適当に街を歩いています。
あとは、聖ニコライ協会に寄ってみようかと。
 

 
印象的な像があったので、撮ってみた。
ドイツ語は、なんて書いてあるんやろ。
 
 
メンデルスゾーンの家から出ると、ゲバントハウスとライプチヒ大学が歩いてすぐのところにある。
しかし、メンデルスゾーンの家は、大きかった。
相当、富裕だったのだろう。
若いころ、メンデルスゾーンは、ヨーロッパ各地を旅して、見聞を広めたそうです。その旅が、イタリアにいったら、イタリアに3か月くらい滞在し、といった具合だったようだ。パリ、ロンドン、などにも滞在している。
もともと富裕な家に生まれたというのもあっただろうし、その後も、ヨーロッパ各地へ頻繁に出向いていており、おそらくは、オーケストラや作曲の仕事で相当な稼ぎがあったのだろう。
 
 
現代でも世界的な音楽家となれば、飛行機はファーストクラスで移動するような、富裕層になるわけで、メンデルスゾーンもそうだったのではかろうか。
しかし、そんな風になったのは、昔からということではないのだろう。バッハは、1750年に亡くなっている。今の我々には、著名な音楽家バッハだが、死後、住んでいた家は取り壊されるし、バッハ家の持ち物は散逸し、埋葬された墓がどこにあるのかも、よくわからない状態になっていた。今のバッハの知名度を考えると、信じられない扱いである。
 
 
一方、メンデルスゾーンは、1847年に亡くなっている。
フランス革命は、1789年。
このころになると、貴族、王室、教会、といった権威よりも、市民が大きな力を持つようになり、劇場、コンサートには、そこそこ裕福な庶民が通い、音楽家もいい給料を貰い、権威も持つようになったということかもしれない。
バッハの頃には、王侯、貴族、教会のもとで、一職人として働いていたわけで、それなりの立場にはあったのだろうが、偉大な音楽家バッハ、というほどでもなかったのでは。墓もどこにあるのかわかりません状態になるくらいには。
 
 
聖ニコライ協会にきました。
ここで起こったデモが、ベルリンの壁を崩壊に導く契機になったことで有名です。
 
 
デモでは、犠牲者が出なかった、無血であったことが、誇ってよいこととして語られているそうです。
このあたり、この国の良識だったんじゃないかと思う。
日本だと、安保闘争で、時の岸首相が、自衛隊の治安出動を要請したことがあったらしい。
天安門や香港では、デモは鎮圧された。
 
 
教会の中は、撮影禁止でした。
外側から見てもわかるように、相当に大きな教会だった。
 
 
そこから駅に向かって歩いているとマリオットホテルがありました。
こちらに泊まるという手もあったか。
もろ中心部にあって、何かと便利そうだ。
壁に描かれた絵が面白い。
 
 
こちらは、ライプチヒ造形博物館。
 
 
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使える、ライプチヒカード。