世界には美しさが溢れていると感じる。

奇跡のような営みを感じる。

 

森に息づく無数の生命体が、それぞれの精緻な働きを持って、

種の生命を維持しつつ、全体としての森を形成している。

 

多種多様な樹木が、春になれば芽吹く。葉を無数に広げる。

一本一本の樹木には、虫が付き、それを野鳥が食べたり、巣に運んだり、

その下では小動物が植物の実をとったりしている。

そして秋が深まれば、落ちた葉が地に重なり、その保温効果の下で

翌春に命を再開させるため、多くの生命が静かに過ごしたり、卵として

種を残していく。

 

あまりにも当たり前のような自然界の巡り、ではあるけれど、

その各種の命は、複雑な編み目を持って信じられないほど美しい絨毯として、

精密で息をのむ『ガイア生命体』として、強固な全体生命を編み上げている。

 

太さ、強さ、粘り、光沢、様々な種類の糸があり、それが命を編み上げている。

何千、何万という種類の糸があり、それが複雑でありながらも一定の秩序を

保って、見事な全体を展開させている。

 

 

 

こうしたことは、五感(視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚)に訴えてくる

世界の調和だろう。糸の喩えで言えば、五感のうちの視覚だ。

この強固な全体生命は、人体の外側、個の外側にある。自然賛歌のような

多くのドキュメンタリー映像もある。

ただ、そこで転換が必要になる。
 

内にあるがごとく外にもあり。上にあるがごとく下にもあり。

つまり、個々の人体の内側にも、その生命体を持続させるために

精緻で秩序だった営みがある、ということであり、

それを感じるのは五感といえば五感かもしれないが、脳に届く情報のうちの

五感を統合したチカラ、生命を感じるチカラ、敢えて言えばそれを六感と

言っていいのかもしれない、そうした感覚によって、人体の精密な働きを

感じられる。

感じられる、ということが知識より重要だ。というのは、それは体験となる

から。知識は脳の表層にとどまる頼りない浮遊に過ぎないが、体験は脳の

奥に刻まれる『生きている証』になりうるから。

 

生命を感じるチカラ、第六感が、自らの内側に起きている現象を

感じさせる。

生命の調和か、さもなければ不調和か。不調和であれば

それがどのような現象(病気)に導くのか。

そして、そのチカラが拡張すれば、何かの危機を感じさせる。

色々な動物が地震予知をするがごとく。

それは特殊能力だとか、オカルト的に語られる能力ではなく、

また個々の訓練の結果としてのみ喧伝されるようなことでもなく、

社会全体が生命を喜ぶ、その神秘に驚嘆する文化を持っていれば、

その文化のなかで生きていれば、誰でも当たり前に有する能力だと思える。


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かつて東南アジアのごく小さな国の小さな街で、手押し車で包子のような

肉まんのようなものを売る素朴なおばちゃんから、おやつに一つ買った。

それは全粒粉の、微細な藁も少し混じった小麦でできた包みと、

おそらくはおばちゃんが切り刻んだであろう地場野菜と肉がふんだんに

入っていた。

食べ終えた後、ある種の衝撃に襲われた。

当時の日本円で30円ほどで買ったそれは、300円出して買ってもおかしくない

エネルギーに溢れた自然な美味しい一品だった。演出された工業品のような

食品ではなかった。

 『私は価値に見合う対価を払わず、270円をかすめ取った』

 『それが先進国と後進国と呼ばれる歪みのなかで起きていること』

 『同じ労働時間であっても、車を買える人と、生涯買えない人が生じる』

言葉にするとそんな感じだったろうか。

一瞬でそれらが脳にこだまし、貨幣価値に依存する現代社会、その固定観念

がコンクリート状に固まった脳に、強い亀裂をもたらした。

 

 

疑問、それが最初だと考える。

 


疑問を持つこと、問うこと、興味を持つこと、それらが無ければ、
ただ生きて、ただ死ぬ、生命の循環に加わる一部として終わる。
知識だけ増やして、処世術だけ学んで、自らの命を知らず、

精密な生の営みが内側で起きていることの驚異に気付かず、

去らざるを得ない。

 

私のなかの命の営み、それを自ら知らず、分かろうとせず、

『現代医学』と呼ばれるある種の宗教的なイデオロギーに包まれ、

白い錠剤を毎日摂取することを無思考に受け入れる。

それと、自然の営みや地球の環境に無関心であることは、まったくもって

同じであると思える。

内に無きがごとく外にも無く。上に無きがごとく下にも無し。

自分の呼吸に興味が無ければ、

四季を通した自然界の呼吸にも興味が湧かないだろう。

自分の口から肛門にかけての管に神秘を感じなければ、

野生生物の食物連鎖の秩序にも神秘を感じないだろう。

 

 

 

 

自分の内側へと興味が湧けば、現代の『当然』とされる常識にも

たくさんの疑問が湧くだろう。

それらに答えてくれるのもまた自分自身の内側だと思う。

思考で分かることではなく、人類の病理、性癖として感じ取るものだと思う。

それまでは、無理に答えを出す必要もない。
ただ、そうやって疑問を持ち続けるのはある種の苦痛が伴いやすい、

ともいえる。

共有できる人がいない孤独という苦痛が、

一般社会で埋没して生きようとすれば葛藤が、
忘却して生きようとすれば自己喪失感が、

やってくるかもしれない。

 

歴史を観れば、持続した文明はない。どれほど完成された支配体制だと

しても、人間性に反した、命に反した体制は継続できない。せいぜい数百年だ。

大きなパラダイムシフト、価値観の転換は、いずれやってくる。

それがいつかは問題ではないけれど、それが起きた後、

疑問を持ち続けた人々が、苦痛に負けて自らを失ってしまっておらず、

新しい価値観へと他の人を導くような存在であってほしい。