事物は実践的<関心>によってのみ”存在”する。Ⅰ(再び『危機』解説その7) | takehisaのブログ

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みなさん、こんにちは。。このブログは「自分はどう感じるか」から「出発して」それを突き詰めていったフッサール現象学の解説書、竹田青嗣『現象学入門』(NHKブックス)を「関西弁訳」してわかりやすくしようとする試みです。今日もフッサールの『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』(『危機』と略)の「生活世界それ自身を普遍的な学的考察対象とすべきこと」について触れた部分を扱っていきます。

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いま<私>の目の前には机があり、その上に原稿用紙や本や、ペン、ハサミ、タバコ、灰皿、コーヒーカップなどがある。さらに<私>はひとつの部屋の中におって、また部屋の中には本棚やコピー機、ソファー、窓、ドアなどが<私>と共に存在しとる。

ところでこれらの事物は、”<私>にとっては”、けっして単に「たまたまあるときに与えられ」ている事物存在なんやない。原稿用紙や本やペン等々は、原稿を書こうという<私>の”関心”に応じて<私>にとって存在し、まさしくその理由で、固有の意味と価値の秩序として存在しているんよ。

もしもペンの調子が悪ければ、<私>は新しいペンを机の引き出しから取り出して使おうとするやろう。予備のペンやそれを入れておく机の引き出しは、そのとき、調子よく書くためのペン、それをしまっておくための引き出しいうそれぞれの意味と価値を孕んで存在する。また、ペンや引き出しという存在の意味-価値の秩序は、原稿を書くこと、書くことで生きているといった<私>の生のありようの”意味”にまで繋がっているんよ。このように、<私>のまわりに存在する一切の事物は、<私>の生の実践的関心に応じてだけさまざまな意味-価値の秩序の「地平」をそのつど形成しているんや。

ところでこのように言うと、それは事物の意味と価値の話であって、たとえば机それ自体、ペンそれ自体は、人間の関心に対応して現れる意味-価値の秩序には関係なく存在しているはずや、いう考えが出てくるやろう。しかしよう考えてみるとそうやあらへん。そういう考え方がまさしく<主観-客観>図式のたまものなんよ。

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みなさん、ここまで読んでいただきありがとうございます。今回はわりとあまり抽象的でない具体的な話でしたね。具体物に「原稿用紙」、「ペン」が出てくるあたり、このブログの元本の出版された時代(1989年)を感じさせます。それでは、また次回。