武狼太のブログ

武狼太のブログ

大学の通信教育過程で心理学を学んでおり、教科書やスクーリングから学んだことをメインに更新しています。忙しくて書けなかった、過去の科目についても遡って更新中です。

大学の心理学部で学んだことを中心に更新しています。
過去に遡って更新もしています。

心理学関連の内容につきましては、私見を含んでいる部分もありますので、参考の参考程度で見ていただけたらと思います(^^)


・・・
2013/08
卒論のアンケートへのご協力、ご声援、本当にありがとうございました(__)
ご厚意に感謝いたします。
・・・
2016/01
画面左側にもありますが、「coconara」というサイトでメールカウンセリングの開業をいたしました。まずはここから、しっかりと行っていきたいと思います。
・・・
2020/05
現在、カウンセリングの業務も勉強もしていません(^^;
自身の深層心理への関心が強まり、そちらに関連するもの、そちらに触れられるものについて学んでいます。
Amebaでブログを始めよう!
■「死生観を考える」第9回
■日時: 2023/1/15(日) 20:00~22:30
■場所:オンライン
■参加者:5名
■内容:
 【9】死後の生
■資料:死生観を考える_ver1.00.pdf
 (→改訂版:死生観を考える_ver1.10.pdf)
     *改訂版資料のダウンロードはコチラ 


 




 【8】生きる意味 

■死の意味■ 
◎有限性、時間性は人間の生命の本質的特徴
 ⇒その意味にとっても不可欠な要素
 ★人間の生命の責任は、それが時間性と一回性という点に関しての責任である
・人間は有限性を自らに引き受け、意識的に終わりの来ることを考慮に入れておかなければならない
 ⇒この態度は、必ずしも英雄的であるとは限らない
 ⇒平均的な人間の日常の態度のうちにすでによく現れている
◎有限な生命は意味を持っている
 その長短や子孫の有無とは無関係に意味をもっているのである

▼実存分析の意味において 
・患者にその責任性存在を意識させ、それを真に理解させようとするとき
 ⇒生命の歴史的性格、および生命における人間の責任を描いて見せねばならない
・臨床的場面において
 ⇒患者がその生涯の終わりに、患者自身の伝記を繙いているかのように想像させる

▼比喩:彫刻家 
・人間の生命は、彫刻にたとえられる
・形のない石にノミと槌とで細工し、素材が次第に形を為していく
 ⇒運命が与える素材に対して、自身の生命から想像価値であれ、体験価値であれ、態度価値であれ、為しうる限りの諸価値をそこに刻み出そうとする
・その彫刻家は、芸術作品を完成するのに限られた時間でせねばならない
 ⇒しかし、その作品を引き渡すべき期限は知らされていない
 ⇒いつ「呼び戻される」かを知らず、それは次の瞬間かもしれない
・いかなる場合にも時間を利用することを強いられており、作品が未完成に終わる危険を冒さなければならない
 ⇒しかし、未完成だからといって、それは決して無価値にはならない
★我々は決して、その人間の生命の時間的長さから、その意味の豊かさを推測することは出来ない
 ⇒我々は、ある伝記をその頁数の多さによって判断せず、その記載内容の豊かさによって判定する
・若くして死んだ人間の英雄的な生涯は、一層多くの内容と意味とを確かに持っている

▼事例:ある男性患者①
・教師であり、作家でもあった
・自身の身体的な弱さという弱点が、生物学的な「不死」の意味を過大評価させていた
・子どもを世に遺すことは、優生学的な理由から全く不適切と語られた
 ⇒自分のためにいつか、死者の祈りを捧げてくれる1人の息子を持つことを熱望していた
・その強い願望が余計なものであることを悟らせるための問い
 ⇒遺伝によって病める息子が生まれ、彼のことを考えてくれるのを望むのか
 ⇒多くの読者や生徒達が彼のことを考えてくれるのがよいのか
・患者は納得したあと、計画していた結婚を中止しようとした
 ⇒結婚の意味は、決して生殖の中に存在するのではないことを指摘した
・生理的な衝動充足と生物的な子どもを生むこととは、結婚の二つの側面に過ぎない
 ⇒決して最も本質的なものではない
 ⇒愛の幸福の心理的な契機、あるいは協同の仕事に励むことの精神的な契機がより重要である
◎各人が不完全であること
 ⇒各人の欠くべからざることや、他人と代えられえないことが生じてくる
 ⇒あらゆる人間が完全ならば、全ては同等となり、各個人は任意の別な人間に代えられうるだろう

▼事例:ある男性患者②
・五年間、昏迷状態でベッドに横たわり、脚の筋肉が萎縮するほどであった
 ⇒人工栄養を受けねばならなかった
・精神病院に見学に来る医師達の多くは質問した
 ⇒この男性を処置してしまった方がよりよいのではないか
・ある日、男性は食事を普通に摂ることを求め、ベッドから出ようとした
 ⇒歩行訓練で脚の筋肉を鍛え、数週間後に退院した
 ⇒ある高校で罹患する前にした旅行についての講演をした
 ⇒親しい精神医学者のサークルで疾患時の体験報告をした

▼医師の義務 
◎救いうるときには救う
 ⇒生命を自ら棄てようとした重体の患者に接する場合にも、それは離れない
・自殺者が自ら選んだ運命に委ねるべきか、自殺者の意志に逆らうべきか
 ⇒そうした問題に、医師は対決させられる
・もし人生に倦んだ人間を死に至らせることが「運命」あるいは「摂理」の中に存在するならば
 ⇒医師の処置を手遅れにする手段や方法が見出されていただろう
 ⇒運命によって、まだ間に合う間に医師の手に委ねられたならば、医師として行動せねばならない
 ⇒いかなる場合でも、個人的世界観的判断によって、存在非存在を決定する裁きをしてはいけない

▼不治の精神病者や生来的な重度の知的障害者 
・社会の経済的な負担となり、非生産的で社会に無用の存在なのか
・近親の愛に取り囲まれている人間
 ⇒他者によって取って代えることのできない、愛の対象である
 ⇒その生命は、たとえそれが全く受動的であっても、1つの意味を持っている
 ⇒その無力性の故に、両親から特に愛され、優しく取り巻かれている
・社会の中に存在する者はみな、何らかを消費して過ごしている
 ⇒ある生産者から見れば消費者であり、サービス提供者から見れば利用者である
 ⇒社会経済の中で役割を持っている

▼1人の人間の精神的問題性は「症候」として片づけられてはならない 
◎いかなる場合もそれは「業績」
 ⇒ある場合には、患者のすでに為した業績
 ⇒ある場合には、誰かが助けて為さしめなければならない業績
・このことは、外因的な理由からその心的均衡を失った人々について当てはまる
 ⇒精神病質人格者や内因的心的性質の不安定な均衡状態の中にある人は当てはまらない

 ▼事例:生涯を捧げて世話をした愛する近親者を失った人 
・不安定になって、自分の今後の生活がまだ意味を持つかどうか疑問になった人
 ⇒その存在の意味性に対する“信仰”が動揺し始めた人は、惨めである
 ⇒道徳的な余力なくして立っている
 ⇒生命を無条件に肯定する世界観を支えうる、精神的な力が欠けている
・生涯の困難な時期に運命の打撃を受け止めて、運命の力を自分の力で補償することが出来ない
 ⇒運命の暴力に対する道徳的な力の解体・断念が生じてくる

▼比喩:テーブルゲーム 
・難しい局面でゲーム盤をひっくり返してしまう
 ⇒それによって何ら問題が解決しない
 ⇒人生においても、生命を放棄することによっては何の問題も解決しない
・そのプレイヤーがルールを守らなかったと同様
 ⇒自殺を選んだ人間は、人生のルールに反するのである
・このルールは、我々にどんな代価を払ってでも勝てと要求しているのではない
 ⇒その戦いを決して放棄しないことを求めるのである

▼生の倦怠への対症療法 
◎自殺の動機には身体的および社会的な契機が存在する
①身体的療法: 薬物による持続睡眠
 ⇒仮の解決であり、当人が自殺を考える人間的な人生問題の解決ではない
②社会的療法: 監視や隔離
 ⇒何の解決にもならない
*あらゆる不幸の根拠を世界から排除することはできない
 ⇒排除するべきではないだろう
 ⇒持つことの出来なかったもの無しでも、生き続けて行くことが出来る
・人生の一片の意味をその中に見ることができるだろう
・不幸を内的に克服し、運命の試練によって精神的に成長すること
 ⇒それを導くことに成功せねばならない
★「生への畏敬」を持たせることが重要
 ⇒生命とは、無条件の価値を持ち、いかなる場合にも意味を持つもの
 ⇒ある生命内容を与え、生活の中に目的を見出させ、ある使命を見出させる
ニーチェの言葉
  • 『生きるべき「何故」を知っている者は、ほぼ全ての「いかに」に耐えることが出来る』
・人生の使命を知ることは、心理療法的、精神衛生的な価値を持つ
 ⇒「何故」が前景に出てくるほど、「いかに」生きるかの困難さは次第に背景に退いていく
・人生において一つの使命を持つという意識
 ⇒外的な困難や内的な煩悶に内から耐えうるもの
 ⇒その使命が個人的に編成され、天職と呼びうるものになるときに初めて、真に理解できる
・人は、他の何者にも代わることが出来なくなり、独自の価値を生命に与えられる
 ⇒人生は、それが困難になればなるほど、それだけ意味に充ちている、という洞察が生じる
◎生命の最高の活動が出来るように助け、「受動」から「能動」の状態へ移そうとするならば
 ⇒価値実現の可能性に対する「責任性存在」として、自らの存在を体験させるように助けなければならない
 ⇒それを果たす責任性をもつ使命が、特殊な使命であることを示さねばならない
 
▼事例:スポーツ選手 
・自ら困難な状況や目標を設定し、それを克服しようと努める
 ⇒人間は人生において、自ら苦難に打ちあたって精神的に成長しようと努める

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 Breaktime

①もし、可能であるならば、あなたは不死を望みますか
②もし、あなたが自殺を止めようとするとき、相手にどのような言葉をかけますか
・・・・・・

(①について)
 子どもの頃、死とは何なのかとふと考えたとき、全てが無駄になる、全てを失い無になる、ことへ大きな恐怖を感じましたが、その頃と同じように、自己中心度を高めて考えると、今でも恐怖心が生じてきます。その恐怖をなくすことが出来るなら、不死を望みたいという気持ちにもなりそうです。
 しかし、私自身、動物や魚などの生命を食して生きており、自身の死に直面して「死にたくない」とは思うのは大きな矛盾があるようにも感じます。なので、自然の法則に従って、死を迎えるべきであろう、という気持ちが今は強いです。ただ、死の恐怖や不死の技術を目の当たりにしたら、考えが揺れ動くかもしれません。
 命に限りがあるからこそ、人は喜びや悲しみの中でいきいきと生きることが出来る、というフランクルの言葉を紹介しましたが、私はその通りだと感じました。不死となり永遠に生きることは、果たして幸せをもたらすのか。私は子どもの頃に見た、松本零士の「銀河鉄道999」を思い起こしました。機械の体を手に入れ不死になるために旅する少年の物語ですが、そのような物語などを通して子どもの頃からずっと、人としてどう生きるか、を心のどこかで考え続けてきたのだなと改めて思いました。

(②について)
 私が一番かけたいと思うのは「あなたにとって、あなたが今死ぬ意味は何ですか?」という言葉です。私は以前、業務効率化のために仕様書から「否定語」を削減する、という副次的な業務をしていたことがあり、「否定語」に敏感な時期がありました。その頃のテレビ番組で、自殺未遂の経験者が「生きる意味がないから死のうと思った」と話すシーンを見て、それまでにない違和感を覚えたことがあったのです。
 少々理屈っぽいかも知れませんが。肯定文で表現すると「死ぬ意味があるから死のうと思った」となって意味が通りやすくなりますが、「生きる意味がない」と「死ぬ」とは必ずしも結びつくものではなく、意味が通りにくいのではないか、と改めて考えたのです。それ以来、私にとって私が死ぬ意味とは何なのか、それはあるのだろうか、とも考えるようになりました。自分自身にとって、自身が生きる意味があるならば、自身が死ぬ意味もあるのではないか、そのようにも考えています。
 心理学部で学ぶ前は、自殺した人にも意志があるのだからそれは尊重すべきである、と思うところもありました。しかし、精神疾患の症状として「自殺企図」があることを知ってからは、その意志は本当に本人のものか症状なのか、と不信を抱くようになりました。また、フランクルが考える「生きる意味」について、私は個人的に納得する部分が多くありました。なので、自殺を考える人がいれば、誰であれ止めるべきであると今は考えています。「安楽死」や「尊厳死」というものもありますが、これは医療の分野に属するもので、自殺とは全く異なるものという認識でいます。

(ちなみに)
 参考までに、河合隼雄さんが書かれていたことをご紹介します。自殺未遂者と話し合うとき、次の3つを聞くそうです。①どうして自殺をする気になったのか、②死ぬことについてどう考えているのか、③今後も自殺をする気があるのか。さらに、③で「ない」と答える人には、「自殺しない理由」ではなく「生きたい理由」を聞くのだそうです。後者の質問では、簡単に取り繕うことが難しいからだそうです。



 【9】 死後の生 

■死への対処 
▼“死の恐怖”は人間共通の感情 
◎“悪い”死人をなだめる儀式を持つ文化が数多くある
 ⇒“怒り”が起源
 ・古代ヘブライ人:
     ⇒死者の肉体=不浄、触ってはいけないもの
 ・インディアン:
     ⇒悪霊を退散させるために空中に矢を放つ
     ⇒軍葬:銃を発砲する最後の敬礼
 ・墓石:
     悪霊を地下深くに押さえようとする願望ではないか
◎「死」は今なお、恐ろしい、怖い出来事
 ⇒「死の恐怖」は人間共通の感情
 ★変化したのは“死”と“死ぬこと”と“死にゆく患者”に対する我々の扱い方
◎幼い子どもたち
 ・かつては、家族の会話や議論、恐怖の仲間入りをさせた
     ⇒嘆き悲しむのは自分達だけではない、責任を分かち、哀悼に参加する満足感が得られる。
     ⇒「死を生の一部と見なす」成長と成熟とを助ける貴重な経験であった
 ・現在は、子どもたちを遠ざける
     ⇒「あまりにも傷ましい」との想定と口実の下、死の場所から遠ざける
     ⇒信じられないような作り話や嘘:「お母さんは遠い旅行に出たのだよ」
     ⇒敏感に何かおかしいと感づく
     ⇒率直な質問や疑問に答えてもらえない
 ・子どもの大人に対する不信感が深まる
     ⇒遅かれ早かれ、子ども達は家族情況の変化に気づく
     ⇒解消されないままの悲しみを心の底に抱き続ける
 ・この出来事を何か空恐ろしい、神秘的なことのように見なす
     ★極めて深刻な精神外傷的な経験
     ⇒死がタブー視される社会

▼「自分自身の死」 
・見つめることが出来るようになって、初めて事物の様相が変わる。
 ⇒集団レベルでは出来ない、1人で個人レベルで見つめなければならない。
・誰もが、この問題を回避したい要求があるが、遅かれ早かれ、対決させられる
・自らの死を見つめ始めれば、多くの事柄に影響を与えることが出来る
 ⇒我々の患者、家族、そして最終的には国民の福祉に
 
■人生は廻る輪のように (1988年 キューブラー・ロス) 
▼事例:自動車事故で医学的に死亡が確認された女性 
・生還する前に「主人に会って来た」と証言した
・事故の直前、その女性の夫は、別の場所で自動車事故を起こして亡くなっていた
 ⇒のちに医師から知らされた

▼30代のある男性 
・自動車事故で妻子を失い、失意のあまり自殺した
・死亡が確認されたが、その男性は家族に再会し、みんな元気そうであることを知って生還してきた

▼事例:5歳の男の子 
・母親に死の体験の素晴らしさを説明しようと絵を描いた
・光り輝くお城を描いて、「ここに神様がいるんだよ」と話した
・明るい星を描き足し、「僕がこのお星様を見ると、お星様がおかえりって言ったんだ」と話した

▼事例:ロスの体験① 臨死体験の話 
・「死とその過程」セミナーでは、同じ患者を2度以上参加させない方針だった
 ⇒学生達には、先入観を与えないため、事前に患者情報は全く知らせなかった
 ⇒S夫人:1度目のインタビュー後に退院したが、1年を待たずに再度、参加を強く要望した
 ⇒2度目のインタビューで「臨死体験」を話した
◎臨死体験
 ・内臓出血で倒れて病院に担ぎ込まれ、個室に入れられ、容体は「危篤」と判定された
 ・ICUに15回も入った経験があり、半分は死にたがっていたが、決心がつかなかった
     ⇒あとの半分は、息子が成人するまでは生きたいと願っていた
 ・自問自答していると、看護婦が入ってきて、こちらを一目見ると、慌てて飛び出していった
     ⇒その瞬間、意識が身体から離れ、天井に向かってフワっと浮き上がった
     ⇒蘇生チームが駆け込んでくるのが見えて、生き返らそうと懸命に働いていた
 ・S夫人は天井の方から一部始終を観察していた
      ⇒チームの会話を聞き、それぞれが内心に浮かべている懸念さえも読み取ることが出来た
 ・痛みは感じず、身体から抜け出ていることに恐怖も不安もなかった
     ⇒チームの人達が、自分の存在に気付かないことが不思議でならなかった
     ⇒1人の腕をつついてみたが、自分の手は相手の腕を突き抜けてしまった
     ⇒無力感にとらわれ始め、意思を疎通させる努力をあきらめたとき、意識を失った
 *S夫人が最後に覚えていること
     ⇒顔までシーツがかけられて死亡を宣告された
     ⇒狼狽していた蘇生チームの1人がジョークを言ったこと
 *3時間半後、遺体を片付けに来た看護師が、S夫人が蘇生しているのをみて仰天した
◎会場にいた全員が驚くべき話に魅了されていた
 ・学生達は、S夫人は頭がおかしいのではないか、と考え始めた
     ⇒S夫人もまた、同じ疑問に捉われていた
◎S夫人は自信を失っていて、正気であることを確認して欲しがっていた
 ・S夫人は正気そのものであり、真実を語っていたことをロスは確信していた
 ・精神病ではないかと聞くS夫人に、現在も過去も精神病ではないとロスは答えた
◎学生達はみな、事実ではなく幻覚であるとして、不満を表明した
 ★科学で解明されていないことは沢山あり、だからといってその存在を否定することは出来ない
     ⇒その後、病院牧師のG牧師と手分けして、臨死体験者を求めて体験談を集めた
     ⇒臨死体験者達は、話が他に漏れることを恐れていた

▼事例:ロスの体験② 幽霊 
◎所属病院の窮屈な雰囲気に嫌気が差し、辞める決心をしていた
 ・最後と決めたセミナーが終わり、N牧師が乗るエレベーターを待っていた
 ・エレベーターのドアが開くと、10ヶ月前に亡くなったS夫人が透き通るように立っていた
 ・ロスは顔を覚えていたが名前を思い出せず、N牧師にはS夫人が全く見えていなかった
  • S夫人:「ロス先生、帰ってきましたよ。先生のオフィスまでご一緒しても構いません?話はすぐすみますから」と微笑みながら言った
 ・精神異常の初期なのか、ストレスが続いていたが幽霊を見るほど極端ではない、などと考えた
 ・S夫人はオフィスの前で止まり、ドアを開けて導き入れてくれた
◎S夫人との会話
  • ロス:「S夫人!」自分は何を言っているのか。目の前のペンや紙に触り、これが現実かどうかを確かめた
  • S夫人:「ロス先生。帰ってきた理由は二つあります。一つは、先生とG牧師に、本当によくしてくださいましたとお礼を言うためです。でも、二つ目の理由は先生に申しあげるためです。死とその過程セミナーのお仕事をやめないようにって。…まだ早すぎます」
  • S夫人: 「聞いてますか?先生のお仕事はまだ始まったばかりです。私達がお手伝いしますわ」
  • ロス:「もちろん、聞いているわよ」 自分が考えていることも、言おうとしていることも、S夫人は全て分かっていると気づいた
  • S夫人にペンと紙を渡して、G牧師に伝言を書いてくれるよう頼んだ
  • S夫人:「これで満足しましたか?」気がつくと、S夫人の姿が消えており、部屋の中にも廊下にもいなかった
◎神秘体験
 ・動転しながら考えた、自分はなぜ疑うのか?なぜ否定しようとするのか?
 ・心を開いていれば、それをしっかりと体験し、信じることができるようになる
     ⇒セミナーをすぐにはやめず、決定的な間違いを犯すことを防ぐことができた
 ・G牧師にだけ話し、死を定義することを超えて、死後の世界にまで視野を広げた
     ⇒2人で死から生還した患者に面接し、死後の生に関するデータの収集を続けた

▼事例:ロスの体験③ 宇宙意識 
◎初めての体外離脱体験
 ・五日間のワークショップの最後の夜、ベッドに入ってすぐ、深い眠りに入っていった
 ・身体から抜け出して、どんどん上昇しているような気がした
 ・はるか上空に昇ったとき、何人かの存在に抱きかかえられていることに気づいた
     ⇒修理する場所に運ぼうとしていた
 ・修理工が自動車を修理するような感じで、各人が得意分野を持っているようだった
     ⇒損傷部品がたちまちに新しい部品に交換され、ロスはベッドに送り返された
◎二度目の体外離脱体験
 ・超心理学者:ロバート・モンローを訪れ、体外離脱体験を誘発させる実験装置を利用
     ⇒防音ブース、ウォーターベッド、特殊なアイマスク、人工的な音声バルスで脳を刺激してゆく
     ⇒瞑想状態となり、意識の深層を体験する状態に到達する
 ・雑念が消え、質量がブラックホールで消滅するように内部に沈着していった
     ⇒信じられない程大きな、ヒューという吹きすさぶ烈風のような音が聞こえてきた
     ⇒突然、竜巻に吹き飛ばされたような感じがして、その瞬間、肉体から猛烈な勢いで飛び出した
     ⇒身体はじっとしているのに、存在の別の次元へ、もう一つの宇宙へと、脳が連れ去った
     *存在の物質的な意味は、もはや意味を失っていた
 ・死後に身体から離れる霊魂、蛹から飛び立つ蝶、サイキックなエネルギーそのものになっていた
◎1000回の死
 ・その体験の夜、ベッドに横たわるとたちまち睡魔に襲われた
     ⇒身体が責めさいなまれ、ほとんど息も出来ず、身をよじったまま、痛みにのたうち回った
     ⇒あまりに苦しく、助けを求めて叫ぶ力もなかった
     ⇒痛みに翻弄されながら、どこかで観察している自分がいた
 ・1つの死が完了すると、次の死が始まった、それが1000回繰り返された
     *その意味は明らかだった、私は見送ってきた患者全ての死を再体験していた
     ⇒彼らの苦悶、恐怖、痛み、嘆き、悲しみ、喪失、血、涙を思い知らされた
     ⇒がんで死んだ人の耐えがたい痛みを、心臓麻痺で死んだ人の恐怖を身体に感じた
 ・3度の息継ぎの時間があった
     ①男の肩が欲しいと思った(夫の肩にもたれて眠りに入るのが好きだった)
         「お前にはやれない!」という男のいかめしい声が聞こえた
          死の床にある無数の患者が私の肩にもたれかかってきたではないか
     ②「握っていられる手をください」と言った
         「お前にはやれない!」という冷徹な声がまた聞こえた
     ③情けないことに、指先でいいから欲しいと思い始めた
         ⇒誰かがそこにいるという安心感が欲しかったが、自制心が生じた
             「バカなことを!手をくれないのなら指先なんかいらないわ。もう誰の助けもいらない。一人
でやっていく」
         ⇒憤慨したロスは、あらん限りの反抗心を書き集めて、自分に言い聞かせた
             「握る手の一つもくれない程のケチはもう相手にしない。一人の方がマシだわ。私にもそれなりの自負心や自尊心があるんだ」 
 ・突如、「信」の問題がやってきた
     ⇒「神への信」神は決して耐えられない試練を与えることはない
     ⇒「自己への信」神が与えたものならば、どんな苦しみでも耐え抜ける
     ⇒畏怖にも似た感情に襲われながら、誰かが待っていると直観した
     ⇒それは、ロスが「イエス」という肯定の言葉を口にするのを待っていた
 ・思考が錯綜した
     ⇒何に対してイエスと言うのか?
     ⇒これ以上の苦悶に?これ以上の異端に?人間の助力なしでこれ以上の苦しみに?
     ⇒何であれ、今耐えている苦しみよりひどいものがあるだろうか?
     ⇒それに、私はまだここにいるではないか?あと1000回の死?
 ・遅かれ早かれ、終わりは来る
     ⇒痛みがあまりに強すぎて、もう何も感じなくなっていた、痛みを超越していた
     ⇒「イエス」とロスは叫んだ
     ⇒痛みと苦しみと窒息感が瞬時に消えて、意識がさえ渡った
 ・身体から抜け出してエネルギーになっていた
     ⇒目をやった先の身体が信じられない程のスピードで振動し始め、無数の分子のダンスが見えた
     ⇒目の前に、この世のものとは思えないほど美しい蓮の花の群落が広がった
     ⇒花はスローモーションのようにゆっくり開きながら、輝度を増し、色彩豊かに精妙になった
     ⇒花の背後から霊妙な光が差してきた、患者達が見たという光と全く同じだった
 ・巨大な蓮の中を通り抜けて、光と一体になりたいという衝動にかられた
     ⇒抗しがたい引力に吸い寄せられ、光に近づいていった
     ⇒その霊妙な光こそが、長く苦しい旅の終着点だという確信があった
     ⇒急ぐことなく、その振動する世界の安らぎと美と静けさを堪能していた
     ⇒その時でも、自分がどこにいるのかを自覚していた
     ⇒部屋の壁も天井も窓も窓外の木々も、見るものが全て振動していた
 ・視野はどこまでも広がり、細部にわたってその分子構造の自然な振動が見て取れた
     ⇒畏怖を感じながら、万物に命が、神性が宿っている様を眺めていた
     ⇒その間も光に向かって蓮の花をゆっくり移動し続け、ついに光と一つに溶け合った
     ⇒あたたかみと愛だけが残った、100万回のオーガズムも及ばない、愛の慈悲深さと細やかさ
 *2つの言葉が聞こえた
     ①「神を認めます」という自分の声
     ②「シャンティ―・ニラヤ」という意味不明の言葉
         ⇒のちに、サンスクリット語で「やすらぎのついの住み処」を意味する言葉と分かる
 ・やがて眠りに入る前、目覚めたあとの光景が脳裏をよぎった
     ⇒翌朝は想像通りになった、目に入る全てのものが分子構造の中で振動している様を見た
     ⇒4、5日かけて、その至福の状態は次第に薄まっていった
     ⇒家事や車の運転などが難しく、世俗的なこと一切が煩わしかった
 *経験したことの多くが、自分の知的理解の範疇を超えていた


――――――――――――――――――――――

 Breaktime

①あなたは「死後の生」について、どのように考えていますか
②「死後の生」があると考える生き方についてどう思いますか
③もし、「死後の世界」について小学生に尋ねられたら、どのように答えますか
・・・・・・

(①について)
 死後の生については、私自身、それが「ある」という体験も根拠も持っておらず、今は「ない」のではないかと考えています。他者が体験した臨死体験が何なのかが不明であり、「ない」とは言い切れないのですが、「ある」と思って死んだらなかったというのは嫌だなという思いがあります。
 それと、死後の世界も臨死体験も人間の脳が見せているものではないか、その脳の働きを失ってしまえば何も見ることが出来なくなるのではないか、そのようにも考えられるので「ある」よりも「ない」方を優勢に考えています。詳細は分かりませんが、全盲の人が臨死体験で体外離脱中に目が見えるようになった、という事例が文献にありました。もしも生まれながらに全盲の方であれば、印象が大きく変わりそうな気もしました。

(②について)
 「死後の生」があると考えることは、人の倫理観を育む一助となるのではないかと思います。私自身、子どもの頃、人の行動は死後に報われる、裁定が下されて天国や極楽または地獄へ送られる、そのような物語を聞かされたり読んだりして「死後の生」がある、あるかもしれない、という考え方をしてきました。私にとっては、良い行動とは悪い行動とは何か、を考えるキッカケを与えてくれるものだったと思います。
 「死後の生」がないと考えるとき、大きく分けて2つの考え方が強まるのではないかと思います。1つは、一度きりの限りある人生を大切に生きようとする考え方、もう1つは、死んで無になるのなら努力も苦労も無駄であると自暴自棄になる考え方です。特に大きな問題を抱えていないときには前者の考え方、挫折や絶望など問題を抱えた時には後者の考え方、が強まりやすいのではないかと思います。

(③について)
 私自身、様々な情報に触れながら、今もあるかないか揺れながら考えていること、実際のところは分からないこと、をまずは伝えたいと思います。また、②で述べたような観点から、子どもには死後の世界は「ある」かもしれないことを伝えるのがよいように考えています。自暴自棄な考え方を強めて欲しくないと考えるからです。
 ただ、死後の世界への逃避や憧れなどの思いが強まることには不安を感じるため、本人が思考していることをよく聞くことが重要だと思います。加えて「死」に繋がる「生」についても話をすることが必要不可欠ではないかと考えます。自分自身の経験や思考を1つのサンプルとして、生きる意味や人生観などに通ずるものを伝えられればと思います。
 ある文献では、子どもの頃に感じた死への強い恐怖心が、大人になって精神的な不調へと繋がる要因となっていた、という事例が紹介されていました。環境や性格などからその体験を誰にも話せなかったそうです。不安や恐怖から来るストレスの多くは、死生観とも関係が深いように思われるので、死を忌避することなく考えたり話したりする機会や環境が得られれば、ストレス耐性を高められるようにも思います。
 私自身、死を考える機会を10代の頃に得ましたが、同時に糖尿病を患いつつも、私にとってはかけがえのない貴重な体験となりました。今日死ぬ可能性はゼロではない、という思いから死への恐怖が和らぎ、どう生きるかを考えるようになり、ストレスの感じ方や応じ方も徐々に変化していきました。漠然とではなく明瞭に死生を考え始めたことで、主に自問自答でしたが、倫理観が培われていったように思います。