カフカ・ミュージアムへ
カフカはチェコ出身の作家で、ドイツ語で作品を書いていました
意味深なKの文字が。
もちろん、カフカのKなのだろうし、あるいは、ヨーゼフK? 測量士K? あるいは、カールロスマン?

残念ながら、中は撮影禁止だったので、外観、入り口、ギフトショップの写真しかあげられません。

カフカが家族や恋人、マクス・ブロート等に当てた直筆の手紙が、大量に展示されていました。
英語、ドイツ語、チェコ語の併記で説明されており、英語を読むのが大変だった。
カフカはプラハ出身だが、当時は、オーストリア、ハンガリー帝国領プラハ。支配者階層の使うドイツ語で作品を書いていた。
このあたり、チェコの国民的作家、ということになるんだろうか。チャペックやハシェクなんかと、違ったりしないんだろうか、地元の感覚では。
チェコは言語諸共に抑圧されてきた歴史があるので、スメタナとか、ドボルザークとか、民族的な自立と絡む文脈で語られる芸術家が称揚されるきらいがある。
もちろん、カフカは、間違いなく、世界的な作家なのだが。

展示の中に、父の反対で結婚できなかったという、ユーリエの写真があった。
初めて見たけど、清楚な感じの美形だった 笑

城、審判、変身の初版本がありました。
(他にもあったかもしれん)
カフカは、結核で、40歳で亡くなります。
死後に、遺作となった原稿は、全て破棄するようにマクス・ブロートに言い残すのですが、ブロートはカフカ生前の意思に反して、出版したのでした。

下の写真は、カフカの家、とグーグルマップに出てくる建物なのだが、その類の施設は見つけられなかった。
建物にカフカのレリーフが置かれています。
Wikipediaにカフカの印象的なエピソードがあったので、引用しておきましょう。しばし、カフカの世界に。
「カフカの晩年のエピソードとして、ドーラ・ディアマントより次の様な話が伝えられている。
ベルリン時代、カフカとドーラはシュテーグリッツ公園をよく散歩していたが、ある日ここで人形をなくして泣いている少女に出会った。
カフカは少女を慰める為に「君のお人形はね、ちょっと旅行に出かけただけなんだ」と話し、翌日から少女の為に毎日「人形が旅先から送ってきた」手紙を書いた。
この人形通信はカフカがプラハに戻らざるを得なくなるまで何週間も続けられ、ベルリンを去る際にもカフカはその少女に一つの人形を手渡し、それが「長い旅の間に多少の変貌を遂げた」かつての人形なのだと説明する事を忘れなかった。」
