意味を与えるもの(イデーンⅠ解説その8) | takehisaのブログ

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 みなさん、こんにちは。今週もフッサール現象学の『イデーン1』解説(関西弁)の時間がやってまいりました(笑) 先週の拙文に「いいね!」をしてくださった方は、8人にのぼりました。人気ブロガーの方には笑われそうですが、自分としては最高記録です。あ、それから、またお1人の方が読者登録してくださいました。感謝感激雨あられですm(_ _)m さて、今日の元本(竹田青嗣『現象学入門』NHKブックス)のページ数は多いです。今週も、途中でコーヒーブレイクをいれながらどうぞ。そうでもしないと、頭がパンクしてしまいます。それでははじめましょう。今回も、「一話読みきり」です。

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 ぼくらは、現象学的な<自我>を、もうそれをどこにも還元(括弧に入れること=エポケー=判断停止)できへん極やっちゅう意味で、ひとつの「絶対的な経験」と呼べるわな。フッサール先生が言わはるには、「この『絶対的な体験』こそが、経験的な体験を成り立たせる前提や。」(第54節)。フッサール先生は続けて、こうも言うたはる。

 「ちょっと慎重にしたら、ひとはこうも言えるんや。すべての「実在するもんの統一」ちゅうちょっとむずかしい概念は、「意味の統一」(これも難しいよって、あとで説明する)やと。「意味の統一」っちゅうのは、意味を与える意識を前提としとって、この意識は絶対的や。さらに言うたらこの意識は、何かから意味を与えられるっちゅうわけやない。自分が与えるだけや。」(第55節 結び。すべての実在は、「意味を与える」ことによって存在しとるっちゅうこと。このことは、何かの「主体的な観念論」やない)


 これだけでは、わけがわからんから、もっと噛み砕いて説明しよか。人間が現に生きとるありありとした「実在」の世界は、「意味の統一」や。これでも、ようわからんから順を追って考えてみよか。

 「これは机や」、「これは友人某や」、「ここはぼくの家や」。これらの確定はみんな現象学的に言うと<超越>やった。こないな現実の認識は、ふだんは自明なもんや。せやけど、これを疑わんならんようになったとき、ぼくらは、いつも必ず<内在>(たとえば、「(机が)茶色い」といったリアルな感覚)にまで戻って、これを確かめられるんよ。

 人間が生きているありありとした世界の感覚は、いろんな<知覚>の体験の流れから、そのつど<意識>の「何かに向かう統一」によって与えられているもんよ。フッサール先生は、この「何かに向かう統一」を難しい言葉で、「意味統一」とか「意味付与」と呼ばはる。たとえば、<意識>がある痛さを感じたときに、それがたとえば父親に叱られて頭を殴られたっちゅう意味がわからへんかったら、この痛みは、くやしいとか情けないっちゅう感覚を伴なった、日常のありありとした事象(実在)として経験されへんのよ。

 こないなことから、ぼくらが生きるうえでのありありとした経験世界(=事象の実在)はもう、「絶対的に与えられてる<意識>の体験」からなんか変化を受けたっちゅうこっちゃな。

 せやけど、ここでもいくつかの疑問が生じるやろう。整理してみよか。
①フッサール先生は、いろんな表象(知覚、思い出すこと、記憶、想像なんか)の「体験の流れ」(表象が続いて起こること)が<意識>の「絶対的に与えられてること」、「根源現象」やと言うたはる。せやけど、ぼくらの<意識>にいつもすでに「何かに向かう統一」っちゅうもんが働いてるんやったら、純粋に、いろんな表象の「体験の流れ」なんか、ほんまは誰も体験してないんちゃうか。それやったら、むしろ、「ありありとした経験世界」の”現れ”こそ「根源現象」ちゃうか。で、現象学的な「体験の流れ」っちゅうんは、逆にひとつのフィクションちゃうか?
②フッサール先生は、「何かに向かう統一」を可能にするもんとして<意識>の「意味付与」なるもんを言わはる。せやけどこのとき、<意識>が対象に意味を投げ与えていると言えるんやろうか。具体的な経験では、<意識>はもっと受け身の側面を持っとる。せやから、「意味付与」を具体的な根本のきっかけとするんはおかしいんとちゃうか?

 まず①について。ありありとした経験のその前の段階に、「体験の流れ」っちゅう絶対的な体験をもっとる、とフッサール先生が言わはる理由をよう考えてみようやないか。それは、たったひとつのことから導かれてるんや。「机がある」「友人がいる」いうありありとした経験的な世界は、もとから、じつはそうやなかったいう「疑いえる可能性」を持っとるちゅうこっちゃな。そして、、ここで生じた「疑いえる可能性」は、反省されて、<自我>の<内在>の体験によって確かめられ、しかもそれ以上はけっして確かめられへんいうこと。このことで①の批判は反論されとる。

 ①の批判は、ありありとした経験と反省(内省)とは違うっちゅう点にポイントがあるんよ。けどじつは、人間のどんな経験も、ある対象に直接むきあっているとき、同時に、自我が何をしてきて何をしようとしているか、っちゅう自分の行為をつかもうとする視線を、すでに含んどる。これが人間の経験の特質や。つまりどんな経験もいつももうある種の反省的な把握を前提としとる。

 せやから、フッサール先生が、「絶対的に与えられていること」と呼ぶんは、これが<意識>の根源現象やという意味やなくて、ただ原理的にはこのレベルが、それ以上反省できへん限界や、と言うてるだけや。ついでに言うとくと、「それ以上反省できへん」いうのを難しく言うたら「意識が、おのれについてその因果を知ることができへん」いうこっちゃ。

 つぎに②についての反論や。フッサール先生が、「意味付与」言わはるんは、”意識的”(恣意的)な「意味付けること」やない。むしろそれは、ものごとから概念的なもの(意味)が直感として与えられることや。またそれは、”意味”の連鎖(父親にぶたれて痛い)として与えられるもんよ。また、この”意味”は、知覚なんかの表象そのものがもたらすとは言えへん。<意味>の直感は、それぞれの<意識>のちがいを持っとって、せやから、<意識>のほうに要因があるっちゅうことになるわな。

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 みなさん、ここまでお読みいただきありがとうございました。今回は、概念が込み入っていて読みにくかったと思います。よければ、何べんか読みなおしてください。そしたら、意味がおのずと見えてくると思います。所詮は、日本語で書かれたものです(関西弁ですが 笑)。と、自分の文章を整理する能力のなさを棚に上げつつ(笑) ではまた来週(^_^)/~