鈴木健夫の-福音的-どたばた日記 -197ページ目
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結審直後に考えていた事

 もし、タイムマシンがあったとして、どこまで戻ったら、満足のいく人生が再開できるのだろう。

就学以前は年に4~5回も風邪を引くウンコたれだったし、小学校では低学年の担任がやっと探してくれた良い芽を高学年の担任はすっかり削り取った。中学校では貧血でまともに運動が出来ず、それでも無理に続けたバスケットでは1勝もあげられなかった。生まれて初めての告白は最初の失恋になり、あっという間に受験戦争に追い込まれた。高校に入ってからは世の中の枠組や金の苦しみがもう始まっていた。2浪して入った大学では一人の友人も作れなかった。

  両親はいつもこの世に対する正義の規範であった。彼らの言う事は託宣と思い疑うことが無かった。その言葉を信じた言動で失った友人も何人かいる。

「お前のお父さん×××なんだってな」

 二十歳を過ぎても親の言いつけ通りの私はゼミの教授から、かえって親不孝だと指摘され、同時に「人間失格」を読んで怯えた。

 それならばと、卒業と同時に家内と籍を入れ、彼らの名前を棄てた。親に事後報告したのは3ヶ月後であった。全くもって救いがたい 。

 一体どこまで戻ったらまともに暮らすために必要な人格形成がやり直せただろうか?そして幸せと感じる生き方ができただろうか?

 でも、タイムマシンなど無かった。また、どこまで戻っても、結局同じ道を辿ったであろうと諦めがついた。人も国もあてに出来ないと知って、ようやく神に行き着いた。

  14年振りに再会した父親に頭を下げて、家に戻してもらえることになった。ただし条件として「惠泉塾」への入塾を命じられた。父親本人はクリスチャンでもないのに、全く不思議な人だ。 44歳という年をラストチャンスと思って期待していた部分もあり

「苦労がみ~んな報われて、健夫は幸せに暮らしましたとさ。めでたしめでたし」

というのを想像していた。

 ところがイエス・キリストの説く天国への道は違った。

「人は神の僕(しもべ)として創造された」(しもべって、奴隷じゃん)

「神の御旨(みむね)を行う者だけが天国に入る」(神のように行えってこと?)

「私心は無用。油注がれたサウルも、その誘惑で滅んだ」(それじゃ、ヤクザの契りの杯だよ!)

こんなこと信じちゃって良いのか??? 

 これが「惠泉塾」で初めて聖書を開いた感想でした。

「目が見もせず、耳が聞きもせず、

人の心に思い浮かびもしなかったことを、

神は御自分を愛する者たちのために準備された」  コリントⅡ 2:9

事件のお蔭でキリストに出会えた。

こんなことでもなければ、私がクリスチャンになることはありませんでした。

高校時代の友人は「それは新手のナンパか?」と聞き返しました。最初に入った会社の友人は喫茶店で吹き出して、水をこぼしました。それほど私は「世間が抱く信仰やクリスチャンという精錬潔白なイメージ」とは遠い存在だったのです。彼らは皆、事件の事を「自業自得」と思った事でしょう。

しかし、この事件のお蔭で「キリストの恵にすがる」ことが出来たと思います。また、「惠泉塾」keisenjyuku.ftw.jp 以外では、それが不可能であったことを書き添えます。

周防正行監督の「それでもボクはやってない」の試写会に行ってきました。

試写会に当って11日に観てきました。

 まず最初に申し上げておきたいのが「同じ痴漢冤罪裁判を味わった私が、感情移入が出来なかった」という感想です。

映画そのものは「ああ、そうそう。その通りだった」という、私の記憶にも残る箇所がいくつもあり、見事にリアルなドラマに描かれていました。にも関らず感情移入できなかったのは、実際の裁判がなんのドラマ性も期待できない、あまりに陳腐な出来事であったからだと思います。

しかし、ここにこそ「痴漢冤罪裁判」の本当の闇があります。取り調べの刑事が言っていましたが、痴漢=迷惑行為防止条例違反は交通違反並みの罰金刑です。認めた別の犯人はすぐに帰っていきました。

ところがやっていないのだから裁判で闘うと決めたとたんに「人生を賭けたルールの解らないゲーム」になってしまうのです。「本当におしりに触ったかどうか」を容疑者(この呼び名は結構むかつく)は将来を賭け、警察・検察はメンツを賭けて「5万円の罰金刑」(2002年当時:現在は3050万円の罰金もしくは懲役6ヶ月)を争うのです。

 私の場合は1審有罪、上告、2審で無罪は勝ち取ったものの、判決までの2年間に会社を追われた上に、3百万近い借金も背負いました。

また精神的なダメージも相当なものでした。例えば「台所の電気つけっぱなしだったでしょう?」というような些細な嫌疑にさえ、「絶対オレじゃない!第一ゆうべ最後にここに来たのは・・」という具合に「過剰な自己弁護」をしてしまうという症状?に悩まされました。

私達の中には「最後は正義が勝つ」という、ほぼ無意識の期待があります。依り頼む先は友人・知人、親兄弟、お金、法律、国家、お天道様や神様と順序の違いはそれぞれでも、上にいくほど「まさか裏切らないでしょう?」という「夜明け前」的な期待の元で暮らしています。私も「連行されるパトカーの中でも、警察で話せば解ってもらえると思っていた」と弁護士に話すと失笑を買いました。

ところが取り調べ・調書作成の過程で「警察はどうしてもオレを犯人にする気だ」という事が分かってきます。映画の中の刑事たちの態度、検察庁での副検事の態度は、まさかと思われるでしょうが、全くあの通りなのです。

痴漢に間違われる→駅事務室に行く→警察に連行→取調べ(否認)→拘置→起訴→裁判(有罪率99.9%:私の担当官は100%と豪語しました)というでっちあげの仕組み「痴漢犯人生産システム」が出来上がっているのです。

無罪判決の後でさえ刑事、副検事、1審の裁判官を殺してやろうと本気で思っていました。いっそ殺人犯の方がまだ納得できる。それほどのやり場の無い怒りに見舞われます。

さらに過酷なのは、それが「日常生活に入ってくる」という事です。裁判所でのやり取り、留置場での出来事は非日常の闘争状態ですが、家に帰ったとたんに、仕事はどうする?保釈金が返ってくるまでの生活費は?家族への影響は?等の、「現実(いつも)の生活」に引き戻されるのです。常に襲う「もし有罪だったら」という恐怖と怒り、それでも家に帰ればいい父親、いい主人、いい住人を期待されるのです。そんな精神状態の中で3ヶ月先の次回公判を待つのです。この生殺し状態が2年間続きました。

 無罪を勝ち取ってから年が過ぎ、最近ようやく友人や知人に事件の話が出来るようになりました。それはキリスト教に出会い、洗礼を受け、神様が本当にいることを信じることが出来たからです。そうでなければ、わが身に降りかかった「理不尽」に耐えられず、本格的に精神を病んでいたことでしょう。

「雨の日に道を歩いていたら、さしていた傘に雷が落ちた。そう思うしかないんだ」という弁護士の一言が、今は懐かしく思い出されます。

この映画が逮捕・取り調べ・司法判断に影響を与え、1件でも冤罪が減る事を祈ります。

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