる話ではない。実際にタイラーはどこにでもいる。職場に、近所に、すぐ隣に、そして自分の中にもタイラーは存在している。


ますます生きづらい時代となってきた。ままならない毎日に、フラストレーションを溜め込んでいる方も多いだろう。そんな方にこそ、本作を全力でオススメしたい。通過儀礼(イニシエーション)の場を失い、自らの生きる道を見失った現代人に対して、本作はスクリーンごしに銃口を突きつけてくるような作品だから。


今この瞬間、お前の残り時間は0に近づいている。他にやりたいことはないのか?人間なんて、一度死んだ気になればなんだってできるんだ。何もかもぶち壊せ、自分の道は自分で決めろ。こんなボンクラのブログなんて読んでる場合じゃねえ、お前の人生を取り戻せ‼︎忠告はしたからな‼︎‼︎


そんなタイラーの叫びが聞こえてくるはずだ。