3年前ぶりのブログですが。
まぁ、戦争経験者の親が言っていた事を残そうかなと書いております。
還暦も4年前ほど過ぎました。
考えてみたら自分が若い頃大人は全員戦争体験者でした。
今の我々と比べるとしっかりした大人だったなと思う。
そんなんで、今回は「母が語った戦争」です。
母は終戦時13歳でした。
落下傘(パラシュート)工場て働いていた様です。3月に国民学校を卒業していたので。
世の中がゴタゴタしていて、母が言うには卒業証書をもらえなかったといっていました。
紙さえ都合できなかったのでしょうか?
母の話で印象深かったのは、空襲で隣町が火事になった時は次の日に雪の様に灰が降ってきたといっていました。
空襲の火の強さと、日本の木造家屋ならではかな?と、思いました。
火事で次の日まで灰が降るとか経験がないです。
町ごと焼けているので空に舞った灰の量が凄いのでしょう。
上から落ちてくるものに米軍のチラシがあります。日本人を説得しようと日本語で戦争を諦めなさい的な文章が書いてあったそうです。
アメリカ人は怖くないもあった様です。
母の記憶と私が子供の頃に聞いた事なので、実際のチラシと違いが有るとは思いますが。
それと、電波を混乱させるためにアルミのリボンをまいたそうです。
銀色のキラキラが空から降るのはキレイだったそうです。
アルミが降るのは楽しみだったらしいです。
軍は偉い迷惑な事ですが。
母は子供の頃、足に病気が有り通院していました。ずっと通っていたお医者さんは、空襲で焼かれてお亡くなりになったそうです。
次に見つけたお医者さんは疎開?して通える距離ではなくなったそうです。
3人目のお医者さんの頃は診察してくれても、薬が手に入らなかったらしいです。
日本が落ち着くまで足の病気は諦めていたそうです。命に関わる病気では無かったのが幸いだけれど、歩くには問題ないが無かったけれど階段は痛いし、走るのは難しかったので辛かったと思います。
普通の生活は出来ていたけれど母が走るのは見たことが無かったです。子供の頃にしっかり直せなかった影響なのかな?
その分、手先は器用でした。
空襲警報が解けて外で遊んでいると、警報にかからなかった米軍機が日本人を見つけてマシンガンで撃ってきたそうです。
母も後に知った事だと思いますが、米軍機が帰るのにマシンガンの銃弾は重いので軽くするのと遊び半分で撃ち切って戻って行ったと言っておりました。
マトにされた方は命がけですが。
そんな怖い思いは何度もしたそうです。
母は静岡県の東海道辺りなので、軍需工場が多く空襲は多かったそうです。
戦争中は母の姉や兄は軍需工場に行っていたそうです。
働く男は戦争に行っているので、10代が仕事をしていたのでしょう。
10代も後半の男子は戦場に行かさたようですが。後は志願して兵隊に行くのでしょう。
それが、立派な事だと教えられていたのですから。
母の言った事で印象深い事がもう一つ。
それは、もう平和になって戦争も遥か昔になった頃。
戦後直ぐでは伝えられなかった事、戦争に行った人では言えなかった事が時代が変わってテレビで色々伝える様になって母が実感したのでしょう。
「大本営は嘘ばっかり!」
まだ、小学生な年頃。国の言う事は信じ切っていたのです。
日本は優勢に戦争をしていると思っていたのに、南の方では酷い戦闘をしている。
そんな事は一般市民国民には知らせてくれなかった。
母が国の報道が変だなと思うことが一つあったようで。
終戦近く大きな地震がありました。
静岡県も影響があったのに新聞でさえ大した記事にしていなかった様です。
大人たちが騒いでいるのに記事にならない。とても変だと感じたそうです。
長くなったので取りあえず今回は終わります。
(写真も内容には全く関係の無い最近の風景です。)