生活世界と客観的世界、どっちが「学的」対象?Ⅱ(再び『危機』解説その4) | takehisaのブログ

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こんにちは。このブログは「自分はどう感じるか」から「出発して」それを突き詰めていったフッサール現象学の解説書、竹田青嗣『現象学入門』(NHKブックス)を「関西弁訳」してわかりやすくしようとする試みです。今日はフッサールの『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』(『危機』と略)の「生活世界と客観的理念的世界との関係」について触れた部分を扱っていきます。

 

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フッサール先生はこう書いたはる。

 

生活世界の主観的性格と、「客観的で」「真の」世界の対比は、いまや次の点にある。つまり、後者は理論的・論理的構築物で、原理的には決して知覚できへんで、また原理的にその固有の自体存在について経験できへんもんの世界なんやけど、いっぽう、生活世界的に主観的なもんは、すべての点でまさしく現実に経験しうる、いうことによって特徴づけられる、いう点や。(『危機』第34節 d)

 

せやから生活世界こそが「根源的な明証性領域」なんよ。近代の実証主義は<主観-客観>図式を前提としてるよって、この事情を逆転してしもうた。科学が求めるべき真は理念的な領域にあり、生活世界は「単に主観的、相対的やいう理由から、この主観性、相対性は「克服」されるべきもんと考えられた。このことから、生活世界は「匿名のまま」学的な対象からとり残されたんよ。

 

こないして、フッサール先生によると、近代科学の発想とは逆に、むしろ生活世界こそが、それが持つ主観性、相対性の”普遍的構造”こそが、真に学的な対象とされなあかん。なんでかいうたら、従来の客観的世界の真理が、原理的にはそれ自体では明証性を得られへんもの、また原理的につねにひとつのフィクションにとどまるもんであるのに対して、生活世界の主観性の構造は”いつ誰が行なっても、その普遍性を明証として確かめうる”ような対象領域やからなんよ。

 

この主張は、『イデーン』での<超越>と<内在>の原理と対応しとる。<超越>が原理的に「絶対的なもんを与えへん」性格を持つんに対して、<内在>は、それがもはやそれ以上<還元>不可能なもんやという理由で人間にとって絶対的に直接的なもんとして与えられとるんよ。つまり学的世界と生活世界の関係は、この<超越>と<内在>の関係にそのまま重なってるんよ。

 

学的世界は本来さまざまな臆見に覆われたフィクションの世界やけど、その源泉としての生活世界の領域は、誰でもが持っている主観性の構造の領域やし、せやから、あたかもひとが臆見や推論なしにひとつの目前の対象を見て取るように、そのありようをあるがままに観て取る(本質観取する)ことのできる対象領域や、いうわけや。

 

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みなさん、ここまで読んでいただきありがとうございました。今年も残すところあと一日だというのに、われながら何をしているんだろうと思いますが、来年もよろしくお願いしますm(_ _)m。よいお年を。