飲みものほしさにコンビニやスーパーにいったら、必ずといっていいほど2Lの水を選択します。
見ためが目立つために「そんな量をひとりで飲むの⁉︎」とよく言われる。
個人的にちょっとした理由がある。
結論をいうと、
心をやしなうため。
先人の方々とくらべ現在の我々の生活が豊かになっているのは至極当然だし、難民や飢饉に困窮している方々に対して目をむけるべきところもあるが、
にしても、
裕福さは、人の心を退化させているのではないか。
自分に足りないものはなにか、それらはどうすれば身につけることができるのか。
いちばんの方法は、今までと逆の生活をすることだ、
そうすれば自分と逆のものが手にはいるはずだ、と。
だから日常で数限りなくおとずれる、二者択一の場面に出くわしたとき、自分はなるべくメンタル的にきつい、満足度のひくい方を心がけている。
この記事のはじめのように、160円とかの美味しいお茶やジュースや炭酸飲料、よりかは、80円の水。
レストランに美味しいものを食べにいくよりかは、コンビニですませる。
もちろん大切なひととの楽しい時間や同窓会や歓送迎会、自分の体調が本当に栄養失調気味など、それをするとあまりにもネガティブな要因がうまれるときは例外である。
上にならべたのは持論だけど、こういったことをきちんと頭で理解したうえでやっていると今まで自分に足りなかったもの、つまり「裏の自分」がみえてきたような気がした。
音楽や落語、演劇やコントでも、なじみの薄かった作品がちがう視点で観れ、面白さがさらに増してきた。
仕事でもコミュニケーションや取り組みに些細ながら変化がみられる。
たとえばオードリーの春日さんなど、いわゆる「売れっ子」になっても日常生活を質素にされているのは最初それをネタにして笑いをとるためかな、って思ってたけど違うのかなとも思えてきた。
何事も塩梅ですね。きっと。