人は人を愛すことが出来るから、好意を持つことも可能なのだと思う。
しかし、好意はあくまでも実質的な見返りを前提とする態度に基づくのであって、それを
どんなに突き詰めていっても愛とはならない。 勿論、好意を持つことが悪なのではない。
好意とはある視点から見た動機であって、愛とは両極の関係にあるような生に対するアプローチである。 つまりそれは生が持つ特定の側面に対応しているのであり、種を存続させる上では有効に働く場合があるのである。
しかしながら、好意も度が過ぎればそれは一種の功利主義であり、たいていの場合本人を苦しめるのであるが、どのような状況や結果に転んでも、思考に融通を聞かせて切り抜けるには、やはり相手に対する感情を、好意から愛へと切り替える必要があるだろう。 分かり切ったことではあるがそのように勧める理由は、愛が他利益的な動機だからである。 相手の持つ好ましさにとらわれることは、その人の世界観に観念を生じさせるが、それが人間関係に対する執着に繋がる。しかし、愛の受容性がそのような束縛から解放してくれるのである。
このことにつけて、人格破綻における社会と個人の相互作用を考えるのだが、この考え方は心というものが、他者との関係のあり方に条件付けられて成り立っているものとみなすことを土台としており、いさかいが発生した社会に帰属するすべての成員が、問題を解決することに関して、当事者意識を持つべきというものである。